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第九章 若衆

    店を畳んだあとも、ヤクザとの関係は続いた。

     〝その人〟と、残された二人のスタッフは、組の指示でパチスロの代打ちをやらされることになった。設定が入っていると見込まれる台に座り、決められた時間、ひたすら打ち続ける。

    一日一万円の日当が約束されていた。
    最初のうちは、その約束が守られていた。
    好きなことをして金がもらえる、というのは、単純に嬉しかった。台の前に座り、リールを回すだけで、一日一万円が手に入る。
    これまでの生活を考えれば、破格の条件に思えた。

    「今日も勝ったな。よし、これ日当な」
     
    差し出される一万円札を受け取るたび、この仕事は悪くないと、〝その人〟は思っていた。
     
    だが、その約束は、長くは続かなかった。

    「今日はこれだけな」
     
    差し出される額が、少しずつ減っていった。
    五千円になり、三千円になり、やがて何も出ない日も出てきた。

    「あの、今日は約束の額より……」

    「うるせえな、いいから受け取れよ」
     
    それ以上、何も言えなかった。
     
    資金は組から預けられていた。

    三人で交代しながら、朝から晩まで台の前に座り続ける日々が続いた。手元にはいつも、他人の金があった。
     
    ある夜、資金を管理していた財布を前に、三人で顔を見合わせる時間があった。

    「なあ、今日ちょっとだけ、この軍資金でさ飲みに使ってもバレないんじゃないか」
     
    誰かがそう言った。

    「いや、やばいだろそれは」

    「大丈夫だって、明日ちゃんと稼いで戻せば」

    「……まあ、それなら」
     
    誰も、強く止めなかった。

    むしろ、その場にいた三人全員が、内心では同じことを望んでいた。

    魔が差した、というより、三人の弱さが重なった瞬間だった。
     

    その夜、資金の一部を使い、三人で飲みに行った。笑いながら飲んだ酒の味は、翌朝には、まったく違うものに変わっていた。
     

    資金が足りないことは、次の日の昼過ぎには、もう露見していた。

    「事務所来い」

     
    電話越しの声は、それだけだった。それだけで、何が起きるのか、嫌でも想像がついた。
     
    向かう道すがら、足が重かった。

    心臓が、耳の奥で鳴っていた。

    何度も、逃げ出したい衝動に駆られた。

    だが、逃げ場などどこにもないことは、わかりきっていた。
     
    事務所の扉を開けると、薄暗い部屋の奥に、組長が座っていた。周りを、若い衆が数人、壁のように取り囲んでいた。空気の密度が、これまで感じたことのないほど重かった。
     

    〝その人〟ともう一人は、促されるまま床に膝をついた。

    「すみませんでした……おっ...お金の一部を、つ...使ってしまいました」
     
    声が、自分でもわかるほど震えていた。喉が、からからに乾いていた。

    「私が全部やりました!

    他の二人は関係ありません!

    すみませんでした!

    家賃がどうしても払えなくて、それで……」
     
    嘘だった。

    実際は、三人で飲みに使った金だった。
    それでも、少しでも情状酌量の余地があるように見せたくて、〝その人〟は咄嗟に、そんな理由を口にしていた。

    せめて、他の二人だけは、なんとか助けたかった。
     
    その言葉を遮るように、店の主軸にいた若い衆の一人が、低い声で言った。

    「お前、前も店の金使ったよな」

    部屋の温度が、さらに下がった気がした。

    「何度目だよ、それ」
    男が一歩、こちらに近づいた。

    〝その人〟は、思わず目を伏せた。

    手のひらに、じっとりと汗が滲んでいた。
     ――もう終わった。

     頭の中で、その言葉だけが、繰り返し響いた。
     ――コロされる。
     

    冗談ではなく、本気でそう思った。
    逃げ場のない部屋の中で、〝その人〟は、次に飛んでくる言葉、あるいは拳を、ただ待つことしかできなかった。

    呼吸の仕方すら、忘れそうだった。
     
    部屋の空気が、限界まで張り詰めた、その時だった。
    「みんなで使いました!」
     
    もう一人のスタッフの声が、部屋に響いた。

    「一人で使ったんじゃないです。三人で使って、遊びました!」

    「いや!」
     〝その人〟は、思わず声を上げていた。
    「私が一人で使いました。だから、他の二人は悪くないです」

    「いや、みんなで使いました! 本当です!」
     
    声を張り上げる相方を、〝その人〟は止めることができなかった。

    二人の言葉が、部屋の中でぶつかり合った。
     

    組長は、腕を組んだまま、しばらく何も言わなかった。その沈黙の長さが、余計に恐ろしかった。
    壁際に立つ若い衆の一人が、ポケットに手を入れる仕草をした。その動きだけで、心臓が跳ねた。
     

