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【縺ゅ 、縺。】~、ィ縺ォ菴上�蜚ッ荳縺ョ莠コ髢薙〒縺ゅj縲∫エ�~ #1 ュ秘、ィ縺ョ荳

    【あらすじ】
    深夜二時、大学生の拓海のもとに、疎遠だった友人・梨乃からメッセージが届く。だが、その文章の多くは「縺ゅ 縺」と激しく文字化けしていた。拓海は面倒くささと「他人に嫌われたくない」という悪癖から、読める単語だけを都合よく解釈し、適当に話を合わせる。
    「断捨離始めた」「思い切って処分しなよ!」
    しかし、二人の『文字コード(見ている世界)』は致命的にズレていた。梨乃の画面に届いていたのは、拓海の能天気な発言が変換された「冷酷な殺人教唆」。拓海のささいな怠慢が、ストーカーに追い詰められた彼女を最悪のシリアルキラーへと育てる。
    ついに100%文字化けした最後のメッセージ。それを修復ツールにかけたとき、拓海は背後の気配に気付く。

    液晶画面が放つ淡いブルーライトが、深夜の薄暗い築年数の経ったワンルームマンションの壁をぼんやりと青く染めていた。
    大学生の僕――佐伯拓海(さえきたくみ)の日常は、平穏という名の退屈で満たされている。深夜二時。明日も一限から講義があるというのに、ベッドに寝転んだまま、特に見たくもないアダルト動画サイトのサンプルショート動画を親指一本でスクロールし続ける。そんな、どこにでもある、なんの変哲もない夜だった。
    画面の上部に、不意にメッセージアプリの通知が滑り込んできた。
    ポップアップに表示された名前に、僕は少しだけ眉を寄せた。
    『高坂梨乃(たかさかりの)』
    高校時代の同級生だった。当時はそれなりに仲が良く、グループでよく遊びに行ったりもしたが、大学が別々になってからは自然と連絡が途絶えていた。最後に会ったのは一年以上前、成人式の二次会だっただろうか。少し内気で、他人の顔色を窺うようなところのある女の子だった。
    こんな時間に、珍しいな。
    僕は動画を閉じ、メッセージアプリを起動した。
    『拓海、久しぶ り。急 に縺ゅ 縺ご めんね』
    トーク画面を開いた僕の視線が、文章の後半でピタリと止まった。
    一瞬、自分の目が疲れているのかと思った。だが、何度瞬きをしても、その奇妙な文字列は消えなかった。
    「縺ゅ 縺」
    漢字と平仮名、そして空白が不規則に混ざり合った、意味をなさない記号の羅列。いわゆる「文字化け」だった。
    「なんだこれ。バグか?」
    僕は小さく呟き、ベッドの上で寝返りを打った。
    おそらく「急に連絡してごめんね」とでも打ちたかったのだろう。文脈から予測するのは容易だった。最近のスマートフォンは性能が上がったとはいえ、稀に通信環境の不具合や、古いOSのバグでこうした文字化けが起こることは知っていた。
    僕はたいして気に留めることもなく、親指を動かして返信を打った。
    『梨乃じゃん、久しぶり! 全然大丈夫だよ。それより、なんか最後のほう文字化けしてない? スマホ壊れたか、通信環境悪いのかな?(笑)』
    深夜のテンション特有の、少し軽いトーン。既読はすぐに付いた。
    画面の向こうで、梨乃がメッセージを入力していることを示すドットのアイコンが点滅する。数秒の後、返信が届いた。
    『え、そうなんだ。縺偵 縺。ごめん、最近スマホの調子がずっと縺ゅ 縺なんだよね』
    まただ。
    今度は二箇所も文字化けが混ざっている。
    普通なら、文字化けを指摘されたら一度アプリを立ち上げ直すか、設定を確認するだろう。だが、梨乃は自分の画面では普通に見えているのか、あるいは文字化けしていること自体を気にしていない風だった。
    僕はほんの少しの違和感を覚えたが、それを深く追求するほど生真面目な性格ではなかった。何より、夜中の二時に、久しぶりの友人相手に「文字コードがどうの」「エンコードがどうの」と面倒なトラブルシューティングを始めるのが、酷く億劫だったのだ。
    何より、僕には悪癖があった。
    相手に嫌われたくない、話を途切れさせて気まずくなりたくないという一心から、よく分かりもしないことでも「ああ、なるほどね」「分かるわかる」と、適当に話を合わせてしまう癖だ。
    今回も、読める部分だけを頭の中で都合よく繋ぎ合わせ、会話の形を整えることにした。
    「最近スマホの調子がずっと悪いんだよね」――うん、きっとそう言いたいのだろう。
    『そっか、古い機種ならそろそろ買い替え時かもねー。俺の周りでも、最近買い替えた奴結構いるよー』
    当たり障りのない、無難な返答。
    直後、梨乃からの返信。
    『買い替えるのは無理かな……。縺ゅ 縺がずっと部屋の前にいて、怖くて外に出られないの。毎日、ドアを叩く縺偵 縺が聞こえるんだよ』
    一瞬、背筋に冷たいものが走った。
    「部屋の前にいて、怖くて外に出られない」
    「ドアを叩く音が聞こえる」
    不穏すぎる単語が並んでいる。ストーカー、あるいは空き巣だろうか。梨乃は何か犯罪に巻き込まれているのではないか。
    だが、その恐怖心は、文章の中に点在する「縺ゅ 縺」や「縺偵 縺」という、あまりにもマヌケでデジタルな記号の羅列によって、奇妙に中和されてしまった。
    文字化けのせいで、文章全体の緊張感が削がれている。
    (考え過ぎか。それに緊急の連絡なら電話してくるもんな。)
    もしかしたら、梨乃は何かホラー映画でも見ているのではないか。あるいは、新しく始めた怪談系のスマホゲームのスクショか何かの話を、冗談交じりにしているだけかもしれない。内気だった彼女が、大学に入ってから少しオカルト趣味に目覚めた、という可能性だってある。
    ここで大騒ぎして、「警察を呼べ!」などと的外れなレスをして、後から「冗談だよ」と笑われたら恥ずかしい。
    僕はスマホの画面を見つめたまま、脳内で都合のいい解釈を探した。
    「部屋の前」……「部屋の前の『ゴミ』がずっと片付かなくて、カラスが怖くて出られない」?
