「芸術は爆発だ」を芸術の遺言にしていいのか
1.芸術は爆発だった
時は20世紀、芸術は爆発だった。
社会に、そして自分自身に無目的の闘いを挑み続け、古い価値観を壊し、新しい時代を創造する。そんな男がいた。
彼は多くの人を惹きつけ、また、怒らせてきた。そして彼の感情や衝動に呼応するのは、いつも芸術だった。
当時、彼を含む多くの芸術家が苦しみ、絶望しながらも、新しい芸術を貪欲に追及していた。命を懸けて芸術をしていたのだ。岡本太郎の言う、「芸術即人生」を借りるなら、こう言えるだろう。彼らは命を懸けて自分の人生を生きていたのだ。芸術家のこのような生き方は鑑賞者のそれにも大きな影響を与えていたに違いない。
美を創造するものと、それを受けとめるもの、芸術を中心とする人間関係だが、極言すれば、ぼくは、つまり相互は同じ運命にあると思う。
2.現代の芸術
さて、私は今年の1月に岡本太郎著『今日の芸術』を読んで、衝撃を受けた。芸術というものはこんなにも面白く、人間の存在に強く働きかけるものなのか。と。
今日の芸術はうまくあってはならない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない。
「芸術は爆発だ!」
『芸術とは、爆発なのだろうか?』の記事を読んで、私はこの言葉について今一度考えさせられることになった。
岡本太郎に興味を持つようになるまで、私の中でこの言葉はただのキャッチコピーでしかなかったのかもしれない。だが、『今日の芸術』でこの言葉が持つパワーを知った時(直接この言葉が書かれていたわけではないが)、私にはまだこれが力強く輝いているのが確かに感じられた。
それは、私が、目的のために実用化された芸術を見て、芸術への冒涜だと感じたことがあったからであろう。
アートワールドの不快
しかしどうやら、現代において、芸術とは爆発ではないらしい。
先の記事によると、「芸術は爆発だ!」と声高に宣言すること自体が全くの無意味である。それは芸術がアートワールドによって定義され、すべての芸術に目的が与えられたからだ。
芸術は爆発ではないし、内的な衝動など存在しない。そう定義されているのだ。
私はそんな現状に大きな不快感を覚える。本来、芸術というものは個人の内に存在するはずであって、外部によって定義されるほど矮小なものではないはずだ。と、私は信じているからだ。
新しさに囚われた現代芸術家
デュシャン以降の現代芸術家の態度には、1つ、大切な視点が欠けているように感じる。彼らは真に新しい芸術を求めているのではない。新しさという正解、つまり観念を求めているのだ。私にとって、そこが疑問だ。
彼らは新しさに囚われている。いや、自ら囚われに行っているともいえるだろう。そしてその限り、本当の新しさなんてものは生まれない。
復活の呪文
先の記事では、「芸術は爆発だ」という言葉は、芸術が現代の異様な姿に変質してしまう前に残したメッセージ。つまり芸術の遺言だというのだ。
私はそのような一種の諦めに近い態度に対して、否と言いたい。
私たちはこの言葉を、芸術の遺言としてではなく、芸術を復権させる、復活の呪文としてこそ唱えなければならない。
3.これからの芸術
芸術が崇高な存在となり、また商業化したのは事実だ。だが、私はその事実に迎合するわけにはいかない。
芸術の危機は芸術の好機
現在、芸術はAIの登場によって、深刻な危機に直面していると言われている。だが考えてみてほしい。危機に直面しているのは、本当に「芸術」なのだろうか?いや、そうではない。それは商業的・目的的な芸術である。
商業的・目的的な芸術がもはや機能しなくなったとき、再び姿を現すのは何だろうか。それは、無目的的な、人間本来の芸術だ。
つまり、この現状は芸術の危機ではなく、芸術の好機なのだ。
この現状は人間の危機ではなく、人間の好機なのだ。
「爆発」宣言
今こそ、人間本来の芸術の生々しさ、呪力を取り戻さなければならない。
このような宣言は楽観主義にすぎないと思うだろう。だが、だからこそ、私は宣言する。「芸術は再び爆発する」と。
岡本太郎が起こした爆発の残響が、今も私たちと芸術とを引き合わせている。今度は私たちが爆発を起こす番なのではないだろうか。
4.おわりに
ぱんくず太郎でございます。今日は少し背伸びをして現代の芸術について思ったことを書いてみました。散漫な文章にはなってしまいましたが、自分の気持ちに正直に書けたんじゃないかなーと思っておりますよ。
この記事が、現代の芸術について考え直すきっかけになれば嬉しいです。
ではまた。
