メインコンテンツへスキップ
見出し画像

【提唱者、転生。】~黄金の狼牙と妖精の紐~ #36 ウルヴ(遠吠え)

    #36 ウルヴ(遠吠え)

    「……ここは……港……?」
    ベイラの頬袋からそっと摘み出され、私たちの足がようやく地面を捉えた場所──そこは、イェロヴェリルの港だった。
    けれど、そこに広がっていたのは、いつか見たあの穏やかで美しい港の光景では断じてなかった。
    渦巻く混乱。飛び交う怒号。そして、引き裂かれるような悲鳴。

    避難を求めてパニックを起こした天使たちが押し寄せ、港はまるで本物の戦場さながらの様相を呈していた。ただでさえ繊細な雲海のさざ波が、群衆の恐怖を映すように激しくかき乱され、大気全体が目に見えるほど不穏にざわついている。
    「フローズヴィトニルが脱獄したぞッ!!」
    「嘘だろ、あの怪物が……!?」
    遠くから聞こえてくる群勢たちの怒号に、フレイたちは顔面を蒼白にし、完全に足を止めてしまった。
    人混みの先を見ると、ニョルズ船長とビュグヴィルが、乗船を求めて殺到する天使たちの手から必死に切符を受け取っていたが、押し寄せる人の波に対して明らかに手が足りていない。

    そんな中、小刻みに震える私たちへ向けて、ベイラがキリッとした表情で向き直った。
    「フレイ坊っちゃま、私はこれよりニョルズ様のお手伝いに加勢して参ります。皆様、どうか決してお互いの手を取り合い、はぐれないように乗船してください!」
    そう告げるや否や、ベイラの小さな姿がふっと目の前で掻き消えた。──驚いたことに、次の瞬間には遥か前方にいるニョルズ船長の肩の上に立っていたのだ。
    (……一瞬で、あの距離を。私たちはこれほどの『音速の世界』に運ばれていたのか……)
    私たちが頬袋の中で、ふわふわと優雅な移動を満喫している間、外では彼女の超絶的な神速移動が動いていたのだと思い知り、背筋が寒くなる。
    だが、ベイラという強力な守りの壁を失った瞬間、フレイたちの身体が本格的に震え始めた。
    「……どうしよう。もし、もしフローズヴィトニルが、今ここに向かってきていたら……っ」
    怯える仲間たちの姿を見て、私は自分の両手にぐっと力を込め、声を張り上げた。
    「フレイ、みんな! まずは乗船切符を持って、前に進もう!」
    私は彼らの震える手を包み込むように握り、混乱する頭を回して、皆の手から全員分の乗船切符を預かった。
    「とにかく船へ行くんだ。今、私たちにできるのは、あの船に乗ることだけだから。行こう!」
    今、この瞬間にできる最善の行動だけを明確に伝えると、その言葉に導かれるようにして、皆の過度な震えが少しだけ収まった。
    そこへベイラが加勢に入り、超高速で乗船切符の半券を千切り始めると、滞っていた人の流れが一気に変わり始めた。パニックに陥っていた天使たちも迷わず動き出し、吸い込まれるようにして船へと乗り込んでいく。

    私たちは避難列の端を進み、ついに、その巨大な船の目前までたどり着いた。
    そこに威風堂々と姿を現したのは──どっしりとした漆黒の木造船。その名も、『フリングホルニ』。
    船体の側面には、まるで高名な巨匠のサインのように、筆跡の強いルーン文字でその名が誇らしげに刻まれている。世界を旅するために生まれた豪華客船のようなその美しい佇まいは、現在の異常事態においても奇妙な安心感を放っていた。
    (……個人的には、あの折りたたみ式の『スキーズブラズニル』の方が好きだったな。……川に流して紛失してしまった私が言うのも何だけど)
    ようやく最前列の改札に辿り着くと、汗だくのニョルズ船長が私たちを見つけ、その目を大きく見開いた。
    「お前たち! よく無事にここまで辿り着いた! ──もしお前たちに何かあれば、後でベイラの首が飛ぶところだったぞ!」
    (お父さん、さらっと恐ろしい雇用主発言をしないでほしい……!)
    しかし当のベイラは、何事もなかったかのようにビュグヴィルの傍らでふわふわと浮きながら、黙々と千切った半券を仕分け続けていた。プロの執事、恐るべしである。
    私は一人ずつ、フェングから取り出した乗船切符をニョルズ船長に手渡し、もぎられた半券を受け取って、それを再び皆に配り直した。
    半券を受け取るスルーズやヘラの指先は──まだ、微かに震えている。
    その細い手に確かに刻まれた、未曾有の恐怖。しかし、今は乗るしかない。
    私たちは順に『フリングホルニ』へと架けられた頑丈な木製のタラップを渡り、船内へと足を踏み入れた。