    「ドアを叩く」……「近所の『工事の音』がうるさくて、毎日聞こえる」?
    そうだ。きっと、何か日常の愚痴を、大袈裟に表現しているだけに違いない。文字化けしている部分に、その「マイルドな原因」が隠されているはずだ。
    『え、それ大丈夫?(笑) 近所の騒音とかかな。大家さんとか管理会社に言った方がいいよ。あんまり気にしすぎると精神的にきちゃうしね』
    我ながら、完璧に大人のアドバイスをしたつもりだった。相手の言葉を否定せず、かつ深刻になりすぎない、絶妙な距離感の返信。
    『ううん、管理会社に言っても縺ゅ 縺だった。だって、縺偵 縺には私の姿が見えていないみたいだから』
    また、噛み合わない。
    「見えていないみたい」とはどういうことだ。やはり、お化けか何かの話なのだろうか。
    『あはは、幽霊か何か? 梨乃、オカルトとか好きなタイプだったっけ』
    『違うよ。本物だよ。毎日、少しずつ縺ゅ 縺が壊されていくの。今日はベランダの縺偵 縺が割られた。もう、逃げられないかもしれない』
    梨乃の返信スピードは、恐ろしいほど一定だった。
    こちらがメッセージを送ると、まるで機械が自動応答しているかのように、三秒後には既読が付き、五秒後には次の文章が送られてくる。
    ベランダの何かが割られた。逃げられない。
    文字面だけを見れば、それは明確なSOSだった。
    しかし、僕の目には、相変わらず「縺ゅ 縺」というノイズがチラついていた。そのノイズが、梨乃の言葉を「どこか遠くの世界の、現実味のないお伽噺」に変えてしまう。
    僕は、彼女の部屋の正確な住所すら知らない。わざわざ電話をかけて探りを入れるのも面倒だ。もし本当に警察沙汰のストーカー被害なら、僕なんかより先に警察に連絡しているはずだ。
    何より、僕はもう眠かった。明日の一限の出席がかかっている経済学の講義のことが、頭の片隅を占領し始めていた。
    『そりゃ大変だ。ベランダのガラスでも割れたのかな? 物騒だし、明日の朝にでも警察に相談しなよ。今日はもう遅いし、鍵をしっかり閉めて寝た方がいい。俺も明日早いから、そろそろ寝るね。おやすみ!』
    僕は、これが最善の切り上げ方だと信じていた。
    これ以上付き合っても、不具合だらけの文字化けメッセージに付き合わされるだけだ。梨乃のスマホが直ったら、また普通の会話をすればいい。
    しばらく、ドットのアイコンが点滅していた。
    梨乃は、何か長い文章を打っているようだった。
    やがて、届いたメッセージは、一言だけだった。
    『縺ゅ 縺』
    それは、今までのどの文字化けよりも短く、そして、なぜか冷ややかだった。
    既読をつけたまま、僕はしばらくその三文字を見つめていた。スマートフォンの画面が、自動スリープでふっと暗くなる。
    ワンルームの部屋に、完全な闇と静寂が戻ってきた。
    エアコンの微かな駆動音だけが響いている。
    僕はスマホを枕元に放り出し、掛け布団を頭まで被った。
    胸の奥に、小さな、本当に小さなトゲが刺さったような不快感があった。梨乃のメッセージの、読めなかった部分。あの「縺ゅ 縺」の裏側に、もし、僕が想像もしていないような別の言葉が隠されていたとしたら――。
    「……気にするな。ただのバグだ」
    僕は自分に言い聞かせるように呟き、目を閉じた。
    文字コードの不一致。システムのエラー。それは現代社会において、日常茶飯事の、取るに足らない不具合のはずだった。
    だが、その時の僕はまだ知らなかった。
    僕が「適当に話を合わせる」ために頭の中で都合よく書き換えたルールが、向こう側の世界では、全く別の、取り返しのつかない「最悪の意味」として処理されていたということを。
    静まり返った部屋の中で、枕元のスマートフォンが、一瞬だけ、ブルリと震えた。
    僕はそれに気付かないフリをして、深く、眠りの中へと落ちていった。

    その日を境に、僕と梨乃の「噛み合わないラリー」は、日常の裏側にこびりつくシミのように定着していった。
    大学の講義中、サークルの部室、あるいはバイトの休憩時間。ポケットの中でスマートフォンが微かに震えるたび、僕はまたあの無機質な記号の羅列を画面に迎えることになる。
    奇妙なことに、梨乃からの連絡は途絶えるどころか、むしろ頻度を増していた。ただ、それに比例するように、彼女の送ってくる文章の「文字化け」の割合は、確実に、そして段階的に増えていた。
    翌々日の昼下がり、大学の食堂でうどんをすすっている時に届いたメッセージが、その始まりだった。
    『拓海、縺ゅ 縺。昨日言ってた通り、縺偵 縺を試してみることにしたよ。すごくスッキリするね』
    僕は箸を止め、画面をスクロールした。
    「昨日言ってた通り」――僕が「管理会社に言うか、鍵を閉めて寝ろ」と言ったことだろうか。それとも「気にしすぎると精神的にきちゃう」という言葉を受けて、彼女なりに気分転換を始めたのだろうか。
    「すごくスッキリするね」というフレーズからは、どこか憑き物が落ちたような、奇妙な明るさが感じられた。
    『お、なんか始めたの? スッキリするってことは、部屋の片付けとか断捨離?』
    僕がそう返すと、やはり数秒で既読が付き、一定のテンポで返信が戻ってくる。
    『うん、断捨離に近いかな。縺ゅ 縺がうるさかったから、全部縺偵 縺して、削ぎ落とすことにしたの。まずは一番邪魔な、突き出た縺励 縺からね』
    突き出た何かを、削ぎ落とす。
    文字化けのせいで核心は見えないが、全体のニュアンスからして、部屋の模様替えか、あるいは不要な家具の解体でもしているのだろう。内気でインドア派だった梨乃が、まさかDIYのようなアクティブな趣味を始めるとは思わなかった。大学に入って、彼女も少しは変わったのかもしれない。
