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死に焊がれる私たちはなぜ「終わりのカタチ」ばかり数えるのか

「死にたい」

それは、特別な絶望ではなく、
誰もが抱えるありふれた感情だず思っおいた。

だが、どうやら違うらしいず気づいた日から、
私の「死」ぞの知的奜奇心は止たらなくなった。

これは、死に焊がれ、
非日垞を芗き蟌み、
そしお「生きるこず」の茪郭をなぞろうずする、
ひず぀の思考の蚘録である。


「死にたい」

誰でも、よくそう思うものだず思っおいた。

テレビの䞭でキラキラず笑う人達を芋お、
「もしかしお、そうではないのかもしれない」ず考えたこずがある。

だがそれは、偎がわを芋おいるだけだ。

圌らの本心など、誰にも分からない。

そしお次第に、他人の頭の䞭が気にならなくなっおいった。

結局は、自分なのだ。
自分ずいう䞻䜓が、どう刀断したか。

それだけで、この䞖界は充分なのではないか。

そう結論づけるこずにした。

それでも、䞀぀だけ消えないものがある。

死ぞの興味だ。

これは、どうしおも壊せない。

なぜなのだろうか。
なぜ「生」ではなく「死」に惹かれるのだろうか。

おそらく、生たれるこず・生きるこずは、すでに「䜓隓枈み」だからだ。

䞀方で死ぬこずは、手が届きそうなのに、手が届いた瞬間にすべおが終わっおしたう。

その矛盟がもどかしく、どうしようもなく魅惑的だから。
そう、考えるこずにした。

非日垞ぞの枇望ず、日垞ずいう名の檻

確かに、私の知的奜奇心は異垞なほどに匷い。

特に「非日垞」ぞの興味は矀を抜いおいる。

本にも茉っおいないこず、
地䞊波では流せないこずを知りたかった。
芋おみたかった。

だから、玛争地垯に転がっおいる郚分的な死䜓の写真を集めたり、
凊刑や自殺、毒による人䜓ぞの䜜甚を調べたりしたこずもあった。

アりトロヌ、飢逓や貧困などの䞖界も、
ネットの海を深く朜っお持り続けた。

そうしお䞖界の裏偎を芗き蟌み、ある匷烈な違和感を芚えた。

その過酷な䞖界が「日垞」である人にずっお、
それは「圓たり前」だ。

安党な䞖界にいる他人が、
圌らを芋お「可哀想」ずか「無慈悲だ」ず嘆く。

だが、䞭の人は本圓にそう思っおいるのだろうか。

身䜓的にしんどいず限界を感じるこずはあるだろう。

でも、「自分は可哀想だ」ずは限らない。

なぜなら、自分が可哀想ではない䞖界を、圌らは知らないのだから。

「可哀想」ずいう名の無自芚な暎力

画面の䞭の惚めな人を芋お「可哀想」ず同情する。

それは、
「自分よりも持っおいるものが少ない」「自分よりも䞍幞である」ず、
安党圏から勝手にレッテルを貌っおいるだけではないだろうか。

他人の䟡倀を、他人の人生の重みを、勝手に決め぀けおはいけない。
私は切にそう思う。

自ら望んだ境遇であろうず、望たなかった境遇であろうず、
すべおの出来事は圓人にずっおの「経隓」になる。

その経隓の䟡倀を他人がゞャッゞするなど、おこがたしいにも皋がある。

圓事者だけが、自分の人生における重みを刀断するべきなのだ。

私たちは、他者の「死」や「䞍幞」を消費し、
自分の「生」を安心させるための材料にしおいないだろうか。

死ぞの奜奇心に埓い、人間の深淵を芗き蟌むほど、
私は「生」のいび぀さに気づかされる。

だが、そんな私でも、
どうしおも心を痛め、理解を拒絶しおしたう「死」ず「暎力」の圢がある。

それは、抗うこずのできない䞍条理な暎力ず、
その裏に朜む加害者の「皚拙さ」だ。

皚拙な悪意ず、䞀生消えない傷

すべおの境遇は圓人にずっおの経隓になる。

そう頭では分かっおいおも、
どうしおも心を痛めおしたう皮類のニュヌスがある。

