見出し画像

我思っても思わなくても、我あり。

ーー シェル・ブレスレットのかおり 


序(Prelude) ~ひとつの音 「居る。」~


夜、ひとりで音楽を聴いていると、
ふと、これからのことを考えてしまうときがあります。
この先、自分はどうなっていくのだろう。
重い病気と診断されたらどうしよう。
認知症という言葉もそうです。
そんなことを考えながらも、私は好きな音楽を流してしまいます。
本当は、不安から逃げ出したいのかもしれません。
名前のつけにくい「モヤモヤ」が、長いあいだ心の中に居座っていました。
音楽は、言葉になる前の何かを、
そっと受け止めてくれることもあるからです。
それは何かを証明する音でも、
誰かと競争を始めるための合図でもありません。
ただ、「ここに居る」ということを、静かに思い出させてくれる音です。

ある日、その音を聴きながら、私はこんなことを思いました。
もし、そのときが私を迎えに来たなら、
私は、その「未来」に向かって、こう声をかけてみたい。

「やっと来たの? 遅いじゃないの。
     それじゃ、次のステージにでも行ってみようか?」

本当にそんなふうに言えるかどうかは分かりません。
その日が来たら、怖くて震えているかもしれません。
けれど、そう願うことだけは、今の私にもできます。

なぜなら、私はここに居る。
思えても、思えなくても。

このエッセイは、成功の物語ではありません。
迷い、立ち止まりながら、
一人の人間がようやくたどり着けた、小さな気づきの記録です。

旅の途中で偶然拾った四つの貝殻。
そのときは、ただ少し気になる貝殻だなと思っていました。
まさか、その一つひとつが、こんなにも深く輝き始めるなんて……。
そのときの私は、まだ知る由もありませんでした。

私は、このエッセイを書きながら、
一つの交響曲を聴いているような気持ちになりました。
最初は、ひとつの小さな音でした。
けれど、その音は、少しずつ響きを重ねながら、
やがてひとつの旋律になっていきます。

そして最後には、四つの貝殻がひとつの輪となり、
まだ誰も聴いたことのない”希望交響曲”への扉を、
そっと開いてくれました。
このエッセイも、そんな旅になればいい。
そう願いながら、最初の一音を置いてみようと思います。

「居る。」

たったひとつの音。
この一音が、このエッセイ全体の主音(トニック)になります。


第一楽章 Shinkan(心感) 〜気づきの旋律〜


子どものころ、私はよく、
「また突飛なことを言っている。」
と言われました。
そのたびに、
自分の中に浮かんだものを、
そっと引っ込める癖がついていったのかもしれません。
言葉にしても、どうせ笑われる。
説明しても、分かってもらえない。
そんな小さなあきらめを、長いあいだ抱えてきました。

けれど二十歳のとき、東京へ行くことが決まった瞬間、
体の芯がジーンと震え、
内側から熱がふっとこみ上げてくるのを感じました。
都会への憧れとかではなく、
「人生で初めて味わう、心が解き放たれるような自由感」
だったように思います。    

あれから六十年。
私は、八十歳を越えました。

長い時間を振り返ってみると、
私は少しずつ、
人の目や「こうでなければならない」という見えない壁から、
自分を解放してきたような気がします。
その頃の私は、何を始めたいのかさえ、
まださっぱり分かっていませんでした。

そんなある日、徳島市のイベントで一枚のパンフレットを手渡されました。
そこには、「起業セミナー」と書かれていました。
事業計画もありません。
資金もありません。
夢らしい夢さえ、まだ輪郭もありませんでした。
それでも、なぜか心が動きました。
理由は分かりません。
ただ、「行ってみよう。」
そう思ったのです。

今思えば、あの小さな動きこそが、
私の最初の Shinkan(心感) だったのかもしれません。

教室へ入ると、講師がこう言いました。
「突飛なことでも構いませんよ。」
その瞬間でした。
胸の奥が、ザワワッと揺れました。
「えっ、いいの?」
長いあいだ胸の中にしまっていた言葉が、
一気に出口を見つけたような気がしました。

世間から見れば、不謹慎だと受け取られるかもしれない。
笑われるかもしれない。
それでも、その日は口にしてみようと思いました。

「自分の老化は嬉しい。認知症になると、もっと嬉しい……。
これで起業できないかな?!」

教室は、一瞬、静まり返りました。
「ああ、場違いなところへ来てしまったかも。」
そう思いました。
けれど、誰も私を否定しませんでした。
数回の講義を終えた最後の日の帰り際に、
一人の担当者が静かに声をかけてくれました。
「期待しています。」
たった、その一言でした。