    『へえ、DIYか。梨乃が工具とか使ってるの、なんか想像できないわ(笑)。でも、いらないものを思い切って処分するのは良いことだよ。部屋が広いと心も落ち着くしね』
    『そう、本当にその通り。拓海が縺ゅ 縺って言ってくれたから、迷いが消えたよ。縺偵 縺を使って、根元からガリガリって。思ったより簡単に縺励 縺できた』
    「根元からガリガリって」
    その擬音の生々しさに、一瞬だけ指が止まる。
    古い頑固な汚れを削り落としているのか、あるいは古びた木製の家具でも削っているのだろうか。だが、文章の端々から漂う彼女の「万能感」のようなものが、僕の胸の奥をかすかにザラつかせた。
    何より不気味だったのは、彼女が僕の「いらないものを処分するのは良いこと」という当たり障りのない相槌を、まるで神の啓示か何かのように全肯定して受け止めていることだった。
    『まあ、怪我だけはしないようにね。ノコギリとかカッターとか、刃物使ってるなら特に』
    『大丈夫、痛いのは縺ゅ 縺だけだから。私は縺偵 縺を流しながら、ずっと笑ってた。すごく綺麗だよ。部屋の中が、どんどん私の好きな色に染まっていくの』
    好きな色に、染まっていく。
    ペンキでも塗っているのだろう。壁紙の張り替えか、家具の塗装。
    しかし、「痛いのは」という主語は何だ。文字化けしている部分には、何が入る? 「古い家具」? 「固い木材」?
    いや、家具は「痛い」とは言わない。
    そこまで考えて、僕は思考を放棄した。
    文字化けだ。ただのエラーだ。彼女のスマホが勝手に言葉を変換しているだけで、深い意味などあるはずがない。文字化けしたテキストを真面目に読み解こうとすること自体が、時間の無駄なのだ。
    『へえ、何色に塗ったの? 部屋の雰囲気変わるとテンション上がるよね』
    『縺ゅ 縺。濃くて、どろどろした縺偵 縺。元々はあいつの縺励 縺だったんだけど、今は壁一面に広がってる。すごく暖かいよ』
    濃くて、どろどろした、暖かい、あいつの何か。
    梨乃の使う言葉のチョイスが、徐々に、決定的に歪み始めているような気がした。DIYや部屋の模様替えを語るにしては、妙に粘り気があって、湿っている。
    けれど、僕はそれを「彼女が最近ハマっているスピリチュアルな趣味」の範疇に押し込めることにした。
    大学のサークルにも、時々そういう奴がいた。アロマだの、オーガニックだの、精神世界の浄化だのに傾倒して、独特の抽象的な表現を好むタイプ。梨乃もきっと、部屋の模様替えを通じて、一種のメンタルケアというか、マインドフルネス的な何かに没頭しているのだろう。
    「あいつ」というのは、きっと彼女を悩ませていた「近所の騒音の主」か何かに違いない。そいつへの当てつけとして、部屋を自分の好きな空間に作り変えた。そういう意味だろう、と。
    『そっか、気に入ったなら良かった。自分の部屋は自分が一番落ち着く空間にするのが一番だしね』
    『うん。拓海がそう言ってくれるのが、私の縺ゅ 縺。明日には、もっと縺偵 縺になると思う。まだ外で縺励 縺が蠢いてるから』
    蠢いてる。
    「外で蠢いている」ものを、明日はどうするつもりなのだろう。
    僕はスマホをポケットにしまい、冷めかけたうどんを一気に口に放り込んだ。
    喉を通る感覚が、いつもより酷く固く感じられた。
    それから数日が経過した。
    梨乃からのメッセージは、もはや暗号文の様相を呈していた。打たれる文字列の七割近くが化けており、意味が通じる単語を探す方が難しくなっていた。
    『縺ゅ 縺縺偵 縺。拓海、今日ね、縺励 縺が中に入ってきたの。だから、縺ゅ 縺でしっかりと縺偵 縺したよ』
    夜、自分の部屋でベッドに横たわりながら、僕はその画面を眺めていた。
    普通なら、ここまで文字化けが深刻化すれば、まともな会話は成立しない。だが、僕は依然として「読める部分だけを拾う」というゲームを続けていた。
    「中に入ってきた」
    「しっかりと……したよ」
    おそらく、注文していた家具が届いたか、あるいは例の部屋の修繕業者が中に入って、しっかりと施工をしてくれた、ということだろう。
    『業者さん入ってくれたんだ。これで一安心だね。ドアの鍵とかも新しくしてもらった?』
    『ううん、業者じゃないよ。縺ゅ 縺だよ。ずっとドアを叩いてた縺偵 縺。自分で中に入ってきたから、歓迎してあげたの。拓海が「大家に言え」って言ったから、縺励 縺を呼んで、同じようにしてあげた』
    文字化けの隙間から覗く単語のパズルを、僕の脳は必死に「無害な日常」へと翻訳しようとする。
    「大家に言えって言ったから、大家さんを呼んで、同じように(お茶でも出して歓迎)してあげた」
    うん、辻褄は合う。
    『大家さん来てくれたんだ。直接話ができて良かったじゃん。これで騒音の件も解決に向かうといいね』
    『解決したよ。すごく静かになった。縺ゅ 縺も、縺偵 縺も、二人とも床でぐっすり眠ってる。縺励 縺が溢れて、私の足元まで来てるけど、二人とも全然動かないの。とってもお行儀がいいよ』
     二人とも、床でぐっすり眠っている。全然動かない。
    溢れている、何か。
    「……なぁ」
    僕は暗い部屋の中で、ぽつりと声を出した。
    画面を見つめる僕の指先が、微かに震えていた。
    何かおかしい。
    いくら文字化けしているからといって、いくら僕が都合よく解釈しているからといって、この文章から滲み出る「異常な静けさ」は何だ。
    床で眠っている「二人」とは誰だ。
    一人は大家さんだろう。じゃあ、もう一人は?
