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美術館は、夫婦の会話を少し深くしてくれる装置なのかもしれない

ちゃっす。

この間の土曜日、妻と次男と一緒に美術館へ行ってきた。

長男はまだ僕の実家に遊びに行っていたので、いつもより少し静かな休日だった。

今回行ったのは六本木の国立新美術館。
楽しくポール・スミスとピカソの作品に触れることができた。

うん。それ自体、とても楽しかったですね。

ただ今回、一番印象に残ったのは展示そのものというより、美術館という場所が、妻と話すためのすごくいい「装置」になっていることだった。

これは前からなんとなく感じていたことだけれど、今回はそれがうまくハマった休日だった。

僕は美術館では、絶対に音声ガイドを借りる
少し寄り道になるけれど、僕は美術館へ行くと、かなりの確率で音声ガイドを借りる。

追加料金がかかっても、これはほぼ迷わない。

理由は単純で、僕にはアートの知識がほとんどないからだ。

もちろん、何も知らない状態で作品を見て、
「自由に感じればいい」
という楽しみ方もあると思う。

ただ、僕の場合はそれだと、そもそも何を見ればいいのか分からない。

なぜこの作品が作られたのか。
作者はそのとき何を考えていたのか。
どんな時代だったのか。
なぜこの表現なのか。
そういう最低限のフレームワークを一つもらったほうが、圧倒的に楽しめる。

そこにいい感じのBGMまで流れてくれば、それだけでかなりいい体験になる。

だから僕にとって音声ガイドは、作品の「正解」を教えてもらうためのものというより、自分で何かを考え始めるための足場なんだと思う。

前に見たピカソと、今読んでいる本がつながった
今回ピカソを面白く見られたのには、もう一つ理由があった。

少し前に家族で箱根へ旅行したとき、ピカソの作品をまとまって見る機会があった。

だから今回、まったく知識ゼロの状態で見るのとは少し違った。

さらに最近、僕は本を読みながら、
「人間は何をもって『本物っぽい』と感じるんだろう」
ということについて、なんとなく考えている。

本では人間が無意識に感じている「本物っぽさ」を言葉にして、ルールとして定義して、それをコンピューターに与えたら何ができるんだろう。

日常でそんなテーマに触れているから、今回の展示ともリンクして結構面白かった。

その状態でピカソを見ると、僕の中でボクなりのピカソが生まれてきた。

例えば、人間の生命力とか、動きとか、エネルギーみたいなものを表現するとしたら、何を残して、何を捨てればいいんだろう。

人間を写真のように正確に描くことだけが、その人を「本物っぽく」表現する方法ではない。

むしろ形を崩したり、いくつかの視点を混ぜたり、現実にはあり得ないような表現をしたほうが、人間の何かを強く感じられることもある。

ピカソは、そんなことをものすごくたくさん試していた人なのかなぁ。

そんなことを僕なりに考えながら見ていた。

もちろん、これが美術史的に正しい解釈なのかは分からない。

でも今回は、それでいいと思った。

僕にとって重要だったのは、
作品をきっかけに、自分の中にあった別の思考と何かがつながったこと
だったからだ。

そして、それを妻に話したくなる
面白かったのは、その先だった。

「僕はこれを見て、こう思ったんだけど」
と妻に話す。

妻は妻で、それについて思ったことを話す。

すると、展示について話していたはずなのに、少しずつ普段考えていることの話になっていく。

これが僕は結構好きなんだと思う。

夫婦で暮らしているからといって、お互いが普段考えていることを全部知っているわけではない。

むしろ日常では、
今日何時に帰るとか。
子どもの予定がどうとか。
晩ご飯をどうするとか。
明日は何時に起きるとか。
そういうオペレーションの会話がかなり多い。

それは当然必要なんだけれど、それだけではなかなか、
「最近、こういうことを考えている」
という話にはならない。

かといって突然、
「ところで最近、人生についてどう考えてる?」
なんて始めても、ちょっと重い。

僕自身、考えていることを人に話したくなるタイプなので、なるべく自分からテーマを押しつけすぎないようには気をつけている。

人ってたぶん、自分からその話をしたいと思ったときのほうが、相手の言葉も受け取りやすいと思うからだ。

美術館では、会話のテーマが勝手に目の前に現れる
そんな僕たちの日常だと美術館が面白い。

目の前に、作品がある。
「これ、どう思う?」
が自然に成立する。

僕が議題を持ってきたわけでもない。
妻が議題を設定したわけでもない。

二人の外側に、話す対象が置かれている。

これがすごくいい。

同じものを見る。
でも、感じることは違う。

だから話したくなる。
相手がどう感じたのか聞きたくなる。

そこから、
「そういえば普段もこういうことあるよね」
と日常へ戻ってくる。

そう考えると、美術館や博物館って、単に知識を得る場所ではないのかもしれない。

少なくとも僕にとっては、相手の中にあるものを自然に引き出してくれる場所でもある。

「話し合おう」と言わなくても、話し合える
今回の休日がうまくいったと思えたのは、ここだった。

僕は普段から、本を読んだり、いろいろなことを考えたりして、自分なりのテーマをいくつか持っている。

妻にも、妻が日々考えていることが当然ある。

でも、それぞれが持っているものを、
「さあ、お互い共有しましょう」
とやっても、なかなかうまくはいかない。

だったら、共有したくなる状況を先に作ってしまえばいい。

美術館へ行く。
旅行をする。
知らない街を歩く。
初めてのものを見る。
何かを一緒に体験する。

すると、体験そのものが二人の間にテーマを置いてくれる。

そこから、「どうだった?」が始まる。
その延長線上に、「実は最近、こんなこと考えてたんだよね」が出てくる。

今回、美術館を歩きながら妻と話していて、そんな構造がかなり鮮明に見えた気がした。

良い休日は、その日だけで作られているわけではない
だから今回、僕が一番嬉しかったのは、
「美術館に行って楽しかった」
ということだけではない。

これまで自分なりに準備してきたものが、うまくつながったことだった。

以前の旅行で見たものがある。
普段読んでいる本がある。
最近考えていることがある。
妻が考えていることがある。
そして休日に、家族で美術館へ行く。

一つひとつは別々の出来事だけれど、同じ場所に持っていくと、突然つながることがある。

だから、これからもいろいろ準備しておきたいと思う。

別に次の休日を完璧に計画するという意味ではない。

本を読む。
知らないものを見る。
自分が何を感じたのか考える。
家族が興味を持ちそうな場所を見つける。

そうやって、何かが起きたときにつながる材料を、日常の中に少しずつ置いておく。

そのくらいでいい。

美術館で見つけたのは、作品だけではなかった
今回、美術館へ行って改めて思った。

アートは、自分の知識や感性を耕してくれる。

でも、それだけではない。
同じ作品を誰かと見ることで、
「この人は、これを見て何を感じるんだろう」
という、自分ではない人への興味も生まれる。

そして、その人が妻のような身近な存在だったとしても、知らなかった考え方はまだまだ出てくる。

僕にとって美術館や博物館へ一緒に行くというのは、もしかすると、二人の知的好奇心を少しだけ同期させて、その先ではまた別々に考えるための時間なのかもしれない。

同じものを見て。
違うことを感じて。
それを話す。

そういう時間をこれからも、家族との休日の中に少しずつ作っていきたいと思う。

今日はそんな話でした。

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