ミュシャの振れ幅。きれいなお姉さんが、夜の帷になる。
先日、宇野亞喜良さんやビアズリーなんかの絵のことを考えていたら、ミュシャのことを思い出した。
アルフォンス・ミュシャ。あの、装飾がたくさんあって、きれいなお姉さんがぺたりと描かれている絵。
たしか、小学生くらいのときに初めて見たんだと思う。モノクロの線画にしたら、塗り絵として楽しそう。でも、塗り分ける回数がとんでもなく多くなるな、と思った記憶がある。
とにかく、装飾がすごい。手数が多い。
まぁ、アール・ヌーヴォーを代表する作家だから、そういうものなんだろうけど。あれだけゴテゴテ描いているのに、お上品。淡めでまとまった色も、たぶん一役買っている。
で、とってもきれいな絵。(美人だし)
人気があるのはよくわかる。わかるんだけれど、なんか違和感がある。
きれいだよね。感じがいいよね。
と言われれば、そうだね、と返事はする。
たしかに、完成度が高くて美しい。そして、美しさってこういうものですわよね、と提示してくる感じ。でも、心が通わない気がする。
まぁ、そもそも。そういうタイプの絵だよね、とも思うけれど。
でも、このミュシャ。のちに「スラヴ叙事詩」という、とんでもない絵を描いている。「スラヴ民族の苦難と栄光の歴史」を描いたと言われるこの絵は、内容もすごいけれど、サイズ感も半端ない。いちばん大きいものが、縦6メートル、横8メートル。ぜんぶで20枚。
あの展覧会、いつ観たんだっけ?と調べてみたら、2016年だった。え?と思う。いまが2026年。10年も経っている。なのに、あの空間のことを、いまだに生々しく覚えている。
絵が視界に入る前に、展示空間に漂う空気。まだ絵そのものを見ていないのに、空気の密度だけが先に届く。
まるで夜の帷(とばり)が下りたような絵だ。重くて、湿度があって、空間を包み込む。そして、見ているわたしも、その空間に飲み込まれる。
けれど、その圧は、けっして押し付けがましくなくて、鑑賞者を襲ってこない。
わたしが、絵を見る。
絵が、わたしを見る。
そのうち、自分の輪郭がわからなくなる。意識が溶け合い、自分が「見ているわたし」なのか、絵の中に存在している人物なのか、境界が消える。
そして、肉体を離れ、意識となった自分が、空気となり、粒となり、その空間に漂う。
なんだろう。絵が持つ、この力って。
あの、装飾的な、おすまし美人のお姉さんの絵を描いたのと、ほんとうに同じ人物なのか?と疑いたくなる。
でも、あらためて考えてみると、「スラヴ叙事詩」の色遣いには、いわゆるミュシャらしい美しさが残っている。
淡くて、やわらかくて、どこか夢の膜がかかったような色。
ただ、その色が向かっている先が違う。
女性像では、それは“きれい”として表面に出てくる。
でも「スラヴ叙事詩」では、その同じ美しさが、夜の帷みたいに空間全体を覆っている。
色彩の捉え方みたいな、根底に流れているものは変わらない。
でも、おなじ、ひとりのニンゲンから出てくる、この表現の振れ幅。なんだかすごい。
振り返ってみると、わたしだって、山あり谷あり。谷あり谷あり。ちっちゃな石ころにつまずいてコケてみたり、なんにもないと思っていたところで、強化ガラスに顔面からぶつかっていったり、いろいろなことがある。
でも表現の振れ幅って、そのひとが、どこまで自分の芯に深くもぐったかと、無関係ではない気がする。
そういえば、ゴヤは、華やかで美しい色遣いの宮廷画を描いた一方で、「我が子を食らうサトゥルヌス」みたいな、狂気も含んだ黒い絵のシリーズを描いた。
逆に、ルドンは、目ん玉とか怪物とか描いていた黒の時代のあと、一気に色彩が開花した。
外に向けて開かれた美から、内側や集合的記憶の重さに向かった、ミュシャ。
社会の表面から、人間のリアルと世界の底へと引きずり込まれた、ゴヤ。
内側の闇や夢の底から、色と光のほうへ開花した、ルドン。
陽から陰へ。
陰から陽へ。
ひとの心のなかって、どうなっているんだろう。
時代背景もあるだろうし、個人的な要因もあるだろうし、いろいろなタイミングみたいなこともあると思う。
もちろん、絵を見ただけで、そのひとの人生がわかるわけじゃない。
それでも、作品を追っていると、そのひとの振れ幅や密度みたいなものが、少しだけこちらに届いてくる。
そこで、自分の人生はどうなんだろう、と思ってみた。
密度は、たぶん、ちょっと濃い。
でも、濃いというより、陰・陽・陰・陽・くるっと廻って、また陰・陽みたいな感じかもしれない。
そう思いながら、ベランダに出た。
それはそれで、大変だよなぁ。
空をぼーっと眺めながら、頭をぽりぽり掻いた。
※この記事は、はてなブログ「今日も懲りずに『脳みそ散歩』」に掲載したこちらの記事をもとに、note創作大賞応募用に整えたものです。
