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囚われていたものに、気づいた一年。

はろー、Pです。

先日、僕の誕生日があった。また、ひとつ歳を重ねた。

正直に言うと、誕生日だからって気分が特別に浮かれるほうじゃない。あの日も、いつも通りの僕だった。


いつもより遅く目が覚めて、ごろごろしてから起きた。よく眠れたのはいいけど、寝過ぎて背中と腰が痛い。その日はいつもの順番をひっくり返して、散歩を後回しにして先に朝ごはんを食べた。そのあと、散歩がてらパートナーと、いきつけの場所まで歩いていった。

空は曇っていて、午後には雨が降る時間もありそうだった。でも、ふと思った。こういう時期に、僕は生まれたんだな、と。そう思うと、午後の雨も、なんだか祝福の雨のような気がしてきた。

僕にとって誕生日は、自分が主役の日というより、関わってくれているみんなに感謝する日だと思っている。

その日、自分とちゃんと向き合うために、一枚のカードを引いた。

これは「占い」じゃない。カードは答えじゃなく、自分の内なる声に光を当てる「対話の道具」だ。fog hut でやっていた『&P with Tarot』から、ずっと続いている僕の流儀。

引いたのは──「悪魔」の逆位置だった。

感謝の朝に悪魔、と一瞬ドキッとしたけれど、逆位置の悪魔が持つ意味はこうだ。

依存や執着に気づき、そこから解放される。

そして、このカードがこう問いかけてきた。

「あなたが囚われていたものは、何ですか?」

……これが、その日いちばんの引っかかりになった。

悪魔・逆位置が、突きつけた問い

悪魔のキャッチコピーは、こうだ。

「私は何かに囚われている。なぜなら人間だから」

囚われること自体は、悪じゃない。人間だから、何かに執着する。問題は、それに気づけるかどうか。逆位置の悪魔は、その「気づいて、ほどける」瞬間を指している。

この問いを抱えて、去年の誕生日からの一年を、正直にたどってみた。

僕が握りしめていた、2つの物語

たどってみて、はっきり見えたものがある。僕はこの一年、2つのものに囚われていた。

ひとつめ。

去年の誕生日の1ヶ月くらい前、当時付き合っていた人と別れた。ちゃんと話し合って別れたし、今も関係は悪くない。それでもあの誕生日はちょうど、そこからようやく気持ちが整い始めた頃だったと思う。

一年の前半、僕は「これって運命だったのかも」と、自分を納得させるために決めつけて、無理やりそう思い込もうとしていた節があった。揺れている自分を、物語で固めようとしていた。

ふたつめ。

fog hut を「始めたんだから、どうにかやり続けなきゃ」という囚われ。

始めた以上は続けるべきだ、と握りしめていた。

並べてみて、気づいた。この2つ、形は違うけど、まったく同じ形をしている。

どちらも、自分を納得させるための物語で、自分を縛っていた。

「これは運命だ」と思い込むことも、「始めたから続けなきゃ」と背負うことも、安心するための物語だった。そして物語は、いつのまにか鎖になる。これが、悪魔の正位置だ。

ほどけた瞬間に、残ったもの

でも、一年の後半に入って、僕は動き出せた。

今のパートナーと知り合い、fog hut を閉めるに至るまでにいろいろ考えて、やりたいことに気づいて、新しいことを始めて、わくわくを取り戻していった。

「始めたんだから続けなきゃ」じゃなくて、「そうじゃなくてもいい。もっとわくわくしながら生きていける」──そう動き始められたことが、この一年でいちばん変わったところだと思う。

