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祈りの跡_#3_呼ばれない地名

    地名は、土地につけられた名前です。

    そう書くと、ごく当たり前のことのように思えます。

    地図に載っている名前。
    住所として使われる名前。
    バス停や交差点に残る名前。
    古い資料の中にだけ出てくる名前。

    土地には、いくつもの名前があります。

    地方を取材していると、地図には載っているのに、その土地の人が日常ではほとんど口にしない名前に出会うことがあります。

    はじめは、単に古い呼び名が使われなくなっただけだと思っていました。

    集落が合併する。
    町名が変わる。
    学校がなくなる。
    道が新しくなる。
    若い人が減る。
    昔の田畑や山の呼び名を知る人が少なくなる。

    そうした理由で、地名が使われなくなることは珍しくありません。

    でも、いくつかの土地で話を聞いているうちに、
    忘れられた名前と、呼ばれなくなった名前は、
    少し違うのではないかと思うようになりました。

    ある山沿いの地域を訪ねたときのことです。

    そのときの取材目的は、廃校になった小学校を地域の交流施設として活用している取り組みについてでした。

    校舎は木造ではありませんでしたが、古い窓枠や低い廊下、使われなくなった昇降口には、学校だった頃の気配が残っていました。

    教室の一部は地域の集会所として使われ、
    別の教室には古い農具や写真が展示されていました。

    地元の人たちが持ち寄った写真の中に、昔の地図がありました。

    手書きの簡単な地図です。

    川があり、橋があり、学校があり、神社があり、
    いくつかの小さな字が書き込まれていました。
    今の地図では見かけない名前も多くありました。

    その中に、一つだけ気になる地名がありました。

    文字としては、特に変わったものではありません。
    ただ、その場所だけ、地図の端に小さく書かれていました。

    現在の道路からは少し外れた、沢筋の奥にあたる場所でした。

    展示の説明をしてくれた男性に、その地名について尋ねました。
    「ああ、昔の呼び方ですね」
    「今は使わないんですか」
    「使わないですね。そっちの方、とは言いますけど」
    「地名としては残っていないんですか」
    「台帳とかにはあるかもしれません。けど、普段は言わないです」

    普段は言わない。
    その言い方が少し気になりました。
    忘れているわけではなさそうでした。

    古い名前として知ってはいる。
    でも、日常の中では使わない。

    「何か理由があるんですか」
    男性は少し笑って答えました。
    「理由というほどのことはないです。今はあっちに行く人もおらんし」
    「昔は人が住んでいたんですか」
    「家があったとは聞いてます。田もあったんやないかな」
    「今は何もないんですか」
    「何もないですね。山です」

    その会話は、それで終わりました。
    強く避けられたわけではありません。
    秘密にしている、というほどでもない。
    ただ、話がそれ以上広がらない感じがありました。

    取材のあと、別の人にも同じ地名について聞きました。
    年配の女性は、名前を聞くと少し考えてからこう答えてくれました。
    「今はそうは呼ばんね」
    「昔はそう呼んでいたんですか」
    「呼んどった人もおったと思う」
    「何かあった場所なんですか」
    「何か、というほどではないけど」

    そこで一度言葉を切ってから、
    「まあ、あんまり行くところではなかったね」
    と言いました。

    「危ない場所だったんですか」
    「沢があるからね。雨のあとは危ない」
    「それだけですか」
    「それだけと言えば、それだけ」

    そう言って、女性は話題を変えました。

    このような反応は、取材の中で何度かありました。
    拒絶ではありません。
    秘密にしている、というほどでもない。
    ただ、その名前を口にしたあと、話が長く続かない。
    そこには、忘れられたものとは違う静けさがありました。

    別の日に、地域の資料を少し調べていると、
    古い字名の一覧には、その地名が残っていました。
    戦前の地図にも、同じ名前がありました。

    さらに古い記録を追うと、その沢筋の近くで、
    明治期に小さな水害があったことが分かりました。

    山から水が出て、数軒の家が被害を受けたとだけ記されています。
    死者が出たのかどうかは、はっきりしません。
    また、別の資料には、同じ地域で流行病があったという記述もありました。

