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📖新しい道は"確信"にはない。映画『教皇選挙』は疑いと信仰の合間を漂い決断する魂の物語。

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    He said I should have it removed. But I refused… because this is the body God gave me.

    映画『教皇選挙』(原題:Conclave)のラストシーンで核心が暴かれたとき、我々はローレンスと共に息を飲み、ベニテスの言葉に神の御心を感じ、混乱、喪失、そして祝福ともつかない感情を抱えながらエンドロールを迎えることとなる。

    物語の終盤、新たな教皇として選ばれたベニテスの持つ「健康問題」は予想もつかない形で我々にもたらされる。しかし、自らがインターセックスであることを告白し、静かにそして穏やかに「この身体は神が与えたものだ」と語る。その場面、ローレンスと共に、我々は何を思うのか。

    教皇選挙というカトリック世界の最も厳粛な場で、男性しか叙階されえないはずの制度の根幹を揺るがす事実の開示は、衝撃を与えるものだ。しかし、それを語る当の本人にとっては事実の開示であり「告解」の重みを一切もたない。まるで何でもないかのような笑みを浮かべ、それ自体を「どう受け止めるのか?あなたはどうするのか?」を問われるような沈黙と空気の中で、我々はまるで彼の腕に抱かれるようにゆっくりと息を吐くことしかできない。

    この告白は、映画全体を貫くテーマを一挙に浮き彫りにしていく。すなわち、われわれが当然と信じ込んでいる「二元的な対立」や「絶対の確信」などというものはなく、神の御前において万全ではないということだ。

    また、この「万全ではない」という曖昧性が、聖職者かつ教会世界観のトップに立つ教皇を選出する場においても同様であることが、我々にさらなる疑念を与える。神に仕え、神に奉仕し、神の子羊であり、その規範となるべき教会の中で選出された人間である「枢機卿」たち、またそのトップの「教皇」に選出されんとする対象も清廉潔白の望ましい形をしていない。俗世の流れ、自分の中にある差別心、許されぬ罪、対立、欲望を剥き出しにするのは、信仰を体現すべき聖職者の理想の姿とは程遠い。

    ”certain” と”debut” の間を揺らぎながら、揺らぎを後押しするように開示される様々な「事件」によって自分の振舞い方を試されるような重苦しさを、私たちはローレンスを通して目撃し投票結果に誘われる。

    I'm a manager.

    劇中で何度もローレンスはこの言葉をつぶやく。自分に与えられた役割を全うすることが、前教皇、ひいては神に与えれた役割であると自分に言い聞かせる。あまりにも重大な秘密や規定違反を前に彼の心は引き裂かれるも、指針となってくれた教皇はもうおらず、彼が残した「お前は羊飼いではなく、管理者なのだ」という言葉の意味を模索しながら、"manager" の仮面を自身に強く押し付けていく。

    何が正しいのか、何を選ぶべきなのか。役割とは。その役割の中のすべきこととは。極めて難しい問いだが、コンクラーベは結論を出さねば出られない牢獄だ。闇雲に結論を引き延ばせば「教会の威信」の失墜につながるため、執行者であるローレンスは袋小路である。彼は「決断」を下さないといけない。集められる情報、寄せられる秘密、自分の中に沸き上がる疑念、まっとうすべき役割…その狭間で自我を消すことはできない。決断とは常に「自己の体現」であり「観察者」ではいられない。決断こそが"manager"の本質的な役割だからだ。

    本作の舞台となる「コンクラーベ」は、カトリックにおける最重要儀式の一つであり閉ざされた場所で行われるため、多くの人々にとって謎めいた存在である。特に日本人にとってはまるで馴染みのない世界と言えよう。一人の教皇が亡くなった後、枢機卿たちが集まり、新たな教皇を選ぶ一連の密室ドラマ。その重厚な儀礼を通して、伝統と権威に彩られたカトリックの真髄を覗き見る……というのが、一般的な人々の興味関心だ。

