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あの日、親友は私を慰めなかった

6年前の入院中。
起床→リハビリ→運動→昼食→リハビリ→読書→リハビリ→夕食→就寝。
そのループの中で、精神のバランスを崩す日がたまにあった。理由はあるようでない。単調な日々の繰り返しの中で、1日を「生きる」ではなく「こなす」という感覚になり、自分の存在を信じられない虚無状態に陥った。
そこから一人で抜け出す方法が分からなかった私は、決まって姉や幼馴染に電話をかけた。過去の後悔、現在の苦痛、未来の不安。どの方角もネガティブな空気で充満していて、換気するための窓が電話しかなかった。コロナの影響で、外出も面会も一切禁じられていた。
電話をかけるのは真昼間であったり、真夜中であったり、灰色に白みかけた早朝だったりした。

目覚めた瞬間から落ち込んでいたその日、中学時代からの友人に電話をかけた。
「これからどう生きていけばいいんかな。今の私の存在は、誰の役にも立ってない。生きてる意味がない。社会のゴミみたい。」
今思えば、私は誰かに甘えたかっただけなのかもしれない。身に起こった不運にかこつけて、悲劇のヒロインな自分に酔っていたのかもしれない。

そのとき友人は、突き放すように言った。
「あんた自身がそういう風に世界を見てるからじゃないの。役に立たない人は社会のゴミ、生きる価値がないって」
強く地面に打ち付けたボールが、勢いよく跳ね返って顔面に激突したような衝撃だった。



たまにあのときのことを思い出すと、今でも顔面が熱くなるくらいの羞恥心と情けなさに襲われる。そしてそんな日は、とりあえず近所の神社にお参りに行ってクールダウン、という謎の習慣ができた。
特定の宗教に対して信仰心を持つわけではないけれど、神社に行くと、ほっとするのはなぜだろう。スピリチュアルブームにのっかり、行く先々で神社にお参りするうちに、見返りを求めずに感謝するという行為そのものに心安らぐ仕組みになった気がする。

アパートから徒歩10分の場所にある神社には、引っ越してきた翌日に初めて訪れた。願い事はしない。ただ、感謝だけを伝える。それも本だかYoutubeだかで仕入れた受け売りの作法だけど、正しい気がするからそうしている。
本坪鈴を鳴らし、心ばかりのお賽銭、そして二礼二拍手。
――今日も生かしてくれてありがとうございます。ここに来させてくれてありがとうございます。
一礼。
ゆっくりと顔を上げると本堂の奥には、鏡というより、磨き上げられた銀食器のような円盤が、うっすらと光を返している。
いつからか、そこに移る今の自分はどんな表情をしているだろうと、想像するようになった。


あの日、私を救ってくれたのは優しい言葉じゃなかった。
ありのままの私を映し返す、一枚の鏡だった。



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