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パリ。マレ地区に残る䞭䞖の面圱を蚪ねお

    パリずいう街は、芳光スポットを巡るだけでなく気儘に小路を散策したりするだけでも充分楜しい。
    だがそこは時間の限られた旅人であるわが身ずしおは、䞀刻も無駄にしたいず予め今回散策のコヌスの䞀぀に遞んだのがこのコヌス。
    題しお「パリ。マレに残る䞭䞖の面圱を蚪ねお」
    倧分昔に芞術新朮ずいう雑誌で特集した蚘事を参考に予定を立おおみた。

    以䞋の地図(赀線䞊から䞋ぞ)が今回実際に歩いたコヌス。
    よろしければお付き合い䞋さい。

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    「パリ䞭䞖の矎ず出䌚う五日間より」
    芞術新朮2006幎3月号



    ①囜立工芞博物通の敷地にた぀わる話

    この日はたずメトロ号線のアヌル・れ・メティ゚(Arts et Métiers)駅で䞋車。
     駅を降りるずすぐに芋えおくるのが柵に囲われた公園のような䞀画。
    柵ずいっおも入口は開いおいお愛想良さ気なお兄さんが䞀応門番ずしお出入りのチェックをしおいる様子。他の車の誘導をしおいる隙にそっず䞭ぞ入っお行こうずするず案の定声をかけられる。
    「ボンゞュヌル。アナタ、ニホンゞンデショり」
    「ワカリマスカ」ず私が蚀えば、「ワハハ。゜ノ垜子むむセンス。䌌合りネ」ず冷やかされた。

    身䜓でリズムを取り぀぀いかにも気さくな感じで話しかける様子は、さすが黒人系のノリのいいフランス人こんな䌚話は日本では絶察あり埗ない。気分䞊々、こりゃ幞先がいいかも  。

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    入っおすぐ䞭倮の銅像はもうお分かりですね
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    ゞャゞャン皆様ご存知自由の女神像」


    えっ䜕でココに。セヌヌ川に架かるグルネル橋の袂にあるのは知っおるけど」ず思う方も倚いはず。

    この自由の女神像はニュヌペヌクにある
    あの女神像の原型ずなったもの

    (※ちなみにパリには党郚で぀の自由の女神像がある。気になる方のために答は最埌に)

    今回、行きに空枯からホテルたで頌んだ送迎車の日本人ドラむバヌの男性がこの前を通りかかったずきにそう教えおくれた。
    で、この堎所は䜕かずいうず囜立技術工芞博物通(Musée des Arts et Métiers)の敷地。最初の写真で自由の女神像の右方に芋える二階建おの建物がそれである。
    では巊の䞉角屋根の円柱のような建物は䜕かずいえば、䞖玀前半に建おられた旧サン・マルタン・デ・シャン聖堂の建物。
    珟圚は工芞博物通の展瀺宀ずしお䜿われおいお、実はこちらの方にも自由の女神像の16分の䞀サむズの原型が眮かれおいるずいうこずだ。(この件はこれを曞きながら調べおいお分かった
    残念ながら今回は時間もないし趣旚からもずれるので工芞博物通の展瀺の方はパスするこずにしたが、事前に知っおいたら聖堂の内郚の自由の女神像にもちょっず䌚っおおきたかった気もしおいる。


    さお自由の女神像の件は別ずしお  この堎所に立ち寄ったのには理由があった。それは最初に芋る予定にしおいた『䞭䞖の物芋塔』がこの近くにあるはずなのに正確な堎所が分からなかったので、この工芞博物通で聞いおみようず思ったのである。
    こういった皮類の質問は道を歩いおいる人を捕たえお䞋手に蚪ねおもはっきりした答えは期埅できないのを経隓䞊知っおいる。それよりも博物通の孊芞員のような立堎の人物に聞くのがいちばん確実ず考えたのだ。
    たぶん私の拙いフランス語では十分に䌝わりきらなかったのかもしれない。䌝わったずしおもこちらの聞き取り胜力に問題がなかったずは蚀い難い。
    しばらく頭を抱え蟌む盞手からどうにか聞き出せた「あっち」ずいう䜕ずもアバりトな情報を頌りに、埌は勘に任せお歩き出したのだった。

    旧サン・マルタン・デ・シャン聖堂の建物の前を通り過ぎ建物のある敷地に沿っお廻り蟌むように進むず、今床はたた工芞博物通ずは違う感じの立掟な建物の前に出た。

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     囜立工芞孊校 囜立工芞院)

    幎のフランス革呜埌間もない時期に創蚭された建物(公匏には1802幎) 
    フランス高等教育省管蜄の科孊ず産業振興のための教育研究機関、いわゆる職業的技術者資栌取埗のための堎
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     囜立工芞孊校の立掟な正面玄関入口

    どうやら先皋の工芞博物通はこちらの付属の斜蚭だずいうこずが刀明。さらに進むず道路に面した角に明らかに呚囲の建物の構造ずは異なる雰囲気のこんなものを発芋。

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    Rue Saint Martin ずRue du Vertboisの角に

    👇

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     ノェヌル・ボワの塔 (1140幎建蚭)


    これがなんずお目圓おの䞭䞖の物芋塔だったのである。

    珟圚は囜立工芞孊校の建物の䞀郚ずしお蚘念碑ずしお残されおいるが、実は先ほどの䞉角屋根の旧サン・マルタン・デ・シャン聖堂の壁に囲われ幎たでは刑務所ずしお䜿われおいた。

    ずいうこずは工芞博物通も工芞孊校もすべおの敷地ず建物は、旧サン・マルタン・デ・シャン聖堂のものだったずいうこずになる。

    どうりで工芞博物通の孊芞員からアバりトに「あっち」ず指で瀺されたのも仕方がないこずだったのだ。行く前にもっず入念なる䞋調べをしおいけば取り立おお驚くほどのこずでないかもしれない。でもこうしお蚘事を曞き぀぀確かめながら、ああ、そういうこずだったのか」ず玍埗するのも楜しいではないか。決しお負け惜しみではなく。
    倚少(^â–œ^;)手間の掛かる䜜業ではあったずしおも、だっおもう䞀床をさらに深く味わうこずができるのだから。

    ★さお、パリにある぀の自由の女神像の答は 

    1. パリ3区 囜立工芞博物通の入口入ったずころ (ニュヌペヌクに眮かれたものの原型)

    2. 同じく工芞博物通の旧展瀺宀にある原型

    3. リュクサンブヌル庭園内(珟圚のはレプリカでニュヌペヌクに莈る準備䜜業のために䜜られたもの)

    4. オルセヌ矎術通 (3のリュクサンブヌルに最初眮かれおいた実物を埌に修埩したもの)

    5. グルネル橋のたもず。䞀番有名


    ②錬金術垫ニコラ・フラメルの家ぞ

    珟圚は囜立工芞孊校の建物の䞀郚ずしおその圢骞だけを留める䞭䞖の物芋塔を埌にしお、次に向かったのはニコラ・フラメルの家であった。

    雑誌掲茉の地図を携垯に保存しおおいたので方向は倧䜓わかっおいた。
    囜立工芞孊校正門が面するサン・マルタン通りをセヌヌ川方向に真っ盎ぐ行きモンモラシヌ通りに突き圓たったら巊に折れればいい。埌は道なりに歩いおいけば  。
    実は䜏所を控えるのを忘れ、海倖でむンタヌネット䜿甚は控えおいお調べるこずができなかった。それにもしもの時はい぀ものように誰かに聞けばいいず思っおいた。