    その時にわかりやすい構造として「組織内対立とそれをコントロールする野心を持たない管理者」の構図は、我々をまったく未知の世界に誘う案内人のように感じさせ、ローレンスの「正しさ」は知らぬ世界に導かれた私たちにとって唯一理解できる対象であるかのように錯覚させる。だがこの作品は、単なる宗教儀礼の描写や政治サスペンスに終始せず、「人間とは」「信仰とは」という普遍的な問いを浮上させる。特にベニテスの存在はその問いを強烈に照らし出す。突如現れたリストになかった枢機卿は、文字通りの「鍵」として機能していく。

    ベニテスがインターセックスであるという事実は、最後の最後に禁忌やタブーに近い扱いであるかのように提示される。大波乱のコンクラーベを超えて枢卿たちの心をひとつにした「無垢な」リストに上がっていなかった枢機卿が、カトリックキリスト教のトップとなることは、ローレンスはもちろん、傍観者である我々はハッピーエンドとして受け止める。まるで着地点が見えなった混沌とした世界から、これしかなかったと思えるような美しい道しるべに照らされた結果は「神が導いた答え」と疑う余地がないほど…”確信”を持たせる予定調和である。しかし、やっと解放されたと思った中で、新たな問いが提示される。

    男性しか司祭・司教にはなれないという教会法の定めが厳然と存在し、両性を有する場合に「特徴的な性」が強いほうによる…という極めグレーゾーンな規定がある中での「外見的身体特徴には現れない別の性」の存在をどう規定を解釈するか?を我々に問いかける。しかし当の彼は、なにも恐れず、なにも疑わず、ただ、ある形を「神が与えたもの」として "innocent "に打ち返す。その瞳に一切の濁りがなく、一切の迷いがない。それを目の前にして動揺して詰問するこちらが矮小な存在に思えたのはローレンスだけではないはずだ。

    「神が与えたもうた身体を、なぜ自らの意志で切り捨てなければならないのか」。その言葉には、神に対する信頼と、自分自身が“神によって創造された存在”であるという自覚がにじみ出ている。この映画が見せるベニテスは、たんに障壁を打ち破る革命児でもなければ、被害者としての哀れさをまとう人物でもない。むしろ、自分の身体をありのまま受容し、かつ教会が大切にする信仰を守りながら、両性を保持する境界的アイデンティティを生きてきた静謐な人間として描かれている。

    ここが本作の面白さであり、同時に強いメッセージでもある。カトリック教義は男性司祭制を厳守し、様々な戒律や不文律が存在する現代社会とは距離を置いた存在である。しかし、グローバリゼーションの波の中で教会自体にも強い「多様性」を求められる波がある。男性中心の家長制的世界観、肌の色、出身地、戒律の解釈、女性の立場への見解など、次の「教皇」を誰にするのかとは、すなわち教会の思想と立場を表明することでもあり、極めて政治的な思惑が含まれている。

    様々な思惑の中で選出されたベニテスはラテン・ヒスパニック系のバックグラウンドと容姿を持つカブール大司教であり、戦争や荒廃地域の活動に身を投じてきた背景を持つ人物である。隠されてきた枢機卿であるが故に、現行の組織利害関係が極めて薄く、野心ががない人物として「完璧な」落しどころを体現していた。要は彼を「インノケンティウス14世」として選出した結果は、教会のスタンスとして”多様性”を体現し、戦争やテロが跋扈する不安定な世界の中で再び”教会”の意義と地位を確固たるものにできる素養があり、かつ内部的な力関係に寄与しない観点からも全ての都合がパーフェクトに揃っていたわけだ。