    文字化けのルールが、もし僕の思っているものと全く違っていたとしたら。
    彼女が送ってきているこの不気味な文字列は、本当に「スマホの不具合」のせいなのだろうか。
    いや、待てよ。
    そもそも、彼女のスマホがバグっているなら、なぜ文字化けのパターンがこれほど固定されているんだ?
    「縺ゅ 縺」「縺偵 縺」「縺励 縺」
    毎回、同じような特定の文字の組み合わせばかりが執拗に現れる。まるで、特定の「単語」が、意図的にその記号へと置き換えられているかのように。
    『梨乃、本当に大丈夫? その、眠ってる二人って、誰のこと? 大家さんと、あと誰?』
    僕の問いかけに対する返信は、これまでで最も早く、そして、最も文字化けの多いものだった。
    『縺ゅ 縺と縺偵 縺だよ。拓海は本当に優しいね。いつも縺励 縺って言ってくれる。二人の縺ゅ 縺をバラバラにして、縺偵 縺に詰め込む時も、拓海の「思い切って処分しろ」って言葉が頭の中で再生されてたよ。縺励 縺が綺麗に片付いて、お部屋がとっても広くなったの』
    「バラバラにして」
    「詰め込む時も」
    「片付いて」
    その三つのフレーズだけが、化け損ねた生肉のように、画面の上で生々しくのたうち回っていた。
    気のせいだ。
    僕は大きく息を吐き出し、スマホをベッドに叩きつけた。
    彼女は冗談を言っている。タチの悪いサイコホラーの真似事をして、僕を怖がらせようとしているだけだ。高校時代はおとなしかった反動で、大学で妙なサブカルチャーに染まり、こういう悪趣味なテキストアートやノベルゲームのような会話を楽しんでいるに違いない。
    そうでなければ、辻褄が合わない。
    だって、僕たちの会話は「成立して」いたはずだ。
    僕が「断捨離?」と聞けば、彼女は「そう、断捨離に近いかな」と答えた。
    僕が「部屋の雰囲気変わるとテンション上がる」と言えば、彼女は「気に入ったなら良かった」という僕の言葉に同意した。
    お互いの意思は通じ合っている。ただ、数文字だけ、通信のエラーで記号に変わっているだけだ。それ以上の異常が、あるはずがない。
    僕は再びスマホを拾い上げ、画面に視線を落とした。
    通知ランプが、狂ったようにチカチカと緑色に点滅している。
    『縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺』
    『次はね、拓海の番だよ』
    『縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺』
    その後に続く、果てしない文字化けの羅列。
    スクロールしても、スクロールしても、画面は不気味な記号で埋め尽くされている。
    「次はね、拓海の番だよ」
    その一文だけが、恐ろしいほど正確な日本語で、僕の目を射抜いた。
    部屋の空気が、一瞬にして凍りつく。
    液晶画面のブルーライトが、僕の顔を青白く照らしていた。深夜の静寂の中、僕の心臓の鼓動だけが、耳障りなほど大きく鳴り響いていた。
    ――本当に、僕たちの話は「噛み合って」いたのだろうか。
    僕が見ていた「文字コード」と、彼女が見ていた「文字コード」は、本当に同じものだったのだろうか。
    背筋を駆け上がる強烈な悪寒に耐えかね、僕はその夜、スマートフォンの電源を完全に切った。しかし、画面が黒く染まった後も、僕の脳裏にはあの「縺ゅ 縺」という三文字が、まるで網膜に焼き付いた残像のように、いつまでも消えずに残り続けていた。

    スマートフォンの電源を落として眠った翌朝、僕は酷い頭痛とともに目を覚ました。
    カーテンの隙間から差し込む朝日は不自然なほどに白く、ワンルームの部屋を容赦なく照らし出していた。枕元に転がっている黒いプラスチックの塊――スマートフォンの電源ボタンを恐る恐る長押しする。起動のロゴが表示され、ホーム画面へと切り替わった瞬間、僕は思わず身構えた。
    しかし、通知は一件も届いていなかった。
    昨夜のあの狂気じみた連投が嘘のように、画面は静まり返っている。
    「……なんだよ、やっぱり悪ふざけか」
    張り詰めていた肩の力が一気に抜け、僕はベッドに倒れ込んだ。
    『次はね、拓海の番だよ』などという不穏な一文も、今思えば僕を驚かせるための安っぽい怪談のオチのようなものだ。内気だった梨乃がそんな悪趣味な悪戯を仕掛けてきたことには驚いたが、僕が本気で怯えた様子を見せないから、向こうも飽きてやめたのだろう。そう自分に言い聞かせると、ズキズキと痛む頭も少し軽くなった気がした。
    その日は大学へ行き、いつも通り講義を受け、いつも通りサークルの連中とくだらない雑談をして過ごした。日常の歯車は寸分の狂いもなく回り、昨夜の恐怖は確実に薄れていった。
    だが、異変は夜に訪れた。
    バイトを終えて夜の十一時に帰宅し、シャワーを浴びてベッドに腰掛けた時のことだ。何気なくメッセージアプリを開いた僕は、梨乃とのトーク画面の最下部に、新しいメッセージが一件だけ届いていることに気付いた。
    通知のポップアップすら鳴らなかったそのメッセージ。受信時間は、僕がバイトをしていた一時間前の二十二時。
    そこに並んでいたのは、もはや言葉の体をなしていない、完全な暗号だった。
    『縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺』