    そのもしもの時はすぐにやっおきた。

    ☕


    ここで続きを語る前に読者の皆様に少し情報を提䟛したい。

    このニコラ・フラメルなる人物ずはいったい䜕者なのか

    圌の名に聞き芚えのある方も倚いのではないかず思うのだが、皆様よくご存じの映画「ハリヌポッタヌ・賢者の石」にいわゆる錬金術垫ずしお名前が登堎する。映画では圓時665歳で䞍老䞍死ず蚀われる人物の扱いになっおいるようだが、フランス䞭䞖䞖玀䞖玀に実圚した人物であるこずはれっきずした事実である。

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    ニコラ・フラメル(13401418 )

    埓来の研究では1330生たれず掚定
    ※パリ西北ポントワヌズで生たれる


    果たしお実際にはどうだったのだろうか。
    䞍老䞍死ずはいくら䜕でも珟実的ではなくオカルトめいおいる、ずはいえもう䞀方の錬金術垫のほうは

    実際の圌は裕犏なパリのブルゞョワで慈善家ずいわれおいる。
    圌の職業は曞生兌宣誓曞籍販売人。

    倧半の者が読み曞きを知らず印刷技術がただなかった時代、公文曞を写しお耇補を䜜る圌のような職業は人々から泚目され尊敬された。
    その䞭でも特別の才胜ず運ず商才に恵たれた圌は自らの工房を持぀たでに至り、パリ倧孊の公匏曞籍販売人たで䞊り詰めた。
    それは「聖職者ず呌ばれる特暩階玚に属する職業だったのだ。

    圌の生きた䞭䞖初期は䞀般垂民は次々ず増え続ける課皎に苊しんでいた時代であるのに、圌は特暩的地䜍をうたく利甚し䞀郚の玍皎矩務から逃れたずも蚀われおいる。
    以䞊な点から考えおも圌が䞀財産を築いたのは圓然のこずだろう。

    だがそれが錬金術垫ずどういう関係があるずいうのか。
    今日においおたでなぜそのような噂が぀いお回るのか。

    䞀般的に蚀う錬金術ずは卑金属を化孊的な手段で金銀などの貎金属に倉性させる術のこず。

    そもそもそれは実際に存圚しうるものなのか

    䞀応珟代においおは吊定されおいる。
    ここでその真停を云々する぀もりはない。
    たた自分にそれが出来るはずもない。
    だがそれに぀いお論議されたある本を読んだ限りおいおは結局、圌が錬金術により金銀を補造したずいう確たる蚌拠は䜕もない。

    い぀の䞖も人々は成功した人物を倚くはやっかみ(劬みあるいは矚み)からあああだこうだず隒ぎ立おる。
    黄金ずいうものは垞に人々の欲望をかき立おるものでひょっずしおこれは人類党䜓に共通する遺䌝子のようなものかもしれない。
    珟代のお金ず眮き換えれば玍埗がいくはずだ。

    圌の死埌、䜕故圌が莫倧な資産を持っおいたのかが気になった人々はあれこれず噂をし始めた。そしお17䞖玀初頭には錬金術熱が高たりニコラ・フラメルに関する倚くの論考集も刊行された。が、これらの倚くには明らかにいかがわしいず思える蚘述も倚く、䞭䞖の原本ではない17、18䞖玀のフランス語で筆写されたものもあるずいう。

    ただ噂の出所ずしお最も珟実的であるず思えるずころが䞀぀。

    圌の仕事である豪華な写本(時犱曞)制䜜にずっお黄金ずいうものは基本的な材料であり、装食文字や挿絵の圩色に䜿甚するだけでなく、装䞁や留め金具にも䜿甚された。垞に手元にあったろうし、圌の工房は金銀现工垫の䜏居に近くすぐに手の届く所にあったずいうこず。そういう知識もなくフラリず工房の仕事を芗き芋たものがよからぬ噂を流したのかもしれないヌ。

    もしもの時はい぀ものように誰かに聞けばいいなどず思っおいるず、その「もしも」を返䞊せねばならないほどその時はたた巡っおくるものだ。
    その機䌚は再びやっおきた。
    モンモラシヌ通りに突き圓たり巊に折れたたではよかったがしばらく歩けどもそれらしき建物はみ぀からない。
    できればランチはニコラ・フラメルの家ずなっおいるレストランで摂りたいず考えおいたが、ずうに昌を過ぎおそらく時近くになるずころだった。

    実は前日にキロちょっず歩いたせいでぐっすり寝蟌んでしたい、その日宿泊ホテルを出発したのが午前時を過ぎおいたのだ。埌の予定も考えるず䞀刻も早く探し圓おたくお実は少し焊っおいたせいもあるかもしれない。

    目に付いた小さな出版瀟らしきずころで蚪ねおみるずすぐに教えおくれた。

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    モンモラシヌ通り51番地の
    ニコラ・フラメルの家(1407幎建造)

    パリ最叀の珟存する民家ずいわれるこの建物は倧切劻造りで、珟圚も、階はレストランずしお䜿われおいるが、1991幎頃には廃屋寞前の状態になったこずもあったずいう。

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    通りの反察偎から芋たずころ


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    建物ファサヌド(正面)に取り付けられた銘文
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    ニコラ・フラメルずその劻ペルネルの家
     
    『圌らの慈善事業の思い出を保存するため
    パリ垂は1407幎に刻たれた最初の銘文を
    1900幎に修埩した』 


    "圌ら"ずはもちろん劻のぺルネルのこずを指すのだが、この蚀葉の意味に次のような理由が背埌に含たれおいるず解釈できる。
    劻のぺルネルは圌よりも倧分幎䞊で人は子宝には恵たれなかったが倫婊仲はずおもよかったようだ。倫唱婊随ずいう蚀葉は圌らのために存圚するずいっおも間違いではないだろう。

    1397幎にぺルネルが病気で亡くなっおから21幎間も圌はやもめ暮らしをした。ずいうこずはこの家の建造は1407幎だからぺルネルが亡くなっおから10幎埌に建造されたものずいうこずになる。劻の家族ず財産盞続問題での玆䜙曲折はあったものの、圌女の死の盎前に圌は人の間で生前に取り決めた盞互遺莈が正匏なものずしお認められた。劻ぺルネルは遺蚀補足曞にこう口述した。

    「愛しい人良き友、同胞にしお倫である」ず。

    倱われたこの家の軒蛇腹の階にあたる郚分に嵌め蟌たれおいた石には、この家の建造のために寄進した人々の名前が圫られおいたず思われる。
    ニコラ自身、召䜿の女性、そしお劻ペルネルの名前が。


    さおこの建物のたずは倖芳の特城的な郚分に぀いお芋おいこう。

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    この家のもっずも芋るべき独創的な郚分は
    ファサヌドの碑文ず圫刻


    軒蛇腹の正面を暪切るゎシック䜓の長い碑文は䞭䞖フランス語で曞かれおいる。建造の日付(1407ずその蚭立の目的が蚘されおいるずいう。

    我ら勀劎なる男女が䜏たいし玄関間のあるこの家は、䞀四〇䞃幎に建造されたり。我らは各々、神の恩寵が哀れなる眪深き死者たちに赊しを䞎えんこずを祈り、毎日「䞻犱文」ず倩䜿祝詞」を唱えんず定められたり。アヌメン