    その地名と直接関係があるのかは分かりません。
    私は、そこに何かを結びつけようとしすぎているのかもしれないと思いました。

    古い地名。
    沢筋。
    水害。
    使われなくなった呼び名。

    それらを並べれば、いかにも意味がありそうに見えます。
    けれど、地方の古い資料には、そうした断片はいくらでもあります。

    すべてを一つの話にまとめてしまうのは、危ういことです。
    それでも、その地名が日常の中で呼ばれなくなっていることだけは、やはり気になりました。

    人は、名前のないものを長く見ていられません。
    何か分からないものがあると、とりあえず名前をつけようとします。
    場所でも、噂でも、病でも、流行でも、怪異でも同じです。
    名前がつけば、それは少し扱いやすくなります。

    「ああ、あれのことか」と言えるようになる。
    人に話せるようになる。
    地図に書けるようになる。
    記録に残せるようになる。
    検索できるようになる。

    名前をつけることは、理解することではありません。
    でも、理解したことにするための、一番手軽な方法ではあります。

    だからこそ、名前があるのに呼ばれない場所があることが、私には気になりました。

    その土地には、名前がなかったわけではありません。
    むしろ、名前は残っていました。
    古い地図にも、資料にも、台帳にも、おそらく残っている。
    でも、日常の中では使われていない。

    そこへ行く必要がなくなったから、という理由だけでは説明しきれないような距離がありました。

    「そっちの方」
    「あの奥」
    「沢の向こう」
    「昔のところ」

    そういう言い換えだけが使われていました。

    ある男性は、その場所について、
    「あの名前は、今は使わん方が通じる」と言いました。
    「名前で呼ぶよりですか」
    「名前で言うても、若い人は分からんし。年寄りは、分かる人は分かるけど、わざわざ言わんな」
    「言わない理由はあるんですか」
    「理由というほどではない。言わんでも分かるから」

    言わなくても分かる。
    それは、名前が不要になったということでもあります。
    しかし同時に、名前を避けることで成立している理解にも見えました。

    そこを指す言葉はある。
    けれど、その言葉を使わずに、そこを指している。

    私は、取材ノートに「名前を使わない地名」と書きました。
    あとから見返すと、少し変な言い方です。

    地名は使われるためにあるはずです。
    呼ばれ、示され、共有されるためにある。

    けれど、その場所については、名前があることよりも、
    名前を使わないことの方が重要に見えました。

    前回書いた社のことを思い出します。

    そこには社がある。
    でも、願い事をする場所ではない。
    上まで行ける。
    でも、行く必要がない。

    今回の地名も、それに少し似ていました。

    名前はある。
    でも、呼ぶ必要がない。

    それは、ただ忘れたということではなく、距離を保つための言い方だったのかもしれません。

    別の地域でも、似たようなことがありました。
    そこは海に近い集落でした。

    古い道の先に、小さな岬のような場所がありました。
    今は防波堤が整備され、昔の道はほとんど使われていません。

    地元の人は、その場所を「下」と呼んでいました。

    「下へ行く」
    「下の方」
    「下はもう行かん」

    地図を見ると、その場所には古い地名がありました。
    読み方もはっきりしています。
    しかし、話の中でその名前が出ることはほとんどありませんでした。

    一度だけ、こちらからその地名を口にしたとき、案内してくれた人が、
    「ああ、そういう名前やったね」と言いました。

    忘れていた、というより、思い出したくないものを思い出したような言い方でした。

    「今は使わないんですか」
    「使わんな。下で通じるから」
    「昔は何があった場所なんですか」
    「舟の関係やろうね。あと、流れ着くこともあったから」
    「流れ着く?」
    「まあ、いろいろ。昔の話やから」