けれど、その言葉は、私の胸の奥へそっと沈んでいきました。
人は、大きな言葉で変わるとは限りません。
たった一言が、人生をゆっくり動かし始めることがあります。
私にとって、「期待しています。」は、まさにそんな言葉でした。

もちろん、私は認知症を美化したいわけではありません。
認知症の本人や家族が抱える苦しみを、
軽く考えているわけでもありません。
だからこそ、
その未来まで絶望だけで語られる社会であってほしくないと思ったのです。

もし、その道を歩むことになったとしても。
そこにも人生があります。
そこにも笑顔があります。
そこにも、人とのつながりがあります。
そして、そこにも、存在の尊厳があります。

その日から私は、一つの問いを抱えながら歩き始めました。
思えなくなったとしても、人はなお、ここにいるのではないか。
その問いは、やがて私の人生を静かに導く、
一つの旋律になっていきました。


第二楽章 在 〜存在というレガート〜


あの日から、一つの問いが、私の中で静かに流れ続けていました。
思うことが難しくなったら。
記憶や言葉が、今のようには頼れなくなったら。
そのとき、私はどうなるのだろう。
そんなことを考えているうちに、
ふと、あの有名な言葉が頭に浮かびました。

「我思う、ゆえに我あり。」

私は、その言葉を少し離れたところから眺めてみました。
思うことは、人間にとって大切です。
考えることも。
悩むことも。
創り出すことも。
そのどれにも、人生があります。

けれど、私はもう一つの問いを抱きました。
思えない日は、どうなるのだろう。
考えがまとまらない日。
言葉が出てこない日。
何もする気になれない日。
そんな日にも、人はなお、ここに居るのではないだろうか。
私は、その問いを抱えながら、静かに考え続けました。

そのとき、突然ミステリアスなイメージが浮かび、
私はそれをあるがままにしていました。
すると私の視界が、ゆっくりとズーム・アウトしていくではありませんか。
最初は、一人の人の背中が見えました。
その隣に、また一人。
さらに向こうにも、たくさんの人たち。
走っている人。
立ち止まっている人。
笑っている人。
泣いている人。
怒っている人。
よこたわっている人。
やがて、みんな豆粒ほどの大きさになりました。
誰が誰なのか、もう分かりません。
けれど、一つだけ、はっきり見えるものがありました。
みんな、同じ地上に**「居る。」**
その事実だけは、否定できませんでした。
それが夢なのか現実なのか分からない、その瞬間に、
私の中で一つの言葉が生まれました。

「思う前に、存在あり。」

考える前に。
評価される前に。
役に立つ前に。
成功する前に。
失敗する前に。

まず、私たちは「居る」。

その一点から、すべてが始まります。

私は、その言葉が浮かんだとき、
胸の奥の何かが確かに軽くなっていくのを感じました。

今まで、何かになろうとしていた。
誰かに認められようとしていた。
役に立とうとしていた。
もちろん、それも大切です。
けれど、それらはすべて、
「居る」という前提の上にあるものだったのです。

私は、ようやくその順番に気づきました。
だから私は、こう言ってみたくなりました。

我思っても思わなくても、我あり。
思う前に存在あり。
存在そのものが誇りなのです。


この言葉は、答えではありません。
世界中の人を説得するための言葉でもありません。
ただ、
未来を不安に思っている誰か。
病と向き合っている誰か。
孤独の中にいる誰か。
その人と、静かに並んで座るための言葉です。

「あなたも居る。」
「私も居る。」

その事実を、そっと確かめ合うための、小さな言葉なのです。

そして、ある人に
「それって、パラダイムシフトかも知れない」といわれたときに
未来に明かりがポッと灯ったような摩訶不思議な感覚にとらわれた記憶が
まだ、はっきりと残っています。


第三楽章 誇 〜静かなアダージョ〜


思うことができる日もあります。
思えない日もあります。
元気な日もあります。
へたってしまう日もあります。
何をやってもうまくいかない日。
人と話す元気もない日。
自分には何も残っていないように思える日。
そんな日は、誰にでもあるのではないでしょうか。

以前の私は、そんな日は「だめな日」だと思っていました。
何もできなかった。
役に立てなかった。
前へ進めなかった。
そんな自分を責めていたのです。

けれど、「思う前に存在あり」という言葉に出会ってから、
その見方は少しずつ変わっていきました。
何もできない日にも、私は居ます。
笑えない日にも、私は居ます。
疲れて横になっている日にも、私は居ます。
その「居る」は、
昨日より小さくなるわけでも、
今日だけ消えてしまうわけでもありません。

