「バナナのあんよ」──楽譜と喧嘩する女
「みくちゃん、また足がバナナになっとるでぇ!」
幼い頃、靴をよく左右逆で履いてしまい、友人母からよくバナナ呼ばわりされていた。
"おばちゃん、またうちのことバカにしてからに。バナナで悪かったな"
友人母の肩を借りて、右と左をよいしょよいしょと無表情で履き替える。
「足先がそっぽ向いとったら逆やけんな。ふふ」
どことなく楽しそうなおばちゃんを尻目に、"左右なんかどっちでも一緒やろ"と内心で文句を垂れながら、さっきより圧倒的にしっくり来ている足元をジロリと睨む。
バナナは逆、バナナは逆。今度こそ笑われてやるものか。鉄棒にぶらさがりながら、しばらく唇をとんがらせていた。
物心ついた頃から、ピアノを習っていた。ずっと教わっていた背の高い女の先生は、隙あらばウケを狙ってくる人で、リアクションが常に少しだけオーバーだった。先生の全ての言動をジョークだと思い、何を言われても私がニタニタと笑うので、10回に1回は「こら、真面目に」と小突かれた。
ある日、練習終わりに迎えに来た母に、先生が不思議そうに言った。
「みくちゃんって、左利きですか? 指番号とか、ここはこうだよ〜って何回教えても、直ってないことがあって」
おかしい。我が子は生まれつき右利きである。
「いえ、右利きです。すみません天邪鬼な娘で……」
帰宅後、当然そのことを母に突っ込まれたわけだが、私には全く心当たりがなかった。極めて従順な生徒でいたつもりで、歯向かった記憶は一切なかった。
強いていえば、私にとって楽譜は、「この曲はこう弾きなさい」という知らない人間からの指示書であった。知らない人間からの指示ほど、鬱陶しく不愉快なものはない。作曲家へのリスペクトとして、音符や強弱記号、速度記号に従わなければならないのは、まあ分かる。けれど指番号まで指示されるのは、話が違う。私には私の「ゆび事情」がありますもの。大体、楽譜なんてごちゃごちゃと指示ばかりで口うるさいのだ。
こんな人間に、ピアノは向かない。限られた給料から高いお月謝を出してもらっていたのに、「そこそこ弾けるけれど何になれるわけでもないレベルの腕前」で終わってしまったのは、ことある事に楽譜と喧嘩してしまうからだ。
こんな面倒くささは、生きていくうちに自然と薄れていった。皮肉屋より素直な人の方が世渡り上手だし、人の言うことはすんなり受け入れた方が話が早い。でも、ふとした瞬間に、「指番号を守りたくない私」が顔を出すのである。
先日の帰り道、いつものように歩道橋の階段を降りている時のこと。なんとなく、もやついた違和感が浮かんだ。あれ、この感覚はなんだろう。自分の足元をじっと見つめる。右、左、右、左。ほとんど無意識に、少しの慎重さを保ちながら一段ずつ降りていく足元を見て、ハッとした。
「階段って、楽譜なんだ!」
そう。階段とは、「 この段差をこれぐらいの歩幅で歩きなさい」という、知らない人間からの指示なのだ。それに気づいた時の、感動と言ったらもう。
同時に私は、安堵感さえ覚えていた。これまで面倒なことに出会うたび、なるべく波風を立てぬようにと、標準的な人間であろうとしてきた。でも、面倒くさい自分は、まだ死んでない! 蓋をしているだけで、根っこの私はいつも面倒なのだ!
いやあ、これは、遠方に住んでいる旧友と久しぶりに再会できた時みたいな嬉しさだ。私はニタニタと不適な笑みをこぼしながら残りの階段を降りていき、信号に差し掛かる。そうだ、思えば信号だって、「この横断歩道はこれくらいの秒数を待ってから歩きなさい」という指示だ。ああ、生活って、なんて指示まみれで面倒くさいんだろう!
後日、一人暮らしの自宅にピアノが届いた。ネットで注文した3万円のキーボードだ。自宅の引き出しの奥にあった、昔の楽譜を引っ張り出し、広げてみる。やはり黒々しい。知らない人間からの指示まみれだ。
私は楽譜を床に放り投げ、記憶を頼りに、ぽろんと和音を鳴らしてみる。3万円の割には、本格的である。「お前、やるなあ」。
それからというものの、ヘッドフォンからは、誰に聞かれることも指示されることもない音楽が、夜中まで鳴り響き続けていた。
