
北朝鮮で逮捕された日本人-近けれど遠い監獄-
2008年2月、北朝鮮・羅津(ラジン)。
公安施設の取調室に、窓は一つもなかった。
薄暗い照明が、木の机と数脚の椅子だけを照らしている。壁にも天井にも、剥がれたペンキの跡が残っていた。
机の向こうで、取調官の男が書類をめくっている。一言も発しない。指の動きだけが、機械のように正確だった。
ドアの前には、銃を持った兵士が二人。微動だにせず、目だけがこちらを追っていた。
取調官が口を開いた。
隣に立つ女性通訳が、まるで何度も練習していたかのような流暢な日本語に置き換える。
「あなたは、為替法違反および関税法違反の容疑で逮捕されます。国家反逆罪にも匹敵する、極めて重大な行為です」
頭の中が、真っ白になった。
取調官の言葉は、その後も続いていたはずだ。耳には何も入ってこなかった。
自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。
ここから日本までは、海ひとつ隔てるだけだ。
私は今、近けれど遠い監獄にいる。
1.筆を置いた日
1944年、私は福島で生まれた。
父の仕事の都合で各地を転々とした末、家族は北海道に落ち着いた。父はそこで木材加工の会社を営んでいた。両親は厳しく、そして愛情深かった。
甘やかされたことは一度もない。その代わり、人としてどうあるべきかを叩き込まれた。規律の中に温もりのある家で、私はのびのびと育った。
大学では絵を専攻した。師は山本蘭村、周譲吉。
絵は、私にとって"もうひとつの言葉"だった。心の奥にあるものを形にできる瞬間だけは、何よりも好きだった。
在学中、仲間と創作集団「グループパトス」を立ち上げた。"pathos"はギリシャ語で「感情」「情熱」を意味する。見る人の心に訴える絵を描く。それが私たちの旗印だった。
金はなかった。それでも毎晩のように絵筆を握り、夜を徹して語り合った。自分たちの"何か"を、必死に掴もうとしていた。
その日々は、母からの一本の電話で終わった。
「お父さんが、事故に遭ったの」
病院へ駆けつけると、父は意識不明の重体だった。命は取り留めたが、長期の入院が決まった。会社の経営は止まり、家族は支えを失った。
その日を境に、私は筆を置いた。経営者としての人生が、そこから始まった。
入社後の日々は、まるで別世界だった。見慣れない帳簿をめくり、現場を歩き、社員の叱責に耐えた。自分の一つの判断が、多くの人の生活を左右する。その重さに、何度も押し潰されかけた。
逃げるという選択肢はなかった。家族と残された従業員の生活を守らなければならなかったからだ。
2.延吉という街
時は流れ、1990年代半ば。
50歳を迎える頃、私は専務として会社の命運を賭けた決断を下すことになる。
原料となる国内の木材は、枯渇しつつあった。目を向けたのは海外だ。東京・木場の取引先を通じて、中国の木材会社を紹介された。候補地をいくつも検討した末、辿り着いたのが中国・吉林省延吉だった。
現地で工場を立ち上げ、実務経験に長けていた弟に運営を任せた。
弟からは定期的に電話で報告が届いた。中身は、決して良い知らせではなかった。
延吉は多くの民族が入り組んで暮らす土地だ。朝鮮族、漢族、満族、回族。言語も文化も違う人間が、同じ屋根の下で働く。工場内には民族ごとの派閥が生まれ、不協和音が広がっていた。弟は彼らをまとめる難しさを、毎日身をもって味わっていた。
そして、最悪の事態が起きた。
工場内のいざこざが原因で、殺人事件が起きてしまったのだ。
現場の責任者として、弟は次々と問題に直面した。精神的に追い詰められ、酒に頼る日が続いた。電話越しの声から、心が壊れていくのがわかった。
私は決めた。
弟を日本に戻し、私自身が延吉へ赴任する。
日本から指示を出すだけでは、もう限界だった。経営者の責任は、現場でしか果たせない。私は渡航の準備を始めた。