    どれくらいの時間が経ったのか、わからなかった。

    「わかった」
     組長が、ようやく口を開いた。
     
    小さくため息をつくと、組長はもう一度言った。
    「もういい」
     

    その一言で、部屋の空気が、わずかに緩んだ。だが、〝その人〟の体からは、まだ力が抜けなかった。
     

    解散のあと、なぜか組長は、みんなで食事に行こうと言い出した。断れるはずもなかった。

    〝その人〟たちは、組長や若い衆に混ざって、焼肉屋の座敷に座らされた。

    しばらくすると、他の組の人間まで合流してきた。
     
    肉が焼ける匂いの中、〝その人〟は箸を持つ手が、まだかすかに震えていることに気づいていた。

    ――これは、最後の晩餐なんじゃないか。
     そんな考えが、何度も頭をよぎった。

    誰かが冗談を言って笑う声すら、どこか遠くから聞こえるようだった。

    トイレに立った組員が、少し長く戻ってこないだけで、心臓が縮み上がった。
     
    食事が終わると、特に何も言われないまま、〝その人〟たちは解散になった。夜道を歩きながら、誰も、しばらく口を利かなかった。

    「……死ぬかと思った」

    ようやく、誰かがそう呟いた。

    「マジで、生きた心地しなかった」

    乾いた笑いが、その場に漏れた。安堵と恐怖が、まだ体の中でせめぎ合っていた。

     

    住む場所を失っていた〝その人〟は、店の主軸にいた若い衆の知人の家に、居候させてもらうことになった。営業していた頃から、何かと面倒を見てくれていた人だった。
     

    数日間、〝その人〟は〝その人〟の仕事を手伝いながら、寝床を借りていた。

    「お前、行くとこないなら、しばらくここにいていいから」

    「……すみません、本当に」

    「気にすんな。車も好きに使っていいぞ」
     
    その言葉に、〝その人〟は救われる思いがした。ヤクザ絡みの人間関係の中で、これほど条件もつけずに親切にしてくれる人は、なかなかいなかった。
     

    ある日、預かっていた財布が、目の前にあった。
    今の手持ちでは、携帯代も払えない、どうにかしてお金を作らなきゃ。
    パチスロで、勝てば返せる。ふと、そんな考えが頭をよぎった。
     
    止められたはずだった。

    だが、〝その人〟の手は、もう財布に伸びていた。

    ――なんで........なんで連荘しないんだ........なくなるお金がなくなる........どうしよう........
     
    結果は、負けだった。財布の中身は、跡形もなく消えていた。
     
    部屋に戻る足が、鉛のように重かった。

    どう説明すればいいのか、何度も頭の中で言葉を組み立てようとした。

    だが、どの言い訳も、口にする前から嘘くさく響いた。
     
    玄関の前に立ち、〝その人〟はしばらく動けなかった。
     
    ――謝れば、許してもらえるだろうか。
     
    ――いや、無理だ。もう、何度も同じことを繰り返してきた。
    今度こそ、見放される。
    それだけでは済まないかもしれない。この世界の人間を、また裏切ったことになる。
     

    結局、〝その人〟はドアを開けることができなかった。

    借りていた車を、その場に置いたまま、〝その人〟は駆け出すようにして歩き出した。

     ――逃げた。また見つかれば、今度こそ命はない。
     

    その恐怖だけが、足を前へ前へと動かし続けた。

    裏切りだとわかっていた。

    数少ない、無条件で親切にしてくれた人を、また裏切った。後悔と恐怖が、体の中でない交ぜになっていた。
     

    それは、三月初旬の、まだ寒さの残る夜のことだった。

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    作家の桜結ナオです。人間性の未熟さや生の泥臭さ、命の繋がりをテーマに物語を執筆中。 ◆著書 ・『誰かの半生ー反省ー』 過ちと再生、読者の中の「反省」を問いかける自叙伝。 ・『火星人~繋げていくことの意味~』 なぜ人は過ちを繰り返すのか。静かな問いを込めた作品を届けます。

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