    碑文の和蚳


    これらの碑文からも圌が熱心なキリスト教埒であったずわかる。
    遺蚀曞にも自らの信仰の真摯なるこず、よきキリスト教埒しお死ぬこずが匷調されおいる。

    ここで重芁な問いかけをしおみたい。
    䞊の銘文の最初の「我ら勀劎なる男女が䜏たいし玄関間のあるこの家」ずいう郚分であるがこの我らずは誰のこずを蚀うのか
    フラメルは圓然だがその我らに圓る人物はぺルネル自身のこずではない。たたここは実はニコラ・フラメルの䞻邞ではないのである。圌の䞻邞がどこにあったかは、それはたた埌述するこずずしお  。

    碑文に蚭立の目的が蚘されおいるずいうこずがヒントになる。
    勘のいい読者の方ならわかるだろうか。


    先に扉䞡脇の石柱の圫刻を芋おおこう。

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    浅浮き圫りで圫られた図像
     (向かっお巊偎の柱、䞊から、番目 )
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    浅浮き圫りで圫られた図像 
    (右偎の柱、䞊から、番目)


    これらの図像は䜕を描いたものかずいえばわかりにくいかもしれないが、圫られおいるのは四人の奏楜の倩䜿たちだ。それぞれが違った楜噚を奏でおいる。これはニコラ・フラメルが音楜に非垞に関心を持っおいたこずを瀺しおいるずいっおもよい。


    さお、先ほどの「我らずは誰のこずか」ずいう質問の答である。
    案内板プレヌトでも慈善事業ずいう蚀葉が出おきたが、圌が慈善家であったこずは最初のほうで述べたずおりである。フラメルはこの他にも貧者を保護する目的で倚くの家を建お、そしおこの家はそのうちの䞀぀にすぎず䞻邞でないずいうこずは぀たりこういうこずを指すのだろう。

    この家はそれらの人々のための䜏居であり、"神の家"たる斜療院ずしおの意味を持っおいたのだ。


     

    ③レストラン/オヌベルゞュ・ニコラ・フラメル

    前回ではニコラ・フラメルの家の倖芳に぀いお玹介した。
    さあ、いよいよ䞭ぞ入っおみよう。15䞖玀前半に建造されたこの家の階ず階は珟圚はレストランずなっおいる。

    『Auberge Nicolas Flamel』オヌベルゞュ・ニコラ・フラメル
    普通オヌベルゞュはフランス語で”旅籠”ずいう”意味で郷土料理を提䟛するレストラン付きのホテル”のこずを指す。
    しかしここはレストランのみの営業なのに敢えおそう名付けられたのは、この家が貧しい人々を宿泊させるための斜蚭ずしお造られたこずに起因するのかもしれない。
    たたフラメルは自分の葬儀に参列する隣人たちがおおいに食事し飲んだりするための遺産を残しおいたずいうし、そういう意味から考えれば珟圚ここがレストランなのはごく自然なこずず思えおくる。

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    この倩井の梁は1407幎建造圓時のたた


    ドアを開けるず店内は結構お客で賑わっおいる様子であったが、、のテヌブルは開いおいた。ざっず芋枡したずころ子䟛連れの家族やわりず高い幎代局のグルヌプが倚いように芋受けられた。
    土曜日のせいだろうか。レストランで倧人に混じっおこういう子䟛の姿を芋かけるのは珍しい。担圓の係りに人だず告げお案内された壁際の垭に萜ち着いたものの、なんずく入口付近に控えおいる数名の接客係たちの芖線を济びおいるように感じおならない。今たであたり感じたこずのないような息苊しさ 歓迎されおいるずは蚀い難いような。

    メニュヌを貰っお県を通し぀぀考えおみるずその理由がなんずなくわかりかけおきた。最初はこういう堎所ぞ人で来るのはおかしいのかななどず思ったが、それよりもたぶん予玄もせずに来たずいうこずが䞀番たずかったのだろう。それに加えいかにも旅行者ずいうカゞュアルな装いだったこずもありあたりいい顔をされなかったのだず思う。
    ここはれっきずした歎史ある䞀流レストランなのだから(この点に぀いおは反省しおいる )。

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    これは前菜で䞀番右の䞞いのは
    フレッシュチヌズのコロッケず刀明


    ランチメニュヌはこういうレストランではリヌズナブルな 18、5€で、前菜メむンたたはメむンデザヌトにドリンクコヌヒヌが付いたもの、たたは本日の肉か魚が遞べお25€ずいうメニュヌがあるようだ。

    私が遞んだのはランチメニュヌではなく、䞀品料理の前菜メむンであったが、それでもオレンゞゞュヌスずコヌヒヌを別に頌んでも党郚で25€だった(€は玄130円)。※為替レヌトは2018幎圓時のもの。

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    メむン料理

    サヌモン゜テヌにむンゲン豆の゜テヌを
    かけたものず私のメモ垳に蚘しおある
    (䞭䞖人の献立にぱンドり豆や゜ラ豆が
    よくスヌプに入れお食されたずいう)
    たあこれは䞭䞖メニュヌずいうわけでも
    ないけど確か冷補のものだったず思う
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    コヌヒヌを頌むずこんなお菓子も付いおくる
    マドレヌヌの呚りの茶色の粒は䞀芋
    チョコレヌトのようだが甘さはなく
    アヌモンドを朰したみたいな感じのもの
    私はグルメでもないので食材や味に぀いおは
    それなりに矎味しく頂いたずいっおおく


    ★参考のために。こんなデザヌトもある

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    むンゎットチョコレヌト金ニコラ・フラメル


    その他メむン料理のデザヌトには、チョコレヌトの䞊に黄金の粉末をかけた黄金の粉末二コラ・フラメル、10歳たでの子䟛甚メニュヌずしおハリヌ・ポッタヌ(15€)ずいうのもあるようだ。(それで小さな子䟛が倚いのだろうか)
    やはり「錬金術垫二コラ・フラメルよ偉倧なりし」ずいうずころだろうか。

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    写真右偎の青いシャツのむケメン男性は
    私の隣のテヌブルで  
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    圌女がトむレに立った隙に接客係に合図
    圌女が垭に着くなり運ばれおきたデザヌトは
    誕生日祝いの燃え䞊がる炎のサプラむズ!!
    蚘念に写真を撮らせおもらった
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    お盞手の圌女はもちろん倧喜び
    矎男矎女のお䌌合いのカップルだ
    お陰でこのレストランで食事した
    思い出ずしお蚘憶に残るものずなった
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    䞭倮の階段は1407幎建造圓時のもので
    改装時に向きだけを倉曎
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    トむレのある階の郚屋はこんな雰囲気
    (団䜓客甚なのだろう)



    さおこれで二コラ・フラメルの家(珟レストラン)の倖芳ず内偎を埡玹介したわけだが  。
    この家が貧しい人々を宿泊させるための斜蚭の぀ずしお造られたこずは先に述べたずおりである。そこで思い出しお頂きたいのがここではない堎所にあるずいう二コラ・フラメルの䞻邞のこずだ。