    新築の家を思わせる、心地よい芳醇な木の香りが、逆立っていた私の心を少しだけ落ち着かせてくれた。
    客船フリングホルニの内部は驚くほど美しく整えられており、その温かみのある木のぬくもりは、今だけはここが避難の旅路であることを忘れさせてくれそうだった。
    けれど、広々とした中央ロビーには、各地から避難してきた新入生たちが不安げな顔をして身を寄せ合っていた。誰もが青ざめ、自身の衣服の袖を強く握りしめ、天使とは思えぬほどその表情を曇らせている。

    私たちは、名前も知らないアールヴから客室の鍵を受け取り、それぞれの部屋へと向かった。
    部屋割りは、フレイと私が同室。スルーズとヘラが同室。そしてスノトラと、編入生であるフレイヤが同室となった。
    私はフレイヤたちの安全を確かめるため、彼女たちの部屋まで見送った。スノトラが鍵を開け、部屋のドアを開けたところで、ふと私の方を振り返る。
    「私、ちょっと食堂へ行って、みんなの分の温かい飲み物を取ってくるわね。アウル、フレイの分も持ってこようか?」
    スノトラが気遣わしげに微笑む。
    フレイヤは静かに首を横に振り、私は食堂の混雑を想像して「後で自分で行くから大丈夫。ありがとう、スノトラ」と返した。
    「そう? じゃあ、すぐ戻るわね」
    スノトラは小さく頷き、柔らかな足取りで廊下の向こうへと歩いて行った。
    その細い背中が角を曲がるのを完全に見送ってから、私も自分の部屋に戻ろうと、扉から手を離そうとした──その時だった。
    「……アウル、入って」
    フレイヤがぽつりと、掠れた声で私を呼び止めた。
    見れば、彼女は部屋の入り口に佇み、その美しい瞳でじっと私を見つめている。きっと、突然の脱獄騒ぎで心細いのだろう。私はスノトラが戻るまでの短い間、お邪魔することにした。
    その時、船が港を離れ、本格的に出港した大きな反動がドスンと床を揺らした。その衝撃で、フレイヤの華奢な体がふらりと大きく傾く。
    「おっと……!」と咄嗟に私が手を伸ばしたのだが、彼女は自らの足でしっかりと床を踏み締め、見事に体勢を立て直してみせた。
    彼女は、宙に浮いた私の手を見つめ──そして、あの春休みの初日の夜のように、切なく微笑んだ。
    「ありがとう、アウル」
    「ううん、転ばなくてよかったよ」
    私が少し照れくさくなって差し出した手を引っ込めると、フレイヤはそっと、愛おしそうに首を振った。
    「そうじゃないの。……あの春休みの初日の夜……絶望していた私に、黙ってその胸を貸してくれて……本当にありがとうって、ずっと言いたかったの」
    その言葉を聞いた瞬間、私の心の中で、ずっと引っかかっていた『棘』が鋭い音を立てて疼いた。
    ──スィアチ先生のこと。今、このタイミングだからこそ、彼女に話さなければならない。
    「フレイヤ。……君に、どうしても聞いてほしいことがあるんだ」
    私の顔に浮かんだ明確な陰りを、彼女の聡明な瞳はすぐに見抜いた。
    「アウル。……もしかして、スィアチおじい様の……最期の瞬間を見たこと?」
    ドクン、と心臓が、耳元で鳴るかと思うほど大きく跳ねた。
    「……どうして、そのことを……知っているの?」
    フレイヤは窓の外の雲海に目を向け、静かな声で語り始めた。
    「ニョルズさんが、私の転入の話をグリームニル学園長としてくれた後でね……こっそり教えてくれたの。『アウルはお前の祖父の最期を看取った。そのことで、あの子は今も人知れず重荷を背負っているはずだ』って。……アウル、私はね、あの事件が起きるずっと前に、誘拐されていたの。ウートガルルの地で、あの『終焉のロキ』に……」