    一文字の漢字も、一つのアルファベットも、読める日本語の単語はただのひとつも混ざっていない。
    100パーセント、完全な文字化け。
    画面をスクロールしても、その一塊のバグのような文字列が延々と横に長く伸びているだけだった。
    「梨乃?」
    僕は思わず声を漏らし、指先で画面を叩いた。
    『ちょっと待って、今度のやつ完全に文字化けしてて何も読めない。マジでスマホバグってないか?』
    送信する。
    いつもなら、三秒と経たずに「既読」の文字が付くはずだった。彼女の、あの機械的で恐ろしいほど一定だった返信スピード。
    だが、付かない。
    一分、二分、五分。どれだけ待っても、画面の端の「既読」は現れなかった。
    静かだった。
    部屋の中が、妙に静かだった。
    いつもなら気にならないはずの、冷蔵庫の低いブーンという駆動音や、時折外を走る車のエンジン音が、なぜか遠くの世界の出来事のように希薄に感じられる。僕のいるこの四畳半の空間だけが、まるで厚いコンクリートの壁で世間から切り離されてしまったかのような、奇妙な閉塞感がじわじわと満ちていく。
    「……さすがに、ちょっとおかしいか?」
    胸の奥で、冷たい塊が不規則に脈打ち始める。
    単なる悪ふざけにしては、タイミングが悪すぎる。100パーセントの文字化けを送ってきた直後に、完全に連絡が途絶える。これは、彼女の側で「本当にスマホが完全に壊れるような何か」が起きたのではないか。
    たとえば、物理的な破壊。
    昨夜の彼女の不気味な言葉が頭をよぎる。『二人の……バラバラにして、詰め込む時も』。
    もし、あの言葉の裏に、僕が想像している以上の「現実の惨劇」があったとしたら。彼女が本当にストーカーに追い詰められ、精神の均衡を崩し、その結果としてあのメッセージが送られていたのだとしたら。
    僕は急激に焦りを覚え、メッセージアプリの通話ボタンを押した。
    耳元にスマホを当てる。
    『プー……プー……プー……』
    無機質な呼出音が、ワンルームの天井に虚しく響く。
    出ない。十回、二十回とコール音が繰り返された後、「電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため――」という機械的なアナウンスに切り替わった。
    完全に、遮断されている。
    手汗でスマホが滑りそうになるのを必死に抑えながら、僕は連絡先リストをスクロールした。梨乃の状況を知っていそうな、高校時代の共通の知人。グループで一緒に遊んでいた男子の「大輔(だいすけ)」の名前を見つけ、すぐに通話ボタンを押す。
    『プー……プー……』
    大輔も出ない。時刻はまだ十一時半だ。大学生の彼が寝ている時間とは思えない。
    僕は焦燥感に駆られながら、別の共通の友人、女子の「真由(まゆ)」にメッセージを送った。
    『夜遅くに急にごめん! 最近梨乃と連絡取ったりしてる? なんかアイツのスマホの調子がおかしいみたいで、連絡がつかなくなってさ。何か知ってたら教えてほしい』
    送信ボタンを押す。
    しかし、真由のメッセージにも、既読は付かなかった。
    誰も捕まらない。
    世界のすべてが、僕一人を残して急に口を閉ざしてしまったかのような、圧倒的な孤独感が背中から這い上がってくる。
    僕はベッドから立ち上がり、部屋の窓を開けて外の空気を吸おうとした。しかし、窓の鍵を開け、アルミサッシを横に引いた瞬間、僕は息を呑んで動きを止めた。
    外が、暗すぎる。
    僕のマンションの前には、それなりに明るい街灯が立っているはずだった。向かいのマンションの窓の明かりや、遠くのビルのネオンが見えるはずだった。
    なのに、窓の外に広がっていたのは、濃密で、どろりとした、完全な漆黒だった。街灯の光はかき消され、まるで世界そのものが巨大な黒いインクに浸されてしまったかのように、何も見えない。
    ただ、じっと目を凝らすと、その闇の奥、僕の部屋のベランダのすぐ真下のあたりで、何かが微かに動いたような気がした。
    蠢いている。
    肉塊のような、あるいは無数の虫が蠢いているかのような、衣擦れに似たカサカサという微かな音が、湿った夜風に乗って室内に滑り込んできた。
    「ひっ……」
    僕は短い悲鳴を上げて窓を叩きつけるように閉め、鍵を乱暴に回した。
    心臓が肋骨の裏側を激しく叩いている。冷たい汗が額から流れ落ち、目に入って染みた。
    何だ、今の闇は。何だ、あの音は。
    僕は部屋の読書灯を点け、部屋をできるだけ明るくしようとした。しかし、どれだけ明かりを点けても、ワンルームの隅にある影は濃いままで、むしろ僕の逃げ場を狭めているようにしか思えなかった。
    この部屋は、安全じゃない。
    いや、このデジタルな画面を通して、何かがもう、僕のすぐ近くまで来ているのではないか。
    ガタ、と枕元でスマートフォンのバイブレーションが震えた。
    びくりと身体を跳ね上げながら画面を見ると、それはメッセージの通知ではなかった。バッテリーの残量が少なくなっていることを告げる、システムのアラートだった。
    【バッテリー残量が減少しています(10%)】
    「嘘だろ……さっきまで半分以上あったはずなのに」
    急激なバッテリーの消耗。それすらも、この部屋を満たす異常な現象の一部に思えてならなかった。