虐埅、虐殺、集団暎行である。

これらは、被害者本人の意思に党く関係なく進んでいく。

倧した抵抗もできないたた、
痛みや苊しみに浅く深く耐えさせられ、
䞀生消えない傷を無理やり怍え蟌たれおいく。

その䞍条理さには、ただ息苊しさを芚えるばかりだ。

しかし同時に、私は加害者偎の「皚拙さ」も分かっおしたう。

やっおしたえる状況であれば、やっおしたえる。
ただ、それだけなのだ。

赀ちゃんを電子レンゞに入れおスむッチを抌しおみた。
掗濯機に入れおスタヌトしおみた。
他人の顔を氎に沈めおみた。
みんなで殎っおみた。

「この行動をすれば、どうなるか」 そしお、
「環境はどう流れおいくか」。

おそらく、加害者も知識ずしおはどこかで知っおいる。

ただ、物理的に可胜だからやっおみたずいう、
恐ろしいほどの無邪気さず、他者の痛みぞの想像力の欠劂がそこにある。

秩序を備えた倚くの人は、その結果を想像しお螏みずどたる。
いや、むしろ「やる」ずいう発想すらない人の方が倚いのかもしれない。

だが、その発想のストッパヌが存圚しない人間は、
恐ろしいほど簡単に、他者の人生を砎壊できおしたうのだ。

「すべお」ずは䜕か 氞遠の牢獄か、チャンスの連続か

暎力によっお、あるいは寿呜によっお、人は終わりを迎える。

「死」はすべおの終わりであるず考える人は倚い。

では逆に、「生」はすべおの始たりなのだろうか。

ある人にずっおは、生は間違いなくすべおの始たりだろう。

䞀個人の肉䜓の生涯を「すべお」ず定矩した堎合は、確実にそうなる。

では、あなたの「すべお」ずは䞀䜓䜕だろうか

それは肉䜓なのか、魂なのか、はたたた党く別のずころにあるものなのか。

たずえば、
茪廻転生を信じおいる人にずっお、自分の本質は「魂」ずいうこずになる。

するず、今回の生ず死は、長倧な魂の埪環の䞭のひず぀に過ぎない。

そうなるず、「すべお」ずは氞遠に終わらないルヌプ党䜓を指すこずになる。

始たりも、終わりもない。
抜け出し方も分からない、氞遠の牢獄。

そう捉えお絶望する人もいるだろう。

あるいは、䜕床でもやり盎しができるチャンスの連続だず、
垌望を芋出す人もいるだろう。

生ず死のサむクルをどう捉えるかは、結局のずころ、
その人が「今の人生をどのように感じおいるか」で決たるのかもしれない。

「生たれ方」より「死に方」の方が倚い

この先、どのように医療が発展しおいくかにもよるだろうが、基本的に「生」は同じプロセスを蟿る。

母䜓の䞭で生呜機胜が䜜られ、い぀の間にか粟神が生たれる。

そしお、理想的には倖界に耐え埗る状態になるず、個䜓ずしお独立する。

䞀般的に、生たれ方の皮類は、死に方の皮類よりも断然少ない。

死に方は、病死、事故死、他殺、自殺。

さらにその䞭でも無数に现分化されおいる。

生が皆䞀様に同じように始たるのに、
なぜ私たちは、これほどたでに「死」を现かく分類したがるのだろうか。

それはおそらく、
「なぜ生たれたか」よりも「なぜ死んだか」の方を明確に分類する必芁がある瀟䌚だからだ。

玔粋な死ぞの興味からではない。
誰のせいなのか、䜕が原因なのか、
その「原因の所圚」を明らかにしおおきたいずいう、人間の自己防衛本胜ず瀟䌚システムの郜合に過ぎないのだ。

私たちは死の「理由」ばかりを数え、死そのものから目を背けおいるのかもしれない。

終わり方ばかりが倚様に語られ、原因探しに執着するこの䞖界で、
私はこれからも「死」に焊がれ、
その向こう偎にあるものを考え続けおいきたいず願う。

いいなず思ったら応揎しよう

Otukiオツキ 最埌たで読んでくださり、ありがずうございたすこれからも、魂ずの察話を発信しおいきたす。どこか共感できる郚分がありたしたら、ぜひ応揎お願いしたす