    「なっ……っ!?」
    あまりの衝撃に、私は思わず息を呑んだ。
    (終焉のロキに……、フレイヤが──直接誘拐されていたというのか!?)
    「数日間の記憶がなくて、やっと目を覚ました場所は……私とおじい様がずっと静かに暮らしていた、あの寂しい塔のベッドの上だった。そこで見たのは、ひどく負傷して怯えていたイジとガングの姿。そして……そのまた数日後、お母様がウルと一緒に現れて、おじい様が亡くなったことを告げられたわ」
    フレイヤの長い睫毛が、過去の痛みを思い出すように小刻みに震え、瞳が涙で潤んでいく。
    「アウル。……お願い、私に教えて。おじい様は……どんな風に亡くなったの?」
    彼女の告白を聞き、私の脳内でバラバラだったパズルのピースが、恐ろしいほどの速度で一つの形へと収束していった。
    (そうか……! スィアチ先生は、終焉のロキに最愛の孫娘であるフレイヤを人質に取られ、拒めない脅迫の中で、イズン先生の誘拐を手伝わされていたんだ……!)
    だからこそ、あの戦いの最中、私と対峙したスィアチ先生の表情は、あれほどまでに悲痛で、絶望に満ちていたのだ。
    「……最期の言葉は、“フレイヤ”君の名前だった。」
    私は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ、一言ずつ、真実を紡いだ。
    「きっと、ロキの手からフレイヤを護れなかったと、自分を責めていたんだと思う。私が……あの場でイズン先生を救ってしまったから……」
    すると、フレイヤは静かに、けれど誇らしげに胸を張って言った。
    「いいえ。聞けてよかったわ、ありがとう、アウル。私は……おじい様がしたことを、正しいことだとは絶対に思わない。……アウル、正しい行いをしたのは、どこまでもあなたよ。おじい様も、きっと……私を助けたくて、でも終焉のロキの強大な力に抗えなくて……誰かに、自分を止めてほしかったんだと思う」
    そこまで一気に語ったところで、フレイヤの瞳から大粒の涙が溢れ出した。その美しい声は震え──やがて、堰を切ったような沈黙に変わった。
    私は、彼女にそれ以上かけるべき言葉を見つけられず、ただ静かにその涙を見つめていた。
    その時、ガチャリと背後の扉が開いた。
    「ただいま。温かいハーブティーが貰えたわ……っ」
    戻ってきたスノトラだった。彼女は両手で湯気の立つカップを大事そうに持ったまま、私たちの間に流れていた、ただ事ではない空気の異変を瞬時に感じ取ったようだった。
    だが、彼女は理由を問い詰めるようなことは一切せず、ただ全てを包み込むように優しく微笑んでくれた。
    「……アウル、話を聞いてくれてありがとう。また後で、みんなで会いましょうね」
    フレイヤが、涙を隠すように不器用に向き直り、私に告げた。
    「話せてよかった。それじゃあ、また後で」
    「うん。また後でね」
    私はそう答え、部屋を後にした。スノトラは何も言わず、ただ私に、そっと道を開けてくれた。
    静まり返った客船の廊下に出て、私は背中を冷たい壁に預けた。そっと目を閉じ、拳を強く握りしめる。
    (終焉のロキ……あいつは自分の目的のためなら、他人の家族を引き裂き、人質に取り、どんな残酷な手段でも平気で選ぶのか……!)
    (学園に戻ったら、グリームニル学園長にこの背景を報告しないと。……いや、学園長のことだ、全てを知らないわけがないか……)
    私は、鉛のように重くなった心を引きずりながら、フレイの待つ客室へと足を運んだ。