    しかし、「完璧」に見えたベニテスは両性を有する身体を持つ。この対立は、本来なら互いを否定し合うしかないはずだ。その全ての布石が、そこに示される石が、曖昧さや矛盾を内包しつつも「新しい道」を切り開く寓話として描かれているように思える。ベニテスのインターセックスという状況は「完全に男か女か」を決めきれない曖昧さを孕むが、しかし当人は、その身体を“神からの贈り物”として祝福しているようですらある。どちらかを排除するのではなく、そのまま抱えている。その姿は、中盤のローレンスの説教と呼応する。

    "My God why have you forsaken me?”
    He cried out in His agony at the ninth hour on the cross. Our faith is a living thing precisely because it walks hand in hand with doubt. If there was only certainty, and if there was no doubt, there would be no mystery, and therefore no need for faith. Let us pray that God will grant us a Pope who doubts. Let Him grant us a Pope who sins and asks for forgiveness. And carries on.

    「割り切りたい」「確実にしたい」という人間の欲求を乗り越え、あえて中間・曖昧さの中で神に尋ね続ける態度。そこに“疑いと共に生きる信仰”の真髄がある、と映画は示唆しているかのようだ。

    本作では他にも二律相反の構図がたびたび提示される。例えば、テロリズムの脅威に揺れる世界で「武力を強化すべきだ」という過激発言をする枢機卿たちと「戦争はさらなる悲劇を生むだけだ」と訴える者たち。あるいは、バチカンにおける保守派と革新派の対立やリベラルの台頭。

    映画の終盤、ベニテスが紛争地帯での奉仕活動経験を語り、「本当の戦争を知っていますか?」と問うシーンがある。周囲の枢機卿たちはテロへの恐怖を煽るが、彼ほど“戦争”の悲惨と惨状を肌で知っている者はいない。しかし彼は、その苛烈さを持ち出して教会の権力拡大や強硬策を進めるでもなく、かといって全てを放棄するでもなく、「私はここには二度と来ないだろう」と静かに言い放つ。その決然とした態度には、常識的な二元論“戦うか、戦わないか” “従うか、批判するか”をすべて超えて、「自分は神に対してどう向き合うか」という新しい次元で行動しているように感じられる。権威に溺れるでもなく、逆に権威を徹底的に打ち壊すでもなく、ただ淡々と「与えられたものを受け入れ、そこで生きる」姿に、一種の美しささえ漂う。

    こうした対比がいくつも出てくるが、その都度、本当に大切なのは「どちらが正しいかを即断することではなく、どう折り合い、どう新しい道を探るか。それを実行するためにどう決断するのか。」であると示されるのが特徴的だ。二つの属性を同時に抱え、両者を分断せずに「受け入れる」ことで、これまでになかった調和や理解を生み出す可能性を漂わせている。しかし、この解も「正しいものなのか」は誰にもわからない。

    受け入れることにも決断は伴う。秘密とすることにも決断が伴う。受け入れることや折り合いを探るとは決して受動的な行動ではなく、誰もが逃げられない自分自身との対話であるとこが何度も示される。彼らは聖職者であり、神の前に等しく「逃げられないことを知っている。」のだ。この点において、舞台がカトリック教会の内部の話であり、神の声の代弁者たる枢機卿であることでの強度が一気に上がる。

    ここで思い出すのは、同じく劇中でローレンス枢機卿が述べた「教皇になりたがる者は危険だ」という言葉だ。ベニテスは決して教皇の座を渇望していない。むしろ誰よりも距離を置き、教皇選挙に嫌気が差しているようにさえ見える。だが、だからこそ彼こそが選ばれてしまう。まるで不思議やパラドックスを抱えた状態が、最終的にもっとも神に近い在り方であると言わんばかりだ。この構図こそ、二律相反を「対立」で終わらせるのではなく、新しい道へと変換してしまう物語の妙味である。

