
第十八章 子供ができたら
開店した店には、初日から客が入った。
予約は、事前にはほとんど入っていなかった。
それでも、開店から数分と経たないうちに、一人目の客が扉を開けた。
多少の宣伝はしていたが、予約サイトへの掲載の効果が大きかったのだと思う。
その日は、営業時間のすべてが、施術の予約で埋まった。
滑り出しは、上々だった。
一週間が過ぎても、予約枠は、それなりに埋まり続けた。
一日に受けられる施術は、最大で七人。平均して三、四人ほどの客が入れば、経費を差し引いても、生活していけるだけの収入になる計算だった。
その見込みは、大きく外れることなく進んでいった。
だが、施術を重ねるうちに、〝その人〟は、自分の技術に、ある違和感を覚えるようになった。
客の反応、体の緊張の解け方、施術後の表情。何かが、もう一段階足りない気がしていた。
――もっと、上を目指したい。
〝その人〟は、休みの日を使って、他のマッサージ店に、客として足を運ぶようになった。技術を学ぶための、いわば偵察だった。
何軒か回った、そのうちの一店で、〝その人〟は彼女と出会った。
施術を担当してくれたのが、彼女だった。
指の運び、力の加減、会話の間合い。
すべてに、無駄がなかった。
施術を受けながら、〝その人〟は、技術以上に、彼女自身に目を奪われていることに気づいた。
施術が終わったあと、思い切って声をかけた。
「あの、技術の勉強をしていて……もし良かったら、連絡先、交換してもらえませんか」
いきなりの申し出に、彼女は少し戸惑った様子だった。
それでも、〝その人〟は、引き下がらなかった。
「本当に、技術のことも聞きたいんです。ダメですか」
半ば強引に、連絡先を交換した。
振り返れば、かなり強引なやり方だったと思う。だが、それくらいの勢いがなければ、この出会いを逃してしまう気がしていた。
連絡を取り合ううち、二人は、何度も会うようになった。
初めてデートをした日、〝その人〟は、朝から弁当を作った。
特別な料理ではなかったが、彼女の好みを思い出しながら、一つひとつ丁寧に詰めた。
昼、二人は近くの公園のベンチに座り、その弁当を広げた。
「え、これ、全部作ってきたの?」
「うん。まあ、一応、料理人だったから」
彼女は、驚いた顔をしたあと、嬉しそうに笑った。
夜は、彼女が好きだというワインを飲みに行った。その席で、〝その人〟は、彼女の生まれ年のヴィンテージワインを一本、用意していた。
「これ、あなたの生まれた年の」
「え、そんなの、どこで見つけたの……」
彼女が、驚いたように瓶のラベルを見つめた。
それから間もなく、〝その人〟は、彼女に告白することを決めた。
彼女とは、十四歳の年の差があった。世代の違いを、〝その人〟は何度も意識した。話題の選び方、価値観の違い、この先を考えた時の年齢の重み。彼女にとって、この年齢差が、負担にならないだろうか。何度も、そんなことを考えた。
それでも、この気持ちを、きちんと言葉にして伝えたかった。うまく話せる自信がなかった。
だから、〝その人〟は、手紙を書くことにした。これまでの人生で、誰かに手紙を書いたことなど、一度もなかった。何度も書き直しながら、ようやく一枚の便箋に、思いをまとめた。
二人で二度目のデートに出かけた日、〝その人〟は、その手紙を持っていた。
その場所は、初めて訪れたその日から、二人にとって特別な場所になっていた。
昼間の陽射しの中、〝その人〟は、ポケットから、その手紙を取り出した。
「話したいことがあって……これ、読んでもいいかな」
彼女が、静かに頷いた。
〝その人〟は、手紙を広げ、たどたどしく、読み上げ始めた。
年の差のこと、不安なこと、それでも彼女と一緒にいたいと思う気持ち。
声が、途中で何度か詰まった。
「..........大好きです!付き合ってください。」