    僕は慌てて壁のコンセントに充電ケーブルを差し込み、スマホに繋いだ。画面に充電中のマークが表示されたのを見て、ようやく一つ、まともな呼吸ができた。
    しかし、画面の中央に居座り続ける、梨乃からの「100パーセント文字化けしたメッセージ」は、消えてくれない。
    読めない。何も読めない。
    『縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺縺ゅ 縺……』
    この意味不明な文字列の裏側で、梨乃は最後に何を言おうとしたのだろう。
    僕が「鍵をしっかり閉めて寝た方がいい。おやすみ」と冷たく突き放した、あの最後の夜。彼女の目の前にいた「モンスター」は、一体何だったのか。
    そして、もし彼女の文字コードが、最初から僕たちのものと致命的にズレていたのだとしたら――。
    僕は、自分の犯した「罪」の重さに、ようやく気付き始めていた。
    文字化けしているからと笑い飛ばし、面倒だからと調べることもせず、相手の必死のSOSを勝手に「無害な愚痴」に変換して、適当に話を合わせ続けた。
    僕が送った「断捨離? いいね」「思い切って処分しなよ」「大家さんに言いなよ」という無責任な言葉の数々は、彼女の歪んだ世界で、一体どんな「最悪の意味」としてエンコードされてしまったのか。
    「調べなきゃ……」
    ガチガチと震える奥歯を噛み締めながら、僕はスマホの画面を睨みつけた。
    この文字化けをそのままにしておいてはいけない。これを元に戻さなければ、僕は次の瞬間に、何が起こるかさえ分からないまま、あの窓の外の闇に飲み込まれてしまう。
    僕は震える指で、文字化けした長大なテキストを長押しし、『コピー』を選択した。
    ブラウザを立ち上げ、検索窓に「文字化け 修復」「エンコード 変換」と打ち込む。
    画面の向こうの、文字化け修復ツールの白いサイトが、僕の顔を再び青白く照らし出す。
    そのテキストボックスに、僕は梨乃の最後の言葉を、ペーストした。

    スマートフォンの液晶画面が、冷徹な純白の光を放っている。
    画面に表示された『文字化け修復ツール(テキストエンコード変換)』の文字が、まるでこれから僕が足を踏み入れる奈落の入り口のように見えた。
    「頼む、ただのバグであってくれ……」
    心臓が耳の奥で早鐘を打っている。僕は震える指先で、梨乃から届いた最後の「100パーセント文字化けしたメッセージ」を、ツールのテキストボックスにペーストした。
    解析元の文字コードを『Shift_JIS』、変換後の文字コードを『UTF-8』に設定する。これがおそらく、現代のデジタル環境で最も頻発する「ルールの不一致」だ。
    僕は生唾を飲み込み、『変換を実行』のボタンをタップした。
    一瞬のタイムラグの後、画面が書き換わる。
    意味不明な記号の羅列だった文字列が、滑らかな、あまりにも滑らかな日本語へと姿を変えた。
    『どうしてそんなに笑いながら「殺せ」って言うの? 今、あなたの後ろにいるよ』
    ドサリ、とスマートフォンの重みに負けて、僕の手がベッドに落ちた。
    喉の奥がカラカラに乾き、呼吸の仕方を忘れたように胸が上下する。
    「後ろ……?」
    僕は全身の毛穴が逆立つような恐怖に襲われ、首が折れそうなほどの勢いで後ろを振り返った。
    そこには、見慣れた自分の部屋の壁があるだけだ。ハンガーに掛けられたジャケットが、暗がりにぼんやりと浮かんでいる。誰もいない。誰もいるはずがない。僕はワンルームの鍵を確実に閉めている。窓も、あの不気味な闇を見た直後に鍵をかけた。
    だが、スマホの画面に表示された文字は、紛れもない現実だった。
    梨乃は僕の後ろにいると言っている。なぜだ。なぜそんな言葉が出てくる。
    僕は恐ろしくなり、今度は過去のメッセージへと遡った。
    僕と彼女の間で交わされた、あの「噛み合っている」と信じ込んでいたラリー。あの時、彼女が本当に送っていた言葉は何だったのか。僕は狂ったように、過去の文字化けテキストを一行ずつコピーし、修復ツールへと叩き込み始めた。
    まずは、彼女が「断捨離に近いかな。すっきりするね」と言っていた、あの昼下がりのメッセージだ。
    【復元前】:『うん、断捨離に近いかな。縺ゅ 縺がうるさかったから、全部縺偵 縺して、削ぎ落とすことにしたの。まずは一番邪魔な、突き出た縺励 縺からね』
    これをツールに変換させる。脳裏に、僕が送った『いらないものを思い切って処分するのは良いことだよ』という能天気なセリフがよぎる。
    【復元後】:『うん、断捨離に近いかな。ストーカーがうるさかったから、全部殺して、削ぎ落とすことにしたの。まずは一番邪魔な、突き出た手首からね』
    「あ……、あ、あ……」
    声にならない悲鳴が漏れた。
    手首。突き出た手首。
    彼女は模様替えなどしていなかった。DIYの工具で削り落としていたのは、古びた家具の木材などではなかった。彼女の部屋に侵入しようと、ドアの隙間や窓から突き出されていた、ストーカーの『手首』だったのだ。
    そして、それに対する僕の返信が、僕の視界の中で最悪の凶器へと変貌する。
    『梨乃が工具とか使ってるの、なんか想像できないわ(笑)。でも、いらないものを思い切って処分するのは良いことだよ。部屋が広いと心も落ち着くしね』
    違う。僕はそんな意味で言ったんじゃない。ストーカーの手首を切り落とすことを勧めたわけじゃない。ただ、いらなくなった服や本を捨てる話だと思って――!
