
第八章 太客
繁華街の路上に立ち、通り過ぎる女性に声をかける。それが、開店したばかりの店の、日課のような仕事だった。
「すみません、お姉さん方、お時間あります? すぐそこの店なんですけど」
大抵は、無視されるか、苦笑いで通り過ぎられるかだった。それでも、百人に声をかければ、一人か二人は、話を聞いてくれる。
「え、メンズパブ?何それ」
「簡単に言うと、話し相手になる男がいるお店です。一杯だけでも、飲んでいきませんか」
愛想笑いを浮かべながら、路上に立ち続けた。声が枯れる夜もあった。それでも、客を一人でも増やさなければ、店は立ち行かなかった。
そうして通ってくるようになった客の中に、彼女がいた。
最初は、友人に連れられての来店だった。
二軒目のつもりで入った店で、たまたま〝その人〟の席についた。
「こういうお店、初めて来たんですけど……何を話せばいいんですか」
「なんでもいいですよ。今日あった、どうでもいいことでも」
その一言で、彼女は堰を切ったように話し始めた。職場の上司への愚痴、うまくいっていない家族との関係、別れたばかりの恋人のこと。
〝その人〟は、相槌を打ちながら、ただ聞いていた。
「こんなにちゃんと話聞いてくれる人、久しぶりです」
その日以来、彼女は一人で店に通うようになった。週に一度が、二度になり、三度になった。
「今日も来てくれたんですね」
「だって、あなたと話してる時だけ、ちゃんと息ができる気がするから」
最初のうちは、営業用の言葉として受け流していた。
だが、通う頻度が増すごとに、彼女の目に浮かぶ感情は、明らかに変わっていった。連絡先を交換してからは、営業時間の外でもやり取りが続くようになった。
メンズパブの営業では、朝方まで帰れないことが多かった。
ある朝、珍しく九時前に部屋に戻ると、内鍵がかかっていた。
〝その人〟は、ドアの前で、しばらく固まった。
何かがおかしい。
いつもは内鍵なんか掛けないのに。
ドアが開かない。
何度もノックをした。
「ヒロミ、開けて」
中から、慌てたような物音が聞こえた。
何かがぶつかる音、小さな声。
ようやくドアが薄く開いたかと思うと、ヒロミが隙間から顔を出し、閉めようとした。
「ちょっと待って、まだ……」
その言葉の途中で、〝その人〟はドアに肩をぶつけるようにして押し込んだ。反動で内鍵がずれ、開いた。
部屋の中に入った瞬間、空気が違うのがわかった。
二人で寝ているはずのベッドに、見知らぬ男が、慌てて上半身を起こしていた。
頭の中が、真っ白になった。
怒りよりも先に、喉の奥から、酸っぱいものがこみ上げてくるような感覚があった。
今まで、自分が誰かを裏切ることはあっても、裏切られる側になったことは一度もなかった。
その初めての感覚は、想像していたものとは、まるで違っていた。
怒鳴り声よりも先に出たのは、乾いた笑いだった。
「……は?」
声にならない声で、それだけ漏れた。
目の前の光景が、現実だと認識するまでに、数秒かかった。
「お前、出てけ!」
我に返った時には、怒鳴っていた。
男は慌てて服を掴み、逃げるように部屋を出ていった。
ヒロミは、その場に座り込んだまま、何も言わなかった。言い訳の一つもしなかった。その沈黙が、かえって、〝その人〟の胸をえぐった。
「……いつから」
聞いても、答えは返ってこなかった。
〝その人〟は、玄関にしゃがみ込んだ。
怒りなのか、吐き気なのか、自分でもわからない感覚が、体の奥からせり上がってきた。
裏切ることには慣れていたはずなのに、裏切られることには、こんなにも耐性がなかった。
その日を境に、ヒロミとの関係は、静かに終わっていった。
自分でも、何を求めているのか、わからなくなっていた。
その夜も、店の営業が終わったあと、彼女と二人で飲んだ。いつもより多く酒を飲んだ。
「今日、なんか変ですね」
「そう?別に、いつも通りだけど」
ひどく酔った〝その人〟は何も考えていなかった。
そのまま彼女の部屋に泊まることになった、客の部屋に行くことなんて初めてだった。
何かを埋めたかったのか、ただ自分をどうでもよくしたかったのか、〝その人〟自身、はっきりとした理由はなかった。
ただ、彼女の存在に、流されるままだった。
翌朝、ベッドの隣で寝ていた〝その人〟に彼女は、これまでとは違う目で〝その人〟を見つめた。
「私たち、これから、どうなるんですか」
その問いに、〝その人〟は、答えを持っていなかった。
「どうなるんでしょうね」
はぐらかすように、そう答えるしかなかった。
彼女の目に、失望の色が浮かんだのを、〝その人〟は見て見ぬふりをした。
それから、連絡の頻度を、少しずつ減らしていった。