読み終えた頃には、彼女の目に、涙が浮かんでいた。
「うん」
短い返事だった。
だが、それで十分だった。
彼女と付き合い始めてから、〝その人〟は、彼女の通勤を、毎日車で送り迎えするようになった。彼女は、車の免許を持っていなかったから。
朝、仕事に向かう前に彼女を送り、夜、仕事を終えた彼女を迎えに行く。
それが、二人の日課になっていった。
付き合い始めてすぐ、彼女は、長年の夢だった保育の仕事に就くことになった。
保育士の資格は持っていなかったため、保育補助として、子供たちと関わる仕事だった。
彼女が初めて出勤した日、〝その人〟は、仕事終わりに迎えに行く車の中に、花束を用意しておいた。
「お疲れ様。頑張ったね」
助手席に乗り込んだ彼女の膝に、そっと花束を置いた。
「え、これ……」
「初日だったから」
驚きながらも、彼女は、花束を大事そうに抱えた。
夢だった仕事に踏み出した彼女の顔には、疲れの中にも、確かな充実感が滲んでいた。
〝その人〟は、これまでの人生で、誰かにこれほど尽くしたことがあっただろうかと思うほど、彼女に向き合った。
仕事帰り、疲れているだろう彼女のために、夜遅くまで開いている店を探して食事に誘った。
彼女が何気なく口にした好きなものを覚えていて、次に会う時にはさりげなく用意した。
そうして時間を重ねるうちに、彼女の人柄も、少しずつ見えてきた。彼女は、はっきりとした性格をしていた。
思ったことを、包み隠さず口にする。
時には、〝その人〟にとって耳の痛いことも、まっすぐにぶつけてきた。
「私、周りからよく、わがままだって言われるの。それでもいいの?」
付き合い始めの頃、彼女にそう聞かれたことがあった。
「いいよ。全部、受け止めるから」
その言葉に、噓はなかった。
これまでの人生で、大切なものを何度も取りこぼしてきた分、今度こそは、相手のすべてを引き受けたいという思いがあった。
のちに、彼女の家族から。
「あなたみたいにわがままな人は、結婚できないと思ってたのよ。でも、〝その人〟がそこまで受け止めてくれるなら……〝その人〟を逃したら、もう、そんな人は現れないと思う」
その言葉を、彼女から伝え聞いた時、〝その人〟は、誇らしさと同時に、身の引き締まる思いがした。
交際が深まる中、〝その人〟は、以前から温めていた話を、彼女に切り出した。
「子供の教育のこと、今のうちにちゃんと話しておきたいんだ」
「急にどうしたの」
「もし将来結婚するなら、子供に対する考え方がズレてると、絶対にうまくいかないと思ってて」
〝その人〟には、確信があった。
これまで見てきた別れの多くが、浮気やDVのような、わかりやすい理由だけではなかった。
子供への価値観の違いが、じわじわと関係を蝕んでいく——身をもって、それを知っていた。
「だから、今のうちに、すり合わせておきたい」
彼女は、その言葉に、真剣な顔で頷いた。
二人は、何度も、時間をかけて語り合った。しつけの方針、教育にかける熱量、将来どんな家庭を作りたいか。
話すたび、彼女の考えに、〝その人〟は深く共感した。
「私、子供ができない結婚は、意味がないと思ってる」
ある夜、彼女は、まっすぐにそう言った。
「書類の上だけの関係になるなら、それは、ただ付き合ってるのと同じだから」
「じゃあ……」
「子供ができたら、結婚しよう」
その一言に、〝その人〟は、迷わず頷いた。
「うん。そうしよう」
それから、二人の時間は、静かに、しかし確かに積み重なっていった。
結婚という言葉は、まだ、二人の間の約束でしかなかった。
それでも、その約束があるだけで、これから先の日々が、これまでとは違う手触りを持って感じられた。
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