    僕の言い訳をあざ笑うように、次のメッセージの変換結果が画面に弾き出される。
    【復元前】:『そう、本当にその通り。拓海が縺ゅ 縺って言ってくれたから、迷いが消えたよ。縺偵 縺を使って、根元からガリガリって。思ったより簡単に縺励 縺できた』
    【復元後】:『そう、本当にその通り。拓海が殺せって言ってくれたから、迷いが消えたよ。包丁を使って、根元からガリガリって。思ったより簡単に切断できた』
    胃の底から、酸っぱいものが込み上げてきた。
    僕が「処分しろ」と言ったから、彼女は迷いを捨てて包丁を握ったのだ。僕の言葉が、ストーカーに追い詰められて狂気の淵に立っていた彼女の背中を、思い切り突き落とした。
    指の震えが止まらない。涙で視界が歪む。しかし、僕はツールへのコピペを止めることができなかった。知らなければならない。自分が一体、どれほどの罪を犯してしまったのかを。
    次のメッセージ。彼女が「部屋が好きな色に染まっていく」と言っていた、あの不気味なスピリチュアル発言。
    【復元前】:『大丈夫、痛いのは縺ゅ 縺だけだから。私は縺偵 縺を流しながら、ずっと笑ってた。すごく綺麗だよ。部屋の中が、どんどん私の好きな色に染まっていくの』
    【復元後】:『大丈夫、痛いのはあいつだけだから。私は返り血を流しながら、ずっと笑ってた。すごく綺麗だよ。部屋の中が、どんどん私の好きな色に染まっていくの』
    【復元前】:『縺ゅ 縺。濃くて、どろどろした縺偵 縺。元々はあいつの縺励 縺だったんだけど、今は壁一面に広がってる。すごく暖かいよ』
    【復元後】:『血液。濃くて、どろどろした血液。元々はあいつの命だったんだけど、今は壁一面に広がってる。すごく暖かいよ』
    それに対する僕の返答。
    『へえ、何色に塗ったの? 部屋の雰囲気変わるとテンション上がるよね』
    『そっか、気に入ったなら良かった。自分の部屋は自分が一番落ち着く空間にするのが一番だしね』
    「やめろ……やめてくれ……!」
    僕は頭を抱えてベッドの上で転がった。
    僕は彼女を褒めていた。人を殺し、その血で部屋を染め上げ、狂っていく元同級生に向かって、「テンション上がるよね」「気に入ったなら良かった」と、満面の笑みで拍手を送っていたのだ。
    彼女の画面には、僕のその残虐極まりない肯定の言葉が、一切の文字化けを伴わずに、完璧な日本語として届いていた。だから彼女の返信スピードはあんなに早かったのだ。僕が自分の狂行を全肯定してくれる唯一の理解者だと信じ込み、歓喜に震えながら、次の惨劇へと手を染めていったのだ。
    そして、恐怖の核心である、数日前のあのメッセージ。
    「二人とも床でぐっすり眠っている」という、あの文章の真実が明かされる。
    【復元前】:『ううん、業者じゃないよ。縺ゅ 縺だよ。ずっとドアを叩いてた縺偵 縺。自分で中に入ってきたから、歓迎してあげたの。拓海が「大家に言え」って言ったから、縺励 縺を呼んで、同じようにしてあげた』
    【復元後】:『ううん、業者じゃないよ。ストーカーだよ。ずっとドアを叩いてた男。自分で中に入ってきたから、歓迎してあげたの。拓海が「大家に言え」って言ったから、大家を呼んで、同じように殺してあげた』
    脳を直接殴られたような衝撃が走る。
    大家。
    彼女は、僕が「大家に言え」と言ったから、助けを求めにきた、あるいは異変を察知して部屋に入ってきただけの無辜の大家さんまでもを、ストーカーと「同じように」殺害したのだ。
    【復元前】:『解決したよ。すごく静かになった。縺ゅ 縺も、縺偵 縺も、二人とも床でぐっすり眠ってる。縺励 縺が溢れて、私の足元まで来てるけど、二人とも全然動かないの。とってもお行儀がいいよ』
    【復元後】:『解決したよ。すごく静かになった。ストーカーも、大家も、二人とも床でぐっすり眠ってる。内臓が溢れて、私の足元まで来てるけど、二人とも全然動かないの。とってもお行儀がいいよ』
    足元まで溢れていたのは、部屋の修繕の資材などではなかった。二人の人間の体内から流れ出たものだった。
    そして、僕が最後に見た、あの大量の文字化けに挟まれた一文。
    『二人の屍体をバラバラにして、ゴミ袋に詰め込む時も、拓海の「思い切って処分しろ」って言葉が頭の中で再生されてたよ』
    すべて、僕のせいだ。
    僕が彼女を、二人の人間を惨殺したシリアルキラーへと仕立て上げた。
    僕の「適当に話を合わせる」という悪癖が、彼女にとっての「犯行指示」へと変換され、この世界に最悪の怪物を生み出してしまった。
    画面を見るのが怖い。だが、最後のパズルが残っている。
    あの、100パーセントの文字化けの直前に送られてきた、狂ったようなリピート。
    『縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺……次はね、拓海の番だよ』
    僕は震える指で、そのリピート部分をコピーし、ツールに貼り付けた。
    変換ボタンを押す。
    そこに現れたのは、文字列の変換などという生易しいものではなかった。
    【復元後】:『コロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセ』
    『次はね、拓海の番だよ』
    『アイニイクアイニイクアイニイクアイニイクアイニイクアイニイクアイニイクアイニイクアイニイクアイニイクアイニイクアイニイクアイニイクアイニイク』
    「うあああああああ!!」
    僕は叫び声を上げ、スマートフォンを床に投げつけた。
    床に落ちた画面の中で、『アイニイク』の文字がギラギラと不気味に光っている。
    会いに来る。彼女が、あのみなぎる万能感と包丁を持った梨乃が、僕の元へ向かっている。
    いや、違う。最後のメッセージにはなんて書いてあった?