    映画のタイトルは日本語で『教皇選挙』。しかし、その内実は「未来を紡ぐ」とは何か、そして「信仰とは何か」を問いかける魂の旅にも見える。確固たるドグマや外形的な権威に依存してきた人間の世界は、やがて限界にぶつかる。テロに脅える枢機卿たちの姿は、恐怖に屈して暴力か支配かの二者択一に走りがちな現実社会とも重なり合う。だが、映画が提示するのは両性具有の新教皇という大胆なイメージを通じて、「われわれの想像を超える仕方で神は働き、偏見や断定を超えたものを生み出すのではないか」という希望だろう。確信でがんじがらめになったものを解きほぐし、両極に割り切れないままでも前に進む道を示唆している。

    ローレンスの説教が何度も示す「信仰は疑いと共に歩む」というメッセージは、映画の全編を支える哲学であり、ベニテスの身体をめぐる選択と呼応している。「男か女か」を決定し切らない、両方を抱え続ける。不自然、不具合と見なされる部分に神の意図を読み取り、自分がどう生きるかを探す。そこには安易な確信も、単純な解答もない。けれども、だからこそ生きている信仰が芽生える。混沌の果てに静かに「インノケンティウス(無垢)」を名乗る場面は、彼自身が“受容”した全ての矛盾の結実であり、同時に観客へ「我々自身が抱える矛盾や葛藤をどう処理するのか」という問いかけを放っているように見える。

    二律相反の境界に立つ者こそ、新しい世界を開くかもしれない。映画は、その予感をまばゆい光のように示しつつ幕を下ろす。誰一人として完璧ではなく、皆が疑いと罪を背負い、それでも祈りながら進む。それが信仰者の姿であり、世俗的な組織の権力闘争のただ中であっても“聖性”が宿り得ることを暗示する。ローレンスとベニテスという二人の枢機卿の交流、そして最後に明かされる教皇の秘密を追体験することで、私たちは自分の日々の確信や思い込みを揺さぶられ、あらためて自問するはずだ。

    「本当に大切なものは、確固たる答えを示すことなのか。それとも答えを持たぬまま、それでも作り出していくものなのか。」と。

    まさしく、この作品が語りかけるのは「新しい道は“確信”にはない」ということ。世の中では何かを断定し、手っ取り早く安定を得ようとする圧力が強まる一方、“迷い”や“疑い”は弱さの象徴と見なされがちだ。しかし映画は、まさにその迷いの中にこそ本質的な“創造性”や“信仰の力”が宿るのではないかと静かに説く。そこには“神の不可思議な導き”への畏敬が満ちている。そして冒頭の台詞「He said I should have it removed. But I refused… because this is the body God gave me.」という宣言が、われわれの心にも響く。

    ありのままの自分を受け入れるか否かが人生の大きな分かれ道になるならば、安易な“確信”を抱くことよりも、疑いや不安をも抱えて神と歩む方が、はるかに実りある時間を開くのかもしれない。

    映画『教皇選挙』は、こうした根源的テーマを観客にそっと手渡す魂の旅だ。男と女の中間に留まる身体が意味するのは、ただのスキャンダラスな奇をてらうネタではない。むしろそれは、生きるうえで私たちが遭遇する「割り切れなさ」を象徴している。善悪、正邪、保守か革新か。さまざまな対立が世界には満ちているが、そのどちらか一方に落ち着かず、“曖昧さ”や“二面性”を受容して前に進むという選択肢もあるのだ。だがそれを決断するのは常に「自己」であり、その正しさはだれも補償していくれない。

    新しさや未来を紡ぐとき、それは過去の道のみにない。そして神は我々に語りかけてはくれない。我々の道を選んだ先に、神の意思が見える瞬間があるだけで、自分たちの生きる道は、我々が悩み、苦しみ、迷い、そして選んだ先にしかない。

    あまりにも現実的かつ圧倒的な絶望と、選び取るべくして足掻く人間の希望を提示したくれた本作は、私たちに対する生きることの意味と苦しみを鮮やかに照らし出すヒントをくれるだろう。

     
     
     
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