モカの安い火曜日
暗い店内、ほのかに灯る照明が小さく波を打つコーヒーの表面で揺れていた。
小さな地震だ。窓の外の雑踏は誰もが手中の液晶を見つめている。何もないところで躓いた男は、少し歩幅を広げて歩き出した。それは地震のせいではない。地震は誰にも影響を与えていない。あれを察知できた人間はどれほどいるのか。テーブルに空いた小さな穴を数分間眺められる、私のような人間にしか気づけないだろう。
味気ない日々を送る少年に突如突きつけられる
「このロボットに乗れるのは君しかいないんだ」。
もしこの地震が私にとってのそれであったら。そう思いながら穴を紙屑で埋める。
「お姉さん、注文決まった?」
オーダーの保留をしていたことを忘れていた。彼女の声は冷淡であり、急かされているように聞こえた。「コーヒー」の4文字をかろうじて絞り出す。
「.....今日はモカが安くなってる日だけど、どう?」
コーヒーという商品名はなかった。
「じゃあそれで」
さっきの地震が何かしらのメッセージだったらどうしよう。そんなわけないじゃん、と一蹴してきた物事の中に、私の人生の岐路は潜んでいたのかもしれない。安易に切り捨てることがどれほど勿体ないことなのか、全くもって理解はしていない。そしていつか理解してしまって、俯瞰で見た私が過った道を歩んでいたとしたら、きっと耐え難い後悔がお腹を中心に渦巻いていくのだと思う。
後悔はウズウズ。ウズウズは嫌だ。
だが、それはまた今度の機会である。なぜなら私は気づいてしまっているから。奴らのメッセージを。進むべき道があることを。心が晴れ渡るような清々しさを。
窓の外の雑踏に目を向けると、各々が別の服を着ている。それがとても愛くるしいことのように思えた。
私は機嫌が良いのかもしれない。
「お待たせしました、まずはそのまま飲んでみてね」
先ほどの店員の声が、優しかったことに今さら気づく。“なので”私は言われた通り、口をつける。
美味しい。
美味しいと思った。
モカってなに。
はあ、しかし、奴らは私に何を伝えたい。情報量が少なすぎる。選ばれし者だとしても能力値が綺麗な円形とは限らない。奴らの人事部が欠陥した想像力を働かせているせいで、被害を被っている。私への被害は世界への被害である。世界が私を一刻も早く求めていると言うのに、その手立てがはっきりしていないとはどういうことだ。ああ、ムカムカする。
再びモカを啜ると、私は貧乏ゆすりをしていたことに気づいた。軋みのない、がっちりとした椅子で良かったと思う。
私は赤面していた。
足を揺らし、キシキシと椅子を鳴らす女。想像の中で滑稽な自分を見て、恥ずかしくなったのだ。
赤面した訳は、それだけではない。
私だけがメッセージに気づいただなんて、なんとも視野狭窄で思い上がった考えであることに気づいたのだ。
試されているのだ。これは試験なんだ。
人類の、選別なんだ。
そう、私にはまだ世界を救う権利など与えられていなかった。召集の手紙を送る手前、住所は把握されている段階なのだ。
私はとんだ思い違いをしているイタい女だ。
グズグズしても仕方がない。
私はこのメッセージを直ちに解読しなければならない。そして奴らへの悪態を謝罪するのだ。物語は今日日、現時刻にて始まった。
息をついて、まずは店内を見渡す。手がかりはいつだって“私の外”にある。
おばさん。この店を一人で回している店員だ。彼女は「今日はモカが安くなってるよ」と新規のお客さんに言って回っている。機械的な操作のように思われた。動きもなんだかぎこちなくて、関節を曲げるたびに、引っ掛かりが動きを止めるのではないかと心配になる。
私にかけた声色はあんなにも優しかったのに、こうして聞いてみると金属的に冷たい。
モカヤスクナッテルヨ
カウンター席の背広を着たおじさん。アイスコーヒーをストローを使わずに飲んでいる。今にも喉越しが聞こえてきそうな飲みっぷりだ。何もそんなのに急がなくてもいいのに。だが、きっと急いでいる意味はないのだろう。急いでいるように見えてしまっただけであって、彼は紆余曲折あり、アイスコーヒーをゴキュゴキュ喉に通す生き物になれたんだ。それが彼の望んだ姿であったらいいなと思う。
スーツ姿の男女4人。何やら理解し難い会話が繰り広がれていて「シンガポール」という単語のみが耳を潜り抜けて脳内に届いた。
彼らが私のテーブルに座ったとて、このテーブルの穴に気を留めることはないのだろう。
紙屑を詰めて綺麗に塞がったそれを見る。