    それ以上は聞きませんでした。

    その場所に何が流れ着いたのか。
    事故なのか、漂着物なのか、人なのか。

    はっきりとは分かりません。
    ただ、そこでも名前は使われていませんでした。
    正確な地名の代わりに、方向だけが残っていました。

    上。
    下。
    向こう。
    奥。
    沢の方。
    昔の場所。

    地方の聞き取りでは、こうした言い方に何度も出会います。

    もちろん、それは単に生活上の便利さでもあります。
    正式な地名より、「上」「下」「向こう」の方が通じることは多い。
    外から来た人間には分からなくても、その土地の人同士では十分に意味が通る。

    だから、それだけを特別なこととして扱うのは危ういと思います。
    けれど、すべてが便利さだけで説明できるわけでもありません。

    ある場所については、名前を知っている人がいても、あえて使われない。
    資料には残っていても、会話の中には出てこない。
    その名前を使わなくても困らない、というより、使わないことで何かの距離が保たれている。

    そういう場所があるように思いました。

    名前を呼ぶことは、対象との距離を縮めることでもあります。

    名前を知っている人は、その対象を他のものと区別できます。
    名前を呼べば、そこに意識を向けることができます。
    名前があるから、誰かに伝えることができます。

    逆に言えば、名前を呼ばなければ、少しだけ距離を置けます。

    「あそこ」
    「そっち」
    「昔の場所」

    そう呼ぶことで、対象をぼかす。
    はっきりと指ささない。
    輪郭を立てすぎない。

    それは、忘れることとは違うように思います。
    忘れたものは、もう指すことができません。
    でも、「あそこ」と言える場所は、忘れられてはいません。

    名前を呼ばないまま、そこにあることだけは共有されている。
    その状態が、少し不思議でした。

    最初に訪ねた山あいの地域で、私は後日、もう一度その地名について聞きました。
    別の集まりのあと、数人の年配の方が残っていたので、古い地図を見てもらいました。地図に書かれた地名を指さすと、
    一人が、「ああ、そこか」と言いました。
    別の人が、「今は誰も行かんやろ」と言いました。

    私は、どういう場所だったのかを尋ねました。

    すると、しばらく地図を見ていた一人が答えてくれました

    「昔は、子どもだけでは行くなと言われた」
    「危ないからですか」
    「危ないというのもある。沢があるし、雨が降ると道も悪い」
    「他にも理由があったんですか」
    「他というほどではないけど、まあ、行く用事がないところやった」
    「名前を使わないのは、そのせいですか」
    そう聞くと、その人は少し困ったような顔をしました。
    「名前を使わないというより、使うことがなくなったんやろうな」
    それから、別の人が小さく、
    「使わんでもええ名前もある」と言いました。

    私は聞き返しませんでした。

    その言葉は、はっきりした説明ではありません。
    むしろ、説明を避けるための言葉のようにも聞こえました。

    使わなくてもいい名前。
    使わない方がいい名前。
    使う必要がなくなった名前。

    その違いは、外から来た私には分かりません。
    でも、その地名が会話の中でほとんど出てこないことだけは確かでした。

    取材の帰り道、私はその沢筋へ続く道の入口まで行きました。

    舗装された道から外れ、細い道が山の方へ入っていました。
    道の脇には草が伸び、使われている様子はあまりありません。

    入口に立っても、特別なものは何も見えませんでした。

    祠があるわけでもない。
    石碑があるわけでもない。
    看板があるわけでもない。

    ただ、古い地図にはそこに名前があり、今の人たちはその名前をほとんど使わない。

    それだけです。

    それだけなのですが、名前があることと、呼ばれないことのあいだに、妙な空白があるように感じました。

    私はその地名を、取材ノートには書きました。

    書かなければ、あとで資料と照合できません。
    記録として残すには、名前が必要です。
    しかし、ノートに書いた瞬間、その場所は少しだけはっきりしました。

    地図の端にあった名前