
第3節:観測誤差
スパークのだらりとぶら下がった足を見上げながら、メイリンはキッチンの椅子に腰を下ろし、思考を休めていた。
電子レンジが短く鳴り、取り出せとせかす。ニューヨークは日ごとに湿度が増し、蒸し暑さに不快指数も上がっていく。それでも室内は大型ファンと空調のおかげで、外の不快さとは切り離された静けさを保っていた。一人と一匹は、午前九時をそこで黙って過ごす。
メイリンはレンジをなだめるように扉を開け、ナイッシュ!と書かれた紙袋を指先でつまんでテーブルへ運んだ。中身を出すと、パンパンに膨れた袋は蒸気を吐きながらしぼんでいく。紙皿の縁に刷られたオレンジのラインが、熱でわずかに波打っていた。湯気が細く立ち上る。フォークを刺し、立ったまま食べる。座って食べることは、ここ数年ほとんどない。味はほとんど残らなかったが、トマトソースの酸味だけが舌の奥にわずかに残った。
スパークが梁の上から降りてきて、テーブルの端に前足をかける。丸い目がフォークの動きと連動するようにキョロキョロ追っていた。
「警告よ。またフォークとったら、あなたごと洗浄機にいれるからね」
スパークは返事をしない。ただ、メイリンの顔色を伺うようにそこにいた。
メイリンはフォークを置いて、スパークの皿に餌を補充した。スパークは一秒だけ匂いを嗅いで、それから食べ始めた。その背中を見ながら、メイリンはスマホを手に取る。画面を開く。
講義開始まで、十七分。
今日の講義もメタバースだった。
キャンパスに行くのは、実験設備を使う日か、誰かに呼び出された時くらいだった。
時間は十分ある。
通知欄に、リナからのものはなかった。メイリンは画面を閉じ、紙皿を水でさっと流してから、紙袋とまとめてリサイクル用のゴミ箱へ捨てた。