    『どうしてそんなに笑いながら「殺せ」って言うの? 今、あなたの後ろにいるよ』
    もう、来ている。
    すでに、この部屋の中に。
    その時、僕のスマートフォンの画面が、唐突にパッと暗くなった。
    充電ケーブルは繋がっているはずだ。なのに、画面にはバッテリー残量を示すマークすら表示されない。完全な、沈黙。
    そして、暗転した画面の黒いガラスに、反射して映し出されたものが見えた。
    ベッドの上に座り込み、頭を抱えて怯える僕の姿。
    その、すぐ真後ろ。
    ハンガーに掛けられたジャケットの影から、ゆっくりと、信じられないほど不自然な角度で、にょきりと突き出てくる『手首』があった。
    その手首の根元は、酷くガリガリと削り落とされたように、赤黒く染まっていた。

    ――ギチ。
    ワンルームの狭い静寂を、その音が切り裂いた。
    骨がきしむような、あるいは古い木造の床が不自然に歪むような、湿った硬い音。それが、僕のすぐ後ろ――頭を抱えて丸まっていた、その至近距離から聞こえた。
    スマートフォンの液晶画面は、完全にブラックアウトしている。充電ケーブルを通して供給されているはずの電力はどこへ消えたのか、端末はただの冷たい文鎮と化し、僕を照らしていた唯一の光を失わせた。
    部屋を包むのは、窓の外から染み出してきたような、どろりとした漆黒。読書灯の明かりは点いているはずなのに、その光は僕の周囲数十センチのところで不自然に途切れ、部屋の四隅を照らす力を失っている。まるで、闇そのものが質量を持って、この部屋の空間を侵食しているかのように。
    「ひぃ、っ……」
    喉の奥から、乾いた引きつけのような声が漏れた。
    振り返ってはならない。本能がそう叫んでいる。だが、人間の身体は恐怖が限界を超えたとき、むしろその原因を確かめようと自虐的に動いてしまうものらしい。
    僕は脂汗にまみれた首を、錆びついた歯車を回すように、ゆっくりと、ゆっくりと後ろへ巡らせた。
    ――ギチ、ギチガタ。
    音が連続する。それは、人間の関節が動く音ではなかった。
    パソコンのスピーカーが壊れたときに出るような、あるいはデジタルデータの音声が致命的にクラッシュしたときのような、人工的で無機質な電子ノイズ。それが、生身の空間、ハンガーにかけられたジャケットの影から響いている。
    暗がりのなかに、いた。
    そこに立っていたのは、僕の知っている「高坂梨乃」ではなかった。
    輪郭は確かに彼女の形をしている。高校時代の、少し猫背で内気だった彼女のシルエット。だが、その身体のあちこちが、まるで古いビデオテープを一時停止したときのように、不規則に横へとブレていた。
    彼女の右腕が、唐突に数センチ右側に「ズレ」て表示され、次の瞬間には元の位置に戻る。顔のパーツもそうだ。目と口の位置が、まるでバグったグラフィックのように、上下に激しく振動している。
    現実の空間が、彼女の存在を中心に「文字化け」を起こしているのだ。
    「……あ、あ、たく……み……」
    彼女の口から漏れた声は、何重にもエコーがかかり、ピッチが激しく上下する、おぞましい音声合成のようだった。
    「拓海……優しい、ね……。全部、お片付け……したよ……」
    ズレ続ける彼女の身体。その両手には、べっとりと黒い油のような液体がこびりついた包丁が握られていた。刃先から床へと滴り落ちる液体は、畳に触れた瞬間に「縺ゅ 縺」という緑色のノイズ文字へと変わり、煙を立てて消えていく。
    「違う……違うんだ、梨乃……!」
    僕はベッドの上を這いずり、壁際まで必死に身を引いた。背中が冷たいコンクリートの壁にぶつかる。もう逃げ場はどこにもない。
    「俺は、そんなつもりじゃ……! スマホが文字化けしてたから、中身が読めなくて、だから……!」
    「よめ、ない……?」
    梨乃の頭部が、ガガガ、と音を立てて九十度真横にスライドした。バグった液晶のノイズが、彼女の顔面を覆い尽くす。
    「どうして……? 私は……ちゃんと、拓海の言葉通りに、したのに……。思い切って、処分してって……言ったじゃ、ない……」
    一歩、彼女が足を踏み出す。
    その足が床につくたび、ギチ、ギチというあの不快なバグ音が、鼓膜を直接針で刺すように響いた。
    彼女の視点(エンコード)では、僕の世界の言葉はすべて正しく伝わっていた。僕が適当に、保身のために投げかけた「そうだね」「やっちゃいなよ」という言葉が、彼女の狂気を完成させた。
    そして今、彼女の歪んだ世界(文字コード)が、僕の現実を塗り替えようと目の前に迫っている。僕が彼女を怪物(モンスター)にしたのだ。この部屋という「家」の中に、僕自身の怠慢が呼び寄せた、最悪のバグ。
    「拓海も……お部屋、綺麗に、しよ……? バラバラに……すれば、狭い部屋も……広く、なる、から……」
    梨乃が包丁をゆっくりと振り上げる。
    その瞬間、彼女の顔のノイズが一瞬だけ晴れ、高校時代のあの内気な、他人の顔色を窺うような笑顔が覗いた。僕が「話を合わせてあげた」ときに、いつも彼女が見せていた、従順で無垢な笑顔。
    それが、僕にとっての何よりの絶望だった。
    「いや、いやだ! 来るな! 誰か、誰か助けてくれ!!」
    僕は狂ったように叫び、枕元にあった暗転したスマートフォンを掴んで、彼女に向けて投げつけた。
    プラスチックの塊は、梨乃の胸のあたりに命中する。
    パリン、と小気味いい音がして、スマートフォンが砕け散った――のではない。
    空間に衝突したスマートフォンが、無数の、緑色に発光する記号へと「分解」されたのだ。
    『縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺縺ゅ 縺縺偵 縺縺励 縺』
    砕け散った文字化けの羅列が、火花のように空間に飛び散り、僕の視界を覆い尽くしていく。
    梨乃の身体が、完全にその記号の渦の中に溶けていく。いや、彼女だけではない。僕のベッドも、壁も、天井も、すべてがドットのノイズへと崩壊を始めていた。
    あ。
    思考が、意味をなさなくなっていく。
    僕の脳裏に浮かぶ恐怖の感情、助かりたいという願い、それらすべてが、頭の中でガリガリと音を立てて「別のルール」へと変換されていくのが分かった。
    言葉が、消えていく。
    意識が、デジタルな藻屑へと化けていく。
    振り下ろされる包丁の鋭い銀光。
    それが僕の視界を両断した瞬間、世界のすべての音が「プツン」と途切れた。
    暗転。
    完全な静寂のなか、最後に僕の耳の奥に響いたのは、エラーを知らせる無機質なシステム音と、
    僕自身の声が、奇妙に化けていく、冷たいノイズの残響だけだった。
    『――縺ゅ 縺(たす けて)』

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