    客室の扉を開けると、フレイは既に制服から部屋着への着替えを終え、潤った髪を白いタオルで巻いているところだった。
    私と目が合うと、フレイはいつもの、あの人当たりの良い柔らかな笑顔を向けてくれた。
    「アウル、さっきは港で取り乱しちゃってごめんね。もう大丈夫だから」
    彼の声はさっぱりとしていて、自分の弱態を少しだけ恥じているようだった。彼はタオルをベッドに置くと、真剣な面持ちで口を開いた。
    「……フローズヴィトニルっていうのはね、終焉のロキの──従者の名前なんだ。終焉のロキが『創造主様』を暗殺した運命の日、凄まじい大虐殺を起こして……。その後、アールヴルルの最果てにある秘密の監獄に、永遠に投獄されたとされていたんだよ」
    「アールヴルル……?」
    「アールヴたちの隠された国さ。だけど、その監獄の場所は全天界の誰にも明かされていない。公的な記録にも、世界地図にも一切存在しない幻の場所とされているんだ。だから僕も、フローズヴィトニルの投獄なんてただの古いお伽話だと思ってた。……でも、違った。あの絶対的な監獄から自力で脱獄するなんて、あり得ないんだよ。……きっと、終焉のロキが裏で手引きしたんだ。あいつが──また、この世界を終わらせるために本格的に動き出したんだよ」
    フレイの言葉には、隠しきれない困惑と、根源的な恐怖が入り混じっていた。
    その説明を聞き、私はようやく理解した。なぜ天界の住民たちが、名前を聞いただけであれほどまでに絶望し、血の気を引かせていたのかを。
    (もし、イズン先生の誘拐に失敗した終焉のロキが、次なる一手としてその凶悪な従者を脱獄させたのだとしたら……。ターゲットであるイズン先生が、再び危険にさらされるかもしれない)

    その夜、私たちは船内の食堂に集まり、全員でささやかな夕食のテーブルを囲んだ。
    昼間まで全員の心を支配していたあの鋭い焦燥感も、温かいスープの湯気と焼き立てのパンの香りに包まれるうちに、少しだけ緩まっていったようだった。
    フレイヤは、昼間の涙などまるで無かったかのように、いつもの落ち着いた調子で私に他愛のない話を振ってくれた。彼女のその健気な気遣いが、私にとってはかえって愛おしく、胸をチクリと痛めさせた。
    けれど、食事中も、私の頭から『終焉のロキ』の存在が離れることはなかった。
    今も世界のどこか暗闇の奥で、あいつがニヤニヤと笑いながら不吉な運命の糸を引いている──そんな確信めいた予感が、肌にまとわりついて離れない。
    客室に戻ってからは、ベッドに入った後も、フレイと夜が更けるまで夜な夜な語り合った。
    「……いろいろあったけどさ、来年の春祭りも、みんなで行けたら楽しみだね」
    「うん、そうだね」
    「それにしても……まさかあのスィアチ先生が、僕の母方の祖父だったなんて今でも信じられないよ」
    「人生、何が起こるか分からないな」
    「あとさ、急にあんな綺麗な妹ができるなんて思ってなかったから……フレイヤの前だとまだちょっと緊張するけど、本当にいい子だよね」
    そんな他愛のない身内の話から、これからの学園生活のことまで──私たちの話題は尽きることがなかった。
    日付が変わる頃、フレイは言葉の途中でふっと意識を飛ばし、ベッドの中でスースーと小さく心地よい寝息を立て始めた。
    深夜零時。
    窓の外から、サーッと静かな雨の音が聞こえ始めた。雲海の中を進むこの巨大な木造船の甲板に、天界の通り雨が静かに、けれど確かに降り注いでいるのだ。
    (……木の船体を叩く雨音って、こんなに静かで、綺麗だったんだな……)
    心地よい天然の環境音に身を委ね、私もようやく深い眠りにつこうと、そっとまぶたを閉じようとした──まさに、その時だった。

    ──……オオォォォォォォン……。
    ふと、遥か遠くの空間から、鼓膜を震わせるような、地を這うような『獣の遠吠え』が聞こえた気がした。
    (……いや、気のせいだ。こんな雲海の上を進む隔離された客船に、獣なんているはずがない……)
    私は一年前、この船(前身のスキーズブラズニル)の客室で、正体不明の人魚が跳ねたあの不思議な夜のことを思い出していた。
    あの時も、夢か現実か分からないような、奇妙な出来事だった。
    ポツポツと、冷たい雨音が静かに、フリングホルニの船体を叩き続ける中。
    私は一抹の割り切れない不安を抱えたまま、ゆっくりと深い闇の中へとまぶたを閉じたのだった。

    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門

    あなたへのおすすめ