ミネルバのフクロウの死角
みなさまおはようございます
あわさんと申します
いつも親切にしてくれてありがとう
## ミネルバのフクロウの死角
たとえ私が「ミネルバのフクロウ」であったとしても、四六時中目を覚ましているわけではない。
目を開いていたとしても、見える世界は視界およそ広角・仰角140度ほどにすぎない。言い換えれば、その四倍以上の世界は、常に私の死角にある。
だからこそ、人が見たもの、人が感じたものを、いかに受け継ぐかというコミュニケーションが重要になる。
しかし、その情報もまた完全ではない。
ディスプレーに映し出される映像には、カメラの死角があり、撮影者の意図があり、編集者によるトリミングやデフォルメがある。私たちは現実そのものではなく、「誰かが切り取った現実」を見ているにすぎない。
さらに厄介なのは、自分自身の認識である。
人は無意識のうちに、見たくないものを見ず、聞きたくないことを聞かず、信じたくない事実を受け入れない。
そう考えると、自分が知っていると思っている世界は、なんとスカスカで空虚なものなのだろう。
そんな限られた世界の中で、「リア充だ」と喜べる人は、それはそれで幸せなのかもしれない。
だから私は、知っていることでも、あえて「よく知りません」と構えることがある。
すると、本当に知らなかったことまで教えてもらえる。
もっとも、謙虚であれば、そんな駆け引きをする必要さえない。
疑問を解決してくれるのは情報である。
しかし、その情報を鵜呑みにしてはならない。
品質管理の父、W・エドワーズ・デミングは言った。
「神のみを信じよ。その他のものは、すべてデータを持って来い。」
あるいは、その精神を言い換えるならば、
**神のみを信じ、すべてのデータを疑え。**
データベース・プログラマーであれば、その意味は身に染みている。
データは嘘をつかない。
しかし、データの集め方も、定義も、欠損も、前提も、人間が作ったものである。
だからこそ、データそのものを疑い続けなければならない。
そして最後に、自分自身への戒めがある。
人に見えるものが見えなくなったり、人には見えないものが見えるようになるよりも、
**人間がデータにしか見えなくなったら、しばらく休んだほうがいい。**
世界を理解するためにデータは必要だ。
しかし、人間はデータではない。
数字の向こう側に、喜びも悲しみも、人生もあることを忘れてはならない。
今日がみなさまの佳きご縁の日でありますように
災い転じて福となす 笑う門には福来る 明るく陽気に活きましょう
偶然の神の思召すまま 幸運の女神のご加護がありますように
勿体なし忝し すめらぎいやさか