    ④二コラ・フラメルの䞻邞を巡るもう䞀぀の内なる旅

    珟存するパリ最叀の民家であるモンモラシヌ通り51番地の『二コラ・フラメルの家』は圌が貧しい人々を宿泊させるための斜蚭ずしお建おた倚くの家の䞀぀にすぎなかった。

    それならば二コラ・フラメルの䞻邞はどこにあったのだろう

    こうしお蚘事を曞きながらその疑問がずっず頭の隅にこびり付いおいた。
    本来なら埓来の散策コヌスに戻り次の行き先に぀いお早く話を進めたいずころだが、そういう蚳でもう䞀歩螏み蟌んで脇道ぞの散策を続けようず思う。ここたでお付き合い頂き圌に察する興味を持たれた方にはぜひ続きを読んで頂きたい。


    日本ぞ垰囜する前日に蚪れたのはここサン・ゞャック塔である。

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    サンゞャック塔
    (※メトロChâtelet駅からすぐそばにある)
    塔の高さは52メヌトルのゎシック最埌期に
    流行したフランボワむアン様匏の塔


    サン・ゞャック塔は16䞖玀初期、二コラ・フラメルの死(1418没)より埌の1522幎に建造された。フランス革呜時に砎壊されたサン・ゞャック・ド・ラ・ブヌシュリヌ教䌚の残存である。
    ブヌシュリヌずは食肉業のこず。フラメルが生きたこの時代には肉屋がこの堎所に売り台を䞊べおいた。珟圚では(聖ダコブ、サンティアゎ・デ・コンポステラぞの倧巡瀌地路の集合、出発地点ずなっおいる。

    たた盎接今回の蚘事の内容ずは関係ないかもしれないが、17侖简(1648幎)にパスカルがこの塔に登っお気圧の研究をしたこずでも知られおいる。

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    ブレヌズ・パスカル(1623 1662)

    フランスの哲孊者、物理孊者、神孊者  
    などその才胜は倚分野に枡る
    「人間は考える葊である」の蚀葉を残した
    䞊の写真の䞋の郚分に少し芗いお芋える

    今は存圚せぬサン・ゞャック・ド・ラ・ブヌシュリヌ教䌚の話に戻そう。
    たずは䞋の地図を埡芧頂こう。赀の印で囲った蟺りがその教䌚である。

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    1553幎に出版されたパリ垂ずその郊倖の地図

    真䞭を瞊に流れるのがセヌヌ川
    向かっお巊偎が右岞で右偎が巊岞
    セヌヌ川の真䞭蟺りにある島が
    シテ島(パリ発祥の地で
     それらを取巻く楕円が圓時の城壁である   
    (ここでは倧䜓の䜍眮を知っおもらえれば)


    次ににもっず现郚をわかりやすくした地図を
    黄色の楕円で囲んだのが前の地図の赀い印。
    サン・ゞャック・ド・ラ・ブヌシュリヌ教䌚である。

    画像
    1550バヌれル刊地図


    さおなぜこの教䌚を取り䞊げたかずいうず、この教䌚はフラメルの生涯を通じお最も瞁が深かった堎所ずいっおもよく、同時にフラメルの䞻邞の鍵ずなるからだ。

    参考文献によれば  。
    圌の䜏たいがサン・ゞャック・ド・ラ・ブヌシュリヌ教䌚のほが目の前にあり、幎に圌自身が新しい正面玄関を建造させたこずがわかる。

    画像
    この正面玄関のテュンパヌムに刻たれた圫刻 
    (※アヌチ型の装食的な壁面のこず

    聖母マリアの䞡偎に跪くフラメル(å·Š)ずベルネル(右、聖母は幌子む゚ズスを抱き、フラメルの脇には聖ダコブ(サンティアゎ )、劻ペルネルの脇には掗瀌者ペハネが刻たれおいる。(幎圓時は劻のぺルネルもただ生存

    これはフラメルずベルネルにずっお生涯の蚘念ずなるべく『寄進者像』ずしお創られたものだずいう。すでに説明したずおり、フラメルはモンモラシヌ通りの”レストラン”以倖にも、この教䌚の食り付けなどにも出費しおいるし、斜療院やあの囜立工芞孊校の前身であったサン・マルタン・デ・シャン教䌚の建造にも貢献したず芋られおいる。

    䞻邞はサン・ゞャック・ド・ラ・ブヌシュリヌ教䌚のほが目の前にあった  。さお、この事実で良しずすべきだろうか

    だが、ほが目の前ずは少しアバりト過ぎはしないか

    そんな私の思いに応えるようにさらにペヌゞを捲っおいくず、なんずマリノォヌ通りず゚クリノァン通りの角にあるずいう具䜓的な蚘述を芋぀けた。

    や っ た ぁ ♪

    さっそく先ほどのバヌれル刊の地図(黄色の印を぀けたもの)を再び眺めおみるが芋぀からない。䜕しろ䞭䞖フランス語で曞かれた地図では通りの名前がよくわからないのだ。
    その埌再びいろいろ圓たっお、やっず通りの名前が蚘された地図を捜しあおた。

    それがコチラである。
    👇

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    1750幎シャトレ地区の地図

    黄色の瞊線がマリノォヌ通りで同じく暪線が゚クリノァン通り。その぀の線が亀わるずころの赀い印が二コラ・フラメルの䞻邞ずいうこずになる。

    関連郚分を拡倧しおみるずわかりやすいだろうか。

    画像

    拡倧するず文字がボケるが通りの名前がしっかり蚘されおいる。 暪線の゚クリノァン(曞生)通りは幎におそらく珟圚のRivoli通りに吞収され名前が消えおいる。
    マリノォヌ通りに぀いおははっきりしないが、珟圚のパリ区のこの蟺りの地図を芋るず、同じ通りずおがしき堎所に N.Flamel(二コラ・フラメル通り)ずいうのが存圚するので、もしかしたら名前を倉えたものかもしれない気がするのだ。
    埌から知人に蚀われお気付き、なんずフラメルの劻の「ぺルネル通り」も発芋したので地図に蚘した。こんなそばなのに䜕故気付かなかったのか䞍思議。

    ずいうわけでこちらの地図をどうぞ。
    👇

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    珟圚のパリ区サン・ゞャック塔付近の地図

    赀で囲った郚分がベルネル通り。サン・ゞャック・ド・ラ・ブヌシュリヌ教䌚のあった敷地に察しお、人の名前の通りが亀差し十字架のように芋えるのは私の思い過ごしだろうか。

    フラメルのこの䞻邞の正面も、モンモラシヌ通りの家ず同様に圫刻や銘文で食られおいたずいう。

    〈財に欲々たる者、䜕も持たずしお満たされるこずなし〉


    これで䞻邞の問題も解決し終わりずしたいずころだが最埌にもう぀。
    サン・ゞャック・ド・ラ・ブヌシュリヌ教䌚はフラメルの生涯を通じお、最も瞁が深かった堎所ず蚀った事を芚えおいるだろうか。
    その蚀葉どおり圌は死埌に遺蚀曞に蚘されたようにこの教䌚の敷地に埋葬された。教䌚身廊の端、聖母の十字架像の前に。

    圌は死の前に自分自身で墓石を甚意しおいお、残念ながら今回は行けなかったがその石は珟圚、クリニュヌ䞭䞖矎術通に所蔵されおいる。

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    クリュニヌ矎術通に所蔵されおいるずいう
    石に刻たれおいる絵図ず蚀葉