まさに、悪魔の逆位置だ。囚われに気づいて、そこから解放される。気づかないうちに、僕はこのカードを地で生きていた。

自立と、感謝は、両立する

じゃあ、何が「そうじゃなくてもいい」と手放させてくれたのか。

これは、自分で気づいたと思っている。誰かに言われて、ではなく、自分のなかでほどけた。

でも──そこに至るまでに出会った人、出会ったこと、それらが全部つながって、自分で気づけたんだと思っている。だから、みんなに感謝したい。

こうやってファンタスティックに生きられているのは、みんなのおかげだ。

「気づいたのは自分」と「みんなのおかげ」は、矛盾しない。自立と感謝は、ちゃんと両立する。あの朝、それがいちばん腑に落ちた。

今年の一手──わくわくを「育てる」

僕の人生の地図では、あの誕生日が、ひとつの出発ノードになっている。

あのとき掲げた今年のもくひょうは、大げさなものじゃなかった。

日々の中では忘れがちだけど、関わってくれているみんなに感謝を持って、新しく始めたことを習慣にして、検証しながら、自分コンテンツを磨いていく。

去年が「気づいて、手放して、動き出した」一年だったとしたら、今年は、取り戻したわくわくを育てていく一年に、していく。──そう決めた。

この毎朝のジャーナリングそのものが、その「習慣にして、検証する、自分コンテンツ」だ。やってることと、言ってることが、ちゃんと一致している。

それから、物語はまだ続いていた

実は、この文章を書いているのは、あの誕生日から少し時間が経った今だ。せっかくだから、その後の話も、正直に足しておきたい。

囚われから解放されて、わくわくを取り戻した──そこで物語がきれいに終わればよかったのだけど、人生は、そう単純にはできていないらしい。

つい先日、雨が続くある朝、僕はまた立ち止まっていた。何日も気分が浮上せず、たっぷり眠っても、すっきりしない。そんな朝に、僕は正直にこう書いた。「今、自分は一人だと感じている」と。

そのとき引いたのは「隠者」のカードだった。潜って、内側を見つめてみて分かったのは、僕がまだ、シロクマファンタスティックという今の活動の輪郭を、見つめきれていなかったこと。そして、深く潜るのはエネルギーがいるから、その手前で、つい手を動かすだけの作業に逃げていたこと。

さらにその数日後、今度は「塔」のカードが出た。崩れたあとの、立て直しの過程を表すカードだ。そこで見えてきたのは、もっと古い記憶だった。

震災のあと、「生きる力を自分で持ちたい」と思って、農業に興味を持った時期があった。仕事をしながら畑を持つのは難しくて、結局、味噌を仕込んだり、梅を漬けたり、地方への移住を考えたりと、形を変えながら、その気持ちを追いかけていた。

あの頃、何がいちばんよかったのか。掘ってみて分かったのは、農業でも、手作りの調味料でもなかった。太陽を浴びながら土に触れる気持ちよさと、何より、一人じゃなかったこと。同じことに興味を持つ友達と、話しながら取り組めたこと。それが、一番よかったんだと思う。

そして、その仲間ができたきっかけも、実は農業そのものじゃなかった。気軽に遊べる集まりに、自分から飛び込んだこと。そこから始まった縁が、田植えにも、地方を見て回る旅にも繋がっていった。

つまり、僕が本当に耕したかったのは、畑じゃなかった。人と人が同じ方向を向く、場所のほうだった。

ここまで来て、ようやく繋がった気がする。

あの誕生日、僕が握りしめていた物語をほどいて解放されたのは、自分ひとりの力でという前提そのものだったんだと思う。囚われから抜け出した先にあったのは、ひとりで完結する生き方じゃなかった。もう一度、誰かと場所を耕すことだった。

自立と感謝が両立するように、ひとりで気づくことと、誰かと場を耕すことも、たぶん両立する。手放すことと、また誰かと繋がりに行くことは、矛盾しない。

あの誕生日の朝、僕はひとつの鎖をほどいた。そして今、次の一歩は、また誰かのところへ向かうことらしい。ちょうどよさそうな場所に、今週、ちょっと相談してみようと思っている。

今日、掘り当てたもの

囚われをほどけたのは、自立と感謝が両立したから。

そして、ファンタスティックに生きられているのは、みんなのおかげだ。

雨も、祝福の雨。

その先で見つけた次の一歩も、きっと、悪くない。


今日の僕の設計は、ここまで。

あなたも、自分に一問だけ問いかけてみてほしい。

「今、あなたが握りしめているものは、何ですか?」

人生というゲームを、ファンタスティックに。

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選んだ道を、正解にしていくnote|シロクマファンタスティック ここまで読んでくれて、ありがとう。もし"この設計図、効いたな"と思ってもらえたら——コーヒー一杯ぶんの応援が、次の一冊の燃料になります。気が向いたら、ぜひ。