シンガポールがなんだ、気を衒いやがって、男女4人で小難しい話を繰り広げるのがそれほど楽しいのか。おい女、笑うな。お前も私と同じように、男の話など微塵も理解できていないのだろう。笑うだけなら私にもできる。上手く逃げ回ることしか頭にないのだな。それじゃあダメだ。君には愛嬌があるよ、でもダメだ。愛嬌は受け入れる側の存在に頼ってばっかりだ。そうだ。お前を跳ね除けたそのついでに足をかけてやろう。あははは、とお前みたいな笑い声を向けてやる。
女の笑い声が聞こえる。
決して、私には向けられていなかった。
息をついて、カップを手に取る。いつの間にかに冷めているそれは案外、平静を取り戻すものだった。
前髪の長いお姉さんに目をやる。3秒に一度、前髪を左に流していた。彼女は不安そうに、あたりをキョロキョロ見渡している。
試験者だ。
確証はないけど確信はある。彼女もまたあの微かなメッセージを感じ取ってしまったこちら側の人間だ。
目が合う。彼女は気づかれてしまった、と言わんばかりの表情を浮かべ、体裁を保つようにカップを手に取った。
私は微笑みを彼女に向ける。
「貴方だけじゃないのよ」の意は、きっと彼女の背中を突き抜けるような戦慄を与えていた。
ここは試験場なのかもしれない。
だって、人間があの店員のように機械的であるわけもない。アイスコーヒーのおじさんも私の思考を妨げる試練の一環に違いない。アイスコーヒーはストローで静かに飲むものだし、そんなに喉が乾いているのならお冷を飲めばいいのだ。シンガポールとしか聞き取れない会話なんて存在しない。彼らは「シンガポール」としか言っていなかったのではないか。シンガポール、発音の微細な強弱によって意思を疎通する、新たな言語体系を試みている集団、という設定なのだ。
この店内において私と彼女とが、演者ではない、純真な人間であった。
早まる鼓動が指し示すのは、同胞の彼女。私は再び微笑みを向ける。
「協力しましょう」の意である。きっとそれは頬を撫でるような安心を与えていたであろう。
しかし、彼女は我知らずな顔で便所の方向を見ていた。
お姉さん、もうわかっているくせに、白々しい。
彼女の視点の先を眺める。何も面白いものなんてない。少し黄ばんだハンドドライヤーに風情を感じる程度だ。
便所から背の高い女性が出てきて、ドアを開ける勢いが余ったからか、彼女は驚いた表情を浮かべていた。
手を洗っているがソープを使っていない。
ブオーーンと、
ハンドドライヤーの音は狭い店内でよく目立ち、彼女は5秒程度で手を引いた。
きっと、目立つのが嫌いなのだろう。
なんの面白みもない、演出だ。
試験者の彼女に視点を戻す。
私は目を疑った。
彼女は大きい彼女と入れ変わるように便所に入った。急いでいる様子だった。
違う。
鍵を閉める音がカチリと響く。湿っぽい音だ。
ねえ、違う。違うでしょう。あなたは試験者でしょう。
私は急激に力が抜けていく。聴覚というものは無意識的に制御されているものらしい。今の私にはよくわかる。
笑い声が聞こえて、それはとても大きな笑い声のように感じた。
「もう18時なりますね」 「マーライオン?」 「やっぱ二つで」 「コーヒーの違いさ、分かる?」 「うわ、雨降るらしいよ」 「ちょっとだけ見たよ」「暑いって言わないでくださいよ」 「私もシンガポール行ってみたいかも」 「僕もわからないや」 「お冷ください」 「気持ちの問題なんだからさ」「コンビニの傘高いじゃないですか」「一人で行くのは怖くない?」 「チリクラブ、うん、めっちゃ美味しかった」
「すみませーん」 「少々お待ちくださーい」
「そろそろ帰りますか」
「何も違わないよ」
ブオーーーーーーン
彼女はよく目立つ人間であって、ただそれだけだった。
テーブル上を整え、白のトートバッグを肩に下げ、彼女はレジに並ぶ。
あの女の笑い声が聞こえる。
愛嬌のある、可愛らしい声だと思った。
紙屑で詰まった小さな穴は、深い木の色をしたテーブルに浮いている。穴の空いたテーブルはさらに不恰好であった。不恰好なのはテーブルか紙屑なのか。詰められている格好だって、不恰好だと思う。問題なのは見えている範囲だから、今回はテーブルが不恰好だ。紙屑の気持ちも拾ってやれなくはないけど、あいにく詰めたのは私なのだからそんな権利は、はなからない。
「お姉さん、閉店10分前なの、ごめんね」
おばさん。彼女の声はやはり優しかった。
私は彼女を見上げる。薄気味悪い笑顔を向けていて、黄色い歯は不思議と不快感を感じさせない。
「どうしたの?」
その口の開閉を見つめ、キラッと光るものが見える。
銀歯。
私は吹き出しそうになる。そうか、やっぱりおばさん、あなたはロボットなのね。塗装が剥がれてるわよ。
「モカ、安くなってますか?」
モカヤスクナッテルヨ
私の笑い声は狭い店内でよく目立った。