    䞊段には聖ペテロず聖パりロの間に父なる神が刻たれ、䞋段には自身の屍骞像が刻たれおいる。


    ①から③に曞かれおいる内容に぀いおは䞋に蚘すずおりである。

    ①銘文 
    "かっお曞生でありし故二コラ・フラメルは、遺蚀にもずづいお、この教䌚財産管理䌚に、いくばくかの幎金、慈善事業のために生前に賌入したいく぀かの家屋敷、毎幎䞉癟人通 盲人院に斜しずしおの銀貚、慈善病院やパリのほかの教䌚ず斜療院を遺莈せん。死者たちのために祈りたたえ。"

    ②故人の口からの吹き流し
    "䞻なる神よ、汝の憐みを望みお"(慣䟋にならったラテン語文 )

    ③フランス語で蚘された蚀葉
    "我出でし土に再び返る、魂は、眪深いものを蚱し絊う汝む゚スぞず向かわん。"

    これらの墓石に぀いおは、錬金術的解釈をされるこずもあるようだが、シリヌズ最初の方でも述べたように、それに぀いお云々するこずは今回の私の目的ではないので控えるこずずする。

    ☕


    さお埓来の散策コヌスから少し脇道の旅ぞ螏み蟌んでしたったようなので、そろそろ元のコヌスに戻ろう。

    モンモラシヌ通り51番地の”二コラ・フラメル”の家を埌にしおリノォリ通り方面ぞ向かった。通りをこのたた進めばボヌブヌル通り(rue beaubourg)に突き圓たり、右ぞ折れおたっすぐ行けばメトロのランビュヌトヌ駅でポンピドヌセンタヌも右手に姿を珟すはずだ。
    やがおボヌブヌル通りに出お歩き出すず䜕やら埌方からザワザワず隒がしい音が近づいおくる気配がする。
    ゆっくりず近づいおくるのは街宣カヌ。倧音量のスピヌカヌが䜕やら繰り返し蚎えおいる。呚りを取り囲み通りいっぱいに拡がり行進する人々も声を合わせおの倧合唱。
    たさにこれぞシュプレヒコヌル!!

    「デモだ」

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    テレビのニュヌス画像では芋たこずはあるが
    実際にこんな間近で遭遇するなんお
    滅倚にないチャンス
    いったい䜕のデモだろう

    ♪シュプレヒコヌルの波 通り過ぎおゆく 倉わらない倢を流れに求めお♪
    (䞭島 みゆき "䞖情" 歌詞より抜粋)

    画像

    プラカヌドに曞いおある文字から私に理解できるのは倧統領の名のMACRONだけ。フランス囜鉄ず゚ヌルフランス航空が春頃から倧芏暡なストを決行䞭で、マクロン倧統領もさんざん叩かれかくいう私も少なからず巻き蟌たれた口だったので、その方面に䜕かしら関係あるのかず思ったりもしたが  。

    画像
    やがお街宣カヌがすぐ傍たで来たので
    シャッタヌチャンスずばかりカメラに収める

    "FERMONS TOUS LES ABATTOIRS"

    たぶんこの垂れ幕のフランス語が分かる人はこれが䜕のデモかすぐに理解できるのだろう。いや勘の鋭い人ならフランス語が読めなくおも牛の写真を芋おなんずなく閃いたかもしれない。
    残念ながら圓時の私はさっぱり芋圓が぀かず、ただただ人々のシュプレヒコヌルに圧倒され続けおいた。ずにかくこの瞬間に立ち䌚えたこずに少なからず興奮しおいたのだ。
    それはこの被写䜓ずの距離の近さで感じ取っお貰えるだろうかヌ。

    画像

    埌から調べたずころ、先ほどの街宣カヌの垂れ幕の意味がわかった。
    "FERMONS TOUS LES ABATTOIRS"
    "屠 札 堎 を 閉 鎖 し よ う"

    これはフランス、リペンに本郚を眮く動物犏祉団䜓によっお組織された運動で、この2018幎にはヶ囜、郜垂でこのデモが行われた。私が遭遇した6/23のこのデモには4000人ほどの人が集たったずいう。

    『動物人間かどうかは「誰か」であり「䜕か」ではなく、敏感な個人ずしお尊重されなければならない』

    最近でこそノィヌガニズム(絶察菜食䞻矩)ずいう蚀葉も定着したが、圌らは肉や魚、乳補品などを食べないだけでなく服や鞄などにいたる皮革補品も身に着けない。芁するにあらゆる圢態の動物搟取を拒吊した生き方をする人々なのである。
    うん。難しいテヌマではあるが「屠殺堎がある限り、戊堎はなくならない」ず トルストむも蚀っおいるようなので。
    このヶ囜には日本も加わっおいお、6/9には東京で6/10には京郜でもデモが行われたずいう。
    こちらは200人が集たったずいう東京でのデモの様子。

    画像
    ※画像拝借(Animal Right Center/1987創蚭 )


    このデモがこの時期に行われた理由に぀いおは私なりに掚察もしたが、それは今回の䞭䞖を蚪ねる旅ずはテヌマがずれるため、今回はデモに遭遇した報告だけに留めおおくこずにしたい。

    図らずもたた䞀挙に珟代のど真ん䞭ぞタむムスリップ。
    次の目的地ぞ急がなければ。

    デモの喧隒から逃れるように呚囲に目やれば、い぀のたにやらランビュヌトヌ駅入口のすぐ傍たで来おいた。ここからポンピドヌセンタヌたでは目ず錻の先の距離。(※2026幎の珟圚は倧芏暡改修工事のため閉鎖䞭。2030幎に再オヌプン予定)
    そうだ、この建物の広堎を通り抜けお行っおみよう。
    デモの興奮ず熱気に圓おられた神経を少し萜ち着けたかったし、珟代から䞭䞖ぞ戻る前にはワンクッションが必芁な気がしたのである。

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    ポンピドゥヌセンタヌ前の広堎
    画像
    右偎に少し芋える建物がポンピドヌセンタヌ。 この池の角床から眺めるのは初めおかもしれない。 ずいうよりこの広堎自䜓をこうしおじっくりず眺めたこずがあったろうか。
    カラフルな人魚像はニキ・ド・サンファル䜜


    広堎を䞀呚した埌、いざ次の目的地ぞ  。


    ⑀幞運ず呌ぶべきなのか〈にわかガむド氏〉登堎

    ポンピドヌセンタヌの広堎を抜け、元のボヌブヌル通りを進んだ。
    亀差点のある倧通りにぶ぀かればそこがリノォリ通りで、すぐ向こうにパリ垂庁舎最寄のオテル・ド・ノィル駅が芋えるはず。そこたで行けば次の行き先はもう近いだろう。
    リノォリ通りの亀差点を向こう偎に枡り巊に折れお少し歩く。
    垂庁舎の䞊びにある区の区圹所を通り過ぎたずころで手元の地図を確認する。(※以䞊の道皋はよければ埌に瀺す地図で確認を)

    区圹所脇の小路を入り本裏手のフラン゜ワ・ミロン通りに出るずその建物は䞀目でわかった。

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    フラン゜ワミロン通り13,15番地の
    朚造䜏宅(15侖简)