私は、ようやく気づきました。
存在は、成果によって増えたり減ったりするものではないのだと。
世の中には、「頑張ること」が求められる場面がたくさんあります。
もちろん、それは大切なことです。
努力すること。
挑戦すること。
誰かのために働くこと。
そのどれにも、大きな価値があります。
けれど、もし、
それだけが人の価値を決めるものだとしたら、どうでしょう。

病気になった人は。
障害のある人は。
幼い子どもは。
高齢になった人は。
そして、人生の終わりに近づいた人は。
もし、そうだとしたら、
人は人生のどこかで尊厳を持てなくなってしまいます。
私は、そんな社会であってほしくありません。

だから私は、「誇り」とは、
胸を張ることだけではないのだと思うようになりました。

何かを成し遂げたから誇りなのではありません。
誰かより優れているから誇りなのでもありません。
何もできなくなったとしても。
言葉が少なくなったとしても。
静かに眠っているだけの日があったとしても。
あなたは、居ます。
私は、居ます。
その事実は、揺らぐことはありません。
だから私は、

存在そのものが誇りなのです。

という言葉を、大切にしたいのです。

それは、自分を励ますためだけの言葉ではありません。
目の前で苦しんでいる誰かに、
「あなたは、ここに居ていい。」
そう静かに伝えるための言葉でもあります。

誇りとは、大きな拍手の中にあるものだけではなく、
誰にも気づかれない静かな日常の中にも、
そっと息づいているものなのかもしれません。

そのことに気づいた日、私の心は少しだけ自由になりました。


第四楽章 厳  〜未来への響き〜


ここまで歩いてきて、私は一つのことを思うようになりました。
尊厳とは、人生の最後にたどり着く結論ではないのかもしれません。
むしろ、人が生まれたその瞬間から、
静かに宿っているものなのではないでしょうか。

私は、防災士として避難所のことを考えていたとき、
一つの光景が心から離れなくなりました。

大きな災害が起きたとき。
高齢の人。
障害のある人。
乳幼児を抱えた人。
病気の人。
介護を必要とする人。
日本語や情報が十分に伝わりにくい人。
支援の仕組みはあっても、
その輪から静かにこぼれ落ちてしまう人がいるかもしれない。
体育館の片隅で、
「迷惑をかけたくない。」
そう思いながら、小さく座っている人がいるかもしれない。

その沈黙は、ただの沈黙ではなく、
言葉になる前のささやかな”予感”でした。
言葉になる前の何かが、こちらへ届こうとしている。
私は、その小さな気配を見落としたくありませんでした。

胸の奥が、ザワワッと動きました。
「このままで、本当にいいのだろうか。」
その小さな揺れ。

私は、その感覚を Shinkan(心感) と呼ぶようになりました。

Shinkanは、誰かを評価するためのものではありません。
正しさを競うためのものでもありません。
誰かの存在に、こちらの心が静かに反応すること。
そんな小さな受け止める応対力です。
もちろん、感じるだけでは足りません。
制度も必要です。
専門的な人材や支援も必要です。
けれど、その前に、人が人に気づく瞬間があります。
その小さな瞬間から、すべては始まるのではないでしょうか。

私は、存在を考え続けるうちに、四つの大切な言葉に出会いました。
在。
感。
誇。
厳。
最初は、それぞれ別々の場所で見つけた、小さな気づきでした。
けれど、ある日、四つをつないでみると、不思議なことが起こりました。
一つひとつでは分からなかったものが、
静かに見え始めたのです。

四つが合わさると、
こんなにも美しく輝き始めるなんて……。
そして、気づきました。
四つは、柱ではありませんでした。

四つは、一つの輪だったのです。

在があるから、感が生まれる。
感があるから、誇りに気づく。
誇りがあるから、尊厳を見失わない。
そして、その尊厳が、
もう一度「在る」ということを静かに照らしてくれる。

私は、この輪を心の中でそっと抱きしめました。
きっと、この輪はこれからも完成することはありません。
人生とともに少しずつ育ち、
人との出会いの中で少しずつ形を変えながら、
未来へ響いていくのでしょう。

その響きは、
誰かを打ち負かすためではなく、
互いの存在を静かに照らし合うためにある。
私は、そう信じています。
 
 

