『クロミちゃんで、世界が重なった夜』─共通言語という名の鍵─
深夜の病棟は、
静かで、張り詰めている。
キーボードを叩く音さえ、
やけに大きく響く。
……でも、
その一室だけは異様だった。
怒声。 物音。 荒い呼吸。
言葉の通じない
「怒り」
に支配された、一人の患者さん。
制止の声は届かない。
環境を整えても状況は変わらない。
興奮は波みたいに押し寄せ、
引く気配を見せなかった。
僕はナースとして、 できるカードを一枚ずつ切っていた。
距離を取る。
刺激を減らす。
短い言葉で伝える。
でも、
全部空を切る。
……いや。
正確には、
“会話”になっていなかった。
彼女の世界と、
僕の世界が、
一ミリも重なっていなかったからだ。
このままでは崩れる。
そう思った時、
僕はほとんど敗北に近い感覚を味わっていた。
──ふと、 視線が足元に落ちた。
彼女が履いていた私物のスリッパ。
そこに描かれていたのは、
サンリオのキャラクター、
クロミちゃんだった。
黒いずきん。
いたずらっぽい笑み。
ちょっと毒っ気があるのに、 どこか憎めない顔。
殺伐とした空気の中で、
その小さなキャラクターだけが妙に浮いて見えた。
場違いなくらい、 やわらかかった。
──これだ。
根拠はなかった。
でも、 勘みたいなものが、
「そこに触れろ」と言っていた。
僕は、張っていた声を少し落とし、
彼女に、こう問いかけた。
「……クロミちゃん、好きなんですか?」
──その瞬間。
彼女の拳が止まった。
ほんの一瞬。
でも確かに、 “怒りの波”がピキッと凍りついた。
視線が泳ぐ。
僕の顔と、 自分の足元のクロミちゃんを往復する。
『……なんで、知ってんの』
低い声。
でも、 さっきまでの叫び声とは違う。
ちゃんと、
“こちらへ向けられた言葉”だった。
……通じる。
『世界が、 少しだけ重なる音がした。』
僕は脳内の引き出しをひっくり返し、
浅いサンリオ知識を総動員する。
「サンリオピューロランドとか、行ったことあります?」
『……ある。小6のとき』
「いちご新聞とか、読んでました?」
『……ママが買ってくれてた』
彼女の目の焦点が、 ゆっくりこちらに合っていく。
さっきまで 僕を“敵”として見ていた視線が、
懐かしい記憶を探す目に変わっていく。
「サンリオだったら、 ハンギョドンとか、ばつ丸も好きなんですよね」
僕がそう言うと、 彼女の口元が少しだけ緩んだ。
『ばつ丸とか、 まじ懐かしいんだけど……』
そこから先は、早かった。
不穏の結び目は、 少しずつほどけていった。
怒りは、 思い出話へ変わっていく。
昔好きだったキャラクター。
集めていたグッズ。
友達と行ったピューロランド。
気づけばそこにいたのは、
「対応する看護師」と 「興奮している患者さん」
じゃなかった。
ただの、
「クロミちゃんを知っている者同士」
だった。
あの夜、
不穏を沈めたのは、 高価な薬剤でも、 洗練された看護計画でもない。
一足のスリッパと、
僕の記憶の片隅に残っていた、 「いちご新聞」だった。
“知識”って、
本来こういうものなのかもしれない。
誰かに勝つためでも、
賢く見せるためでもない。
『閉ざされた誰かの世界へ入るための、 小さな“橋”』だ。
言葉が届かない時。
世界がズレてしまっている時。
その橋は案外、 こういうどうでもいいもので架かる。
アニメとか。 ゲームとか。 サンリオとか。
僕たちはたぶん、
毎日そういう「共通言語」
を探しながら生きている。
あの夜、 スリッパに描かれていたクロミちゃんは、
間違いなく、
僕たちにとっての救世主(メシア)だった。
──その後、
クロミちゃんとマイメロの関係性をちゃんと調べた。
次の夜勤で、
また誰かの世界に入るために…..
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