    䞭䞖の時代の特城的な倖芳を今も残す階たたは階建おに屋階付きの件の長屋。間口が狭く瞊に现長い造り。石の基瀎に朚の骚組み(梁)、間に癜い石膏の壁を埋めたものを倖壁に䜿っおいる。他に石や荒壁土などの資材を䜿ったものも倚いようでそれらは防火察策のためのもの。
    右偎の13番地の家の入口に掛かっおいるのは看板のようだが、圓時はすべおの家には番地の替わりに看板がかけられおいた。ここは今もごく普通に民家ずしお人が暮らしおいるのがいかにもパリ。

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    通りの名前のプレヌトず歎史的建造物
    であるこずを衚瀺する案内版

    さおここからが蚘事の本題である。
    次に向かったのはそこから皋近いバヌル通りにあるもう぀の朚造䜏宅。
    パリずいう街はどんな小さい通りでも必ず名前や番地があり、地図でももちろん確認枈みずはいえ、これがなかなか芋぀けられない。

    バヌル通りはどこにあるのだろう。地図だずこのすぐ近くのはずだが  。

    裏通りの小路をキョロキョロしながら歩いおいるず、狭い脇道に䜕だか嫌な雰囲気のする䞀角が目に入った。䞀瞬「ここは通りたくないな」ず思ったが、どうやらバヌル通りぞの最短距離であるようだ。
    それは果たしお通りず呌ぶべきものなのか、近道ずいう蚀葉が該圓するのかず思うほどの短い距離だから路地ず呌ぶべきだろうか。向こう偎のバヌル通りの埀来がすぐそこに迫っおいる。(埌にグルニ゚・シュル・ロヌ通りずいう名前があるこずがわかる
    しかたなく路地ぞ足を螏み入れるず、バヌル通りず隣接する角の建物の壁䌝いに凝芖するのを躊躇うような光景があった。

    画像

    荷物を拡げおく぀ろぐずいえば聞こえはいいが、本栌的にビニヌルシヌトを敷き靎を脱いで寝転がる男性。女性はさすがに埌ろ向きで座っおはいるものの傍にある倧き目の鞄が党おを物語るかのよう  。
    おそらくそれが圌女の持぀党おの財産であるのかもしれない。圌らはここで寝泊りしおいるのかもしれない。
    圌らが旅行者でないこずは䞀目瞭然である。
    ホヌムレスの姿は囜鉄の駅付近や公園のベンチなどでも時折芋かけるがたいおい単独で、こういった人通りの倚い街䞭で、堂々ず本栌的な生掻感剥き出しの姿を間近に芋たのは初めおのような気がする。
    通り過ぎる人々も慣れっこになっおいるのか眺めたり衚情を倉えるこずもない。
    パリでは自分も干枉されたくないから他人に干枉しないのがルヌル。そこがいいずころでもあるのだが、日本ではそうはいかないだろう。
    立ち止たっおそれずなく眺めおしたうのは、自分のような興味本䜍の旅行者だけだろうか。自分が最初感じた嫌な雰囲気ずいう蚀葉の奥にあるものに぀いおも考えおみる必芁がありそうだ。

    ずころでなんずそれが探しおいたもう䞀぀の䞭䞖の朚造䜏宅だったずわかった時には驚いた。

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    バヌル通り番地(又はグルニ゚・シュル・ロヌ通り番地)の朚造䜏宅(15侖简)
    「Auberge de Jeunesse MIJE Maubuisoon」


    先皋のフラン゜ワ=ミロン通りの䜏宅ず共通点があるが、こちらの特城は階に圓たる郚分が少し前ぞ匵り出しおいるずころ。これは堎所(面積)を広く取るためのもので、こういった造りはノルマンディヌ地方の街などで今も倚く芋られるようだ。
    なるほど匵り出しの郚分が屋根替わりになり日差しや倚少の雚颚を凌げるずいう利点がある。だからホヌムレスの人達にも郜合が良い堎所なのだろう。

    倖芳の写真を撮った埌で暪の入り口のドアが開いおいるのに気が付いた。
    建物の䞭を芋孊出来るのだろうかず入っおいけば受付のようなカりンタヌに係らしき女性が座っおいた。
    「ちょっず䌺いたいのですが、ここは芋孊できるんですか」
    女性が銖を傟げるような動䜜をしたので意味が通じないのかず思い、単刀盎入に聞いお芋るこずにした。
    「ここはミュヌゞアムスポットですかチケットは幟らになりたすか」
    女性は今床は私の蚀おうずするこずを理解したようで「ノン」ずはっきりず蚀った。
    「ここはミュヌゞアムスポットではありたせん。ここはホテルです」
    そうだったのか。うん、なるほどホテルね。

    先皋のフラン゜ワ・ミロン通りの䜏宅もそうだったが、こちらも実甚的なホテルずしお珟圚のパリの街で機胜しおいるのだ。どこかの囜ならおそらくここを特別に蚘念通みたいな扱いずするずころを、今でもごく普通に䜏宅や斜蚭ずしお䜿甚しおいるずころがいかにもパリらしい。
    だがそれにしおもこのホテル、ホヌムレスのねぐらずなっおいるせいかどうみおも芋栄えが良いずは蚀いかねる。いったいどんな人たちが利甚するんだろうか。

    そんなこずを考えながら倖ぞ出おもう䞀床建物を芋䞊げおいるず、ふいに誰かが暪から話しかけおきた。
    「そこはナヌスホステルだよ。ずおも安い」
    どこから珟れたのか流暢ずは蚀い難い英語を䜿うその盞手は幎配のフランス人ずおがしき男性で、安いずいうずこだけはどういうわけか日本語だった。
    さおはピンポむントで日本人ず芋抜かれたのか。
    「ダスむ」ず鞚鵡返しに蚀っおみる。
    「そうそう、ダスむネ」
    こんなんで䞀気に打ち解けた雰囲気になるのが䞍思議だ。
    「ツヌリスト(日本の)どこから」
    「東京です」
    埌はよくあるお決たりのパタヌン。これからどこを回る予定かず聞かれたので、できればこの近くの䞭䞖の城壁跡ぞ行っおみる぀もりだず答えた。
    「ノィクトル・ナヌゎヌの家は行った?」
    「レ・ミれラブルの。名前は知っおるけど  」
    「行っおみないいろいろず案内するよ。僕は今はフリヌタむムなんだ」
    圌は臆するこずもなく軜々ず垣根を越えおこちらのテリトリヌに䟵入。
    (おっず、そう来るわけね。ナンパのお誘いはこの囜では決しお若者だけの専売特蚱ではないんだ)
    私の様子を窺いながらさらに畳みかけるように圌は続ける。
    「僕は絵の教垫をしおるんだけど、もう××歳なのでリタむアしおるから今はずきどきだけね。今日は倕方から授業があるけどそれたでの時間はこうしお街歩きを楜しんでいるんだ」
    それにしおも随分幎霢よりも若くみえるなずいうのが率盎な感想で、同時に自分の幎を隠さずに堂々ず蚀うずころに奜感を持った。
    詊しにどこの矎術孊校なのか蚪ねはしたが、モンパルナスにある小さなずこだからずしか答えたがらなかった。

    だがこの展開、たさにパリならではないか

    ここで思い出したのが今回の旅で、関係者以倖は立ち入り犁止の゜ルボンヌに倧孊教授ず思しきムッシュヌの蚈らいで案内しお貰えたこず、それはたさに〈幞運〉ず呌ぶにふさわしい出来事だった。だがこれから蚘そうずする事柄が〈幞運〉ず呌ぶべきなのかは最埌たで保留しおおくこずにしよう。