ある日を境に、彼女からの連絡が、ぱたりと途絶えた。
最初は、忙しいのだろうと思っていた。
二日、三日と過ぎても、既読すらつかなかった。
――何かあったのか。
胸騒ぎがして、何度もメッセージを送った。
『大丈夫?何かあった?』
『心配してます、連絡ください』
どれにも、返信はなかった。
四日目の夜、彼女の友人から、突然電話がかかってきた。
「あの……〇〇の友達なんですけど」
「はい、何かあったんですか」
「あの子、薬を大量に飲んで、倒れてるところを家族に見つかったって……今、病院にいるみたいで」
血の気が引いた。
「病院、どこですか」
教えられた病院名を聞くと、〝その人〟は着の身着のまま、タクシーを拾って向かった。車内で、何度も同じ言葉が頭を巡った。
――俺のせいだ。俺が、ちゃんとしなかったから。
病院に着くと、廊下の長椅子に、彼女の家族らしき人たちが座っていた。
声をかけることもできず、〝その人〟はナースステーションで名前を告げた。
「ご家族の方ですか」
「いえ……友人です」
しばらく待たされたあと、面会の許可が下りた。
病室に入ると、彼女はベッドの上で、点滴に繋がれていた。
顔色は悪かったが、意識ははっきりしているようだった。
〝その人〟の顔を見た瞬間、彼女は、視線をふいと逸らした。
何も言わなかった。
「ごめん」
それだけを、口にした。
何に対しての謝罪なのか、自分でもはっきりしなかった。
彼女は、天井を見つめたまま、何も答えなかった。
病室を出る時、看護師に軽く頭を下げるのが、精一杯だった。
彼女は、それから店に来ることはなくなった。
店の経営は、相変わらず苦しかった。
給料は、ほとんど支払われなかった。
ある月など、手元に残ったのは五千円だけだった。食べることはできても、携帯代も、家賃も、それでは到底足りなかった。
レジの金に、初めて手をつけたのは、その頃だった。
最初は、少しだけのつもりだった。次の給料が出たら、必ず戻す。そう自分に言い聞かせながら、札を数枚、抜き取った。
だが、金は増えることなく、抜き取る額だけが増えていった。
ある夜、売上の帳簿を確認していたヤクザの若い衆に、〝その人〟は呼び出された。
「お前、金抜いてるだろ」
言い逃れはできなかった。
「すみません……生活費が、どうしても足りなくて」
「そんなの、こっちには関係ねえんだよ。いつまでに返せる」
「……できるだけ早く、必ず」
その場で、期限を切られた。
守れなければどうなるか、口には出されなかったが、目の前の男の表情だけで十分に伝わった。
部屋に戻り、〝その人〟は携帯電話を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
何度も母の番号を表示させては、消した。
意を決して、電話をかけた。
呼び出し音が鳴るたび、心臓が締めつけられた。
「もしもし」
「母さん……お願いがあるんだけど」
声が、震えていた。
「お金、貸してほしいんだ。どうしても、今すぐ、必要で」
「また、パチスロか何かでしょう。いい加減に……」
「違う!違うんだ、今回は……」
〝その人〟は、言葉に詰まった。
ヤクザから金を抜いたことがバレて、期限までに返さなければならない——そんなことを、正直に話せるはずもなかった。
それでも、声の切迫さだけは、隠しようがなかった。
「本当に、まずいんだ。頼む、お願いします」
電話の向こうで、母がしばらく黙った。
「……あなた、今までとは、様子が違うね」
母の声は、静かだったが、これまでのどこか呆れたような響きとは、明らかに違っていた。
何かを感じ取っているのが、電話越しにも伝わってきた。
「詳しいことは、言えないんだけど……お願い」
「わかった。すぐ手続きするから」
それだけ言って、母は電話を切った。
理由を問い詰めることは、しなかった。
振り込まれた金を、〝その人〟はその日のうちに、若い衆に渡した。
「今回だけだからな」
念を押すようなその一言に、頭を下げることしかできなかった。
客足は戻らないまま、店は半年で幕を閉じることになった。
最後の営業日、がらんとした店内で、〝その人〟たちは黙って片付けをした。
あれほど賑やかにコールをした夜が、遠い昔のことのように感じられた。
冴木がいなくなり、恋も、生活も、金も、何もかもが手をすり抜けていった半年だった。
それでも、店を畳んだことで、ようやく一つの区切りがついた——そう思っていた。
だが、ヤクザとの関係は、これで終わりではなかった........
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