コーダ(終結部) ~シェル・ブレスレットのかおり~

私は海が好きです。
青い海。
白い波。
白い砂浜。
夏の空に浮かぶ入道雲。
そして、輝く太陽。

それぞれ別々に見ていたものが、
ふと立ち止まると静かにつながっていることに気づく。
その景色を眺めているうちに、
旅の途中で拾った四つの貝殻を思い出しました。

在。
感。
誇。
厳。

歩きながら出会い、
迷いながら拾い、
何度も立ち止まりながら、
手のひらに残ったきれいな小さな貝殻。
順番も大きさも形も色も違う。
それなのに、ひとつの輪になると互いの輝きを放つ。
私はその美しさに目を奪われました。
そして四つの貝殻を一本の鎖でつないでみました。
 
四つのシェルのブレスレット。
 
色や形や大きさは、それぞれの想像と創造で。
 
愛称は、わたしだけの「シェル・ブレス」。
 
そっと腕につけてみると、
それは不思議なくらい温かい。
勇気や希望が、
胸の奥からゆっくり湧いてくるようでした。
 
それは、腕につけるためだけのものではありません。
それは、心のなかにもつけられる、
 
まるで、私の人生へのプレゼントのように。
  
私は、しばらく波の音に耳を傾けていました。
潮のかおりが、
静かに風に乗って流れていきます。

誰しもまず、「居る」。
その一点で、
私たちはすでに出会っていたのかもしれません。

そのとき、
遠くから、
ベートーヴェンの《第九》の歓喜の歌が聞こえてくるような気がしました。
人は違う。
それぞれ違う。
それでも、ともに響き合うことができる。
まるで、一つの交響曲のように。

そして、
さいごの音が静かに響き終えたあと、
私は、ふと思いました。

さいごの音が消えたそのあとに、

未来のどこかで生まれようとしている、
まだ名もない、
かすかな始まりの音に、

そっと耳を澄ませてみませんか————。

そんな予感に包まれていました。
 

あとがき
このエッセイを書き終えて、あらためて思うことがあります。
私は、この作品を書こうとして歩き始めたのではありません。
歩いているうちに、気になる言葉に出会い、
気になる景色に立ち止まり、気になる出来事を拾い集めてきました。

振り返ってみると、
その一つひとつが、いつの間にか一つの輪になっていました。
在。
感。
誇。
厳。
どれか一つだけでは見えなかったものが、
四つそろったとき、
静かに姿を現してくれたのです。

私は、このエッセイの中で、何かを証明したかったわけではありません。
誰かに答えを示したかったわけでもありません。
ただ、「ここに居る」という、
とても静かな事実を、
もう一度見つめてみたかったのです。

その旅の途中では、AIとの対話もありました。
一人で考えているだけでは見えなかったかも知れない景色が、
対話を重ねる中で少しずつ見えてきました。
もちろん、考えたのは私です。
選んだ言葉も私のものです。
けれど、対話は、思索を深める大切な時間になりました。

読者の皆さんは、
このエッセイをどのように受け止められるでしょうか。
共感してくださる方もいれば、
違和感を覚える方もいらっしゃると思います。
それでいいのだと思っています。
違和感もまた、新しい問いの始まりだからです。

もし、このエッセイを読み終えたあと、
ふと空を見上げたくなったなら。
海辺を歩いてみたくなったなら。
誰かの存在を、少しだけやさしく見つめたくなったなら。
そして、自分自身に向かって、

「今日も、ここに居る。」

そう静かにつぶやいていただけたなら、
これほど嬉しいことはありません。

私の旅は、ひとまずここで終わります。

そして、
また明日、
新しい旅立ちの日でもあります。


あなたの旅は、ここから始まります。


我思っても思わなくても、我あり。
思う前に存在あり。
存在そのものが誇りなのです。



―― のんきな「わたし」より 🌿
 
 
 
 
そっと添えることば
 
存在は、それだけで尊いものです。
その静かな尊厳を胸に、
きょうできることを、きょうの自分の歩幅で選べばいい。
できない日は、できないままで、
自分を責めずにそっと休めばいいのです。
 
存在の尊厳は、
誰かを傷つけないかたちで、やわらかく降り立ちます。
その気配は、あなた自身をそっと包み、
同時に、まわりの人をあたためます。
 
存在は出発点であり、行動はその先にある“選べる道”です。
選ぶかどうかは、あなたの自由です。
選ばない日も、あなたの存在は変わらずそこにあります。

 
 
さいごに

 
あなたは、そのままで。


わたしも、きっと、そのまま・・・・・
 
 
あなたの中の貝殻と、いつか出会えますように。


 
 
#創作大賞2026 #エッセイ部門 #哲学 #生き方 #存在 #老い #孤独 #音楽 #尊厳 #共感
 
 



いいなと思ったら応援しよう!