    たぶん圌ず同䞖代の日本人男性ならこういう誘い方は絶察にしないだろう。それ以前にたず気安く声をかけたりするのを躊躇うに違いない。そしおもし日本で同様の事態に遭遇したずしおも、私も誘いには簡単には乗らないに違いないのだが 。
    フランス人ずの䌚話は私にずっおは願っおもないチャンスなのだった。
    圌は私の衚情の小さな倉化も芋逃しはせず、私の埮笑をOKの印ず受け取ったようだった。
    では」
    圌ぱスコヌトするように私の背に軜く手をやり私たちはゆっくりず歩き出した。
    「僕の名はアラン(仮名)パリゞャンだ。君の名前は」
    「××子」
    「××子、君も僕を名前で呌んでほしい」

    ナヌゎヌの家(蚘念通)のあるノォヌゞュ広堎は少し離れおいるため埌に回し、最初は私の垌望通り䞭䞖のパリの城壁の址であるフィリップ・オヌギュストの城壁>を蚪ねるこずに決たった。
    以䞊の私たちの䌚話は最初は英語が䞻であった。英語は難しいずアラン氏はこがし぀぀私のために流暢でない英語で圌なりにコミュニケヌションを取ろうずしおくれた。それがかえっお私にはわかりやすくもあったのである。それでも少し䌚話に慣れおくるず、アラン氏をフランス語の教垫に芋立お知っおいる限りのフランス語で通じるものかず詊そうずする自分がいた。

    途䞭でこんな建物の前を通るず、圌は指差しながらたたさっきの蚀葉を繰り返した。「ここもずっおも安いんだ」

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    Auberge de Jeunesse MIJE Fauconnier
    (11 Rue du Fauconnier, 75004 Paris)
     芋たずころは普通のアパヌトのようだが
    ここも同じような宿泊斜蚭の぀
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    この文字が建物の正面に曞かれおあるのが
    系列のナヌス・ホスでルの印で
    マレ地区には軒ある


    どうやらアラン氏はこの手の〈安い〉宿泊斜蚭の情報にずおも詳しいようである。実はずっず気になっおいたこずがあり、それは圌の玠性に関する問題で、パリゞャンずいうのは本圓だろうかずいうこずなのだ。䜕故そんなふうに思うのかず蚀われれば、それは圌の恰奜のある郚分で、服装のセンスなどずいうのではもちろんない。
    䌚ったずきから圌はずっず小振りのバックを斜め掛けにしおいお、私にも泚意するように床々声をかけた。もちろんパリはあの手この手でスリが手ぐすね匕いお埅ち構えおいるのだからそれ自䜓は有難いこずではある。

    でも実際にバックを斜め掛けにするパリゞャンなんおいるだろうか

    そこぞ持っおきお果たしおパリゞャンが、自身はおそらく泊るこずのない宿泊斜蚭の情報にそれほど詳しいものだろうかずいう疑問も残る。

    それならばいったい圌はどこから珟れたのだろうか。

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    フィリップ・オヌギュストの城壁
    (1630幎刊行パリ垂地図より)
    尊厳王フィリップ二䞖により䞖玀から
    䞖玀にかけお造られたパリの城壁
    パリの䞭心から東西南北ずもにキロ
    足らずで、党長,㎞ある


    【城壁に぀いお】

    城壁ずは䜕か、それは最埌の砊
    䞭䞖のパリの街にずっおは
    他民族の䟵入を防ぎ守るための芁塞
    珟圚のパリは昔の名残りが
    わずかに残るのみで
    城壁ずいうものは存圚しない
    その代わりに人々が手にしたのは自由

    日本でかっお存圚した城ずいう芁塞
    それは他民族に向けられたずいうよりは
    同じ日本人同士のためのもの

    血の争いは囜の䞭で盛んに行われた
    今は芳光名所ずしお圢骞だけが残され
    いや果たしおそれは本圓だろうか
    日本は今でも立掟な芁塞を
    持っおいるのでは
    自囜ではなく他民族に察しおの
    四方が海ずいう恐ろしく堅牢な城壁を


    城壁址はわかりにくいものたで含めるず幟぀もあるずいわれおいるが、今回私が蚪れたいず思っおいるのはその䞭でも代衚的な、リセ・シャルルマヌニュ校のグラりンドに芋られるものだった。

    私が圌ぞ疑念を抱いおいるずはアラン氏はおそらく倢にも思っおいなかったに違いない。それに実際のずころ圌の玠性がどうであろうず、にわかガむドずしお䜕の支障があるずいうのだろう。実際に圌は普通は知らないず思うような小道や抜け道を実によく知っおいたし、ガむドずしおは申し分なかった。

    青空に恵たれ人通りも少ない静かなマレの小路を歩いおいくず、やがお前方にそれらしい建物が芋えおきた。

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    シャルルマヌニュ通り沿いから巊奥の
    リセ・シャルルマヌニュ校を眺める
    建物の角に芋える厩れかけた塔は校舎の䞀郚
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    城壁の名残りである塔ず校舎の倖芳
     
    👇
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    フィリップ・オヌギュストの城壁址
    (enceinte de philippe auguste)
    にわかガむドのアラン氏が巊端に写り蟌んで


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    䞭䞖の朚造䜏宅の前でも芋かけた
    歎史的建造物の案内版
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    Sports field of St.Paul gardens

    手前のフェンスの階段を䞋りおいけば、城壁の前でスポヌツに興じるリセ・シャルルマヌニュ䞭孊校の生埒たちの姿があった。
    ここは䞭孊校のグラりンドず思われおいるようだが、実は隣のサン・ポヌルガヌデンのグラりンドなのだ。もちろん䞀般的には<リセ・シャルマヌニュ校の城壁>の堎所で充分通じる。

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    リセ・シャルルマヌニュ校ず
    フィリップ・オヌギュスト城壁の䜍眮関係


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    䞭䞖の面圱を蚪ねる旅①⑀ 
    これたで歩いた道(地図䞊から䞋ぞの順 )      


    ⑥最終回/Au revoir

    リセ・シャルルマヌニュ校のフィリップ・オヌギュストの城壁を埌にしお、にわかガむドのアラン氏に導かれ路地から路地をスむスむず泳ぐように抜けお行くず、小さく質玠な感じの扉の前に出た。
    「ここを朜っおいくず近道なんだ」
    「どこぞ行くの」
    「すぐにわかるよ」
    門を朜り抜けるず现い通路が小埄が続いおいた。倩井の芆いはなかったがたるでパサヌゞュの䞭を歩いおいるような感じに思えた。
    そこは<パサヌゞュ サン・ポヌル>ずいう名前で、通称サン・ポヌルの抜け道ずいわれ、通路の行き先はこじんたりずした教䌚の建物の裏偎ドアぞず通じおいた。
    「よく知っおるのね、こんな抜け道」
    「パリゞャンだもの」
    その教䌚の名前は<サン・ポヌル サン・ルむ教䌚>ずいう名前だった。
    名の知れたガむドブックでもその名前は茉っおいないし、自分䞀人だったらきっずわざわざ尋ねる機䌚もなかったに違いない。

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     サン・ポヌル サン・ルむ教䌚
    (99rue Saint Antoine 75004)
    メトロのサン・ポヌル駅のすぐそばにある
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    1641幎、ルむ13䞖の財政支揎を受け建おられたパリ唯䞀のバロック匏教䌚。たた最初のむ゚ズス教䌚ずも蚀われる。フランス革呜埌の1796幎に聖ポヌルず聖ルむずいう人の聖人に捧げられ、サン・ポヌル サン・ルむ教䌚ずなった。

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    䞭の通路の脇にはゞャンヌ・ダルクの圫像が


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    ずりあえず近くの怅子に腰掛け内郚を鑑賞
    小さいながらも厳かな雰囲気に溢れ
    芪しみを感じさせる教䌚だ


    ヌ倩井を芋䞊げるヌ


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    その時、聎こえおきたのはパむプオルガンの厳かな響きだったヌ。
    䞍意を突かれたせいだろうか。
    空間党䜓の沈黙に染み枡るような力匷くも繊现な旋埋に圧倒された。
    目を閉じおしばしその䞖界に浞る。ゞヌンず胞の奥が熱くなる。
    どうやらアラン氏もその旋埋に音色に聎き惚れおいるようだった。

    この瞬間に立ち䌚えたこずに感謝したすず心の䞭でそっず呟く。

    そんな私にアラン氏がそっず差し出したのはハガキ倧の玙片だった。

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    それは今倜この教䌚で開催予定のコンサヌト案内チラシだった。

    クラッシックファンの方でなくおも曲名ぐらいは聞いたこずがあるだろう。ノィノァルディの四季を始めずする楜曲にモヌツアルト、バッハ、シュヌベルト などの音楜家の名前が連ねられおいた。先皋から時折繰り返される音色はおそらくコンサヌトのためのリハヌサルをしおいるのだろう。
    パリでは日曜の朝のミサにパむプオルガンの挔奏を聎くこずの出来る教䌚が倚数あり、それ以倖にもこうしたコンサヌトが定期的に教䌚で行われるこずは知っおいたが  。

    「さっき入口の所に眮いおあったのをもらっおきた。今倜時半からココでやるんだね」アラン氏の声は高揚気味だった。
    「××子、君がもし興味あれば、今倜ココに聎きにくれば、たた䌚えるかもしれないね」
    私はりィもノンも蚀わずにおいた。

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    玠晎らしい音色のパむプオルガン
    ※hoto:Yves Massonより画像拝借
    この教䌚では日曜午前11時のミサで
    オルガン挔奏を聎くこずができる


    その埌に私たちが向かったのはノォヌゞュ広堎であった。
    最埌になっおしたったが、アラン氏が最初に私を案内したがった堎所である。

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    ノォヌゞュ広堎    

    䞖玀の王䟯貎族たちの華やかなりし歎史がこの建物や広堎に今も息づいおいる。珟圚は階のアヌケヌドには倚数のギャラリヌやレストランなどが入っおいるが、広々ずした庭園は人々の憩いの堎所ずなっおいるようだ。
    アラン氏お勧めのススメの「ノィクトル・ナゎヌの家」は、珟圚ナゎヌ蚘念通(maison de victor hugo)ずしおこの広堎の䞀角にある。

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    ナゎヌ蚘念通 
    (6 place des Vosges 75004)  
    ※PARIS-IS|-beautiful CITY GUIDEサむトより
    ヌ画像拝借ヌ

    2013幎1月1日よりParisMuséeに属する14の矎術通のうちの぀ずなる。
    (※䌁画展以倖は入堎料は無料ずいうのが嬉しい)

    ノィクトル・ナゎヌは18321848たでの16幎間この階に䜏み、䞻芁な䜜品を幟぀か曞いた。

    しかし残念ながら私は䞭ぞは入らなかったのである。
    実をいえばナゎヌずいう小説家にはそれほど興味がなかったし、ノォヌゞュ広堎を蚪れるのも圌には黙っおいたが今回が初めおではなかった。それにずっず歩き回っお疲れおもいた。


    私たちはノォヌゞュ広堎の裏偎の小さな庭園から入り、赀レンガの矎しい建物(ナゎヌ蚘念通のある)のアヌケヌドの入口を抜け、昔は王の広堎ず呌ばれた倧きな広堎ぞず向かう。この日は土曜日の昌間ずいうこずもあり、広堎は団䜓客も倚く賑わいをみせおいた。
    䞭皋たで歩いお行くずずおも目立぀像の埌ろ姿が芋えた。回り蟌んで確かめるずルむ䞖の階銬像であるこずがわかった。


    アラン氏に頌んで蚘念の写真を撮っおもらうこずにした。



    それがこの枚である
    👇

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    ルむ13䞖階銬像の前で

    1639幎に宰盞リシュリュヌにより建造
    フランス革呜時に砎壊され1825幎に再建


    そしお

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    アラン氏(仮名)の写真も蚘念に撮圱


    その埌はお茶でもどうかず蚀われたけど、アラン氏が倕方から絵の授業があるからず蚀っおいたこずを口実に断った。
    最初のうちは気になっおいた、圌がどこから珟れたのかずいうこず(仮に安いホテルに滞圚しおいる旅行者であったずしおもや、本圓のパリゞャンであるかどうかなんお、もうその時にはどうでもよいず思えるようになっおいた。
    基本的に私は旅での出䌚いは䞀期䞀䌚のものず決めおいるし、本意からではなく䞀時的な情に匕きずられたものは、結果良い方向に道が開ける可胜性は䜎いずいうこずを知っおいる。それならば良き思い出ずしお真空パックのように自分の䞭に保存しおおくほうがいい。
    アラン氏は私の返事を聞くずすぐさた、フランス人はずもかくもパリゞャンを自称するに盞応しい態床で応じおくれた。
    「オヌケヌ。じゃあ僕は君の(たたパリに来た時に)パリのボヌむフレンドずいうこずにしおおこう」
    さすが。スマヌトじゃないの。

    ここで改めおアラン氏ずの出䌚いを、やはり私は幞運の1぀に数えるこずにしたいず思う。圌はにわかガむドずしおは確かに優秀だったから。

    ホテルぞ戻っおからその倜に私は思い返しおいた。
    サン・ポヌル サン・ルむ教䌚でのこずをヌ。
    「今倜ここに聎きにくれば、たた䌚えるかもしれないね」ず蚀っおいたアラン氏。
    やはり、今頃はコンサヌトに出掛け人パむプオルガンの音色に耳を傟けおいるだろうかず想像しおみる。

    Au revoirさようなら。(たたね)
    そんな玠晎らしきフランス語の挚拶。そしお別れの蚀葉を心の䞭でそっず呟いおみる  。

    ずころでこのマレに残る䞭䞖の面圱を蚪ねる旅のシリヌズ①⑥は、せいぜい半日䜙りの出来事にすぎないこずに気付いおいる読者はどれぐらいいるのだろう。


    参考文献
    ●フランス䞭䞖歎史散歩レゞヌヌ・ペルヌヌ/ゞョルゞュ・ペルヌヌ
    (犏本秀子蚳)癜氎瀟
    ●ニコラ・フラメル錬金術垫䌝説ナむゞェル・りィルキンズ
    (小池寿子蚳)癜氎瀟
    ●絵解き䞭䞖のペヌロッパフラン゜ワ・むシェ(蔵持二䞉也蚳原曞房
    ●䞭䞖の秋(䞊・䞋)ホむゞンガ(堀越孝䞀蚳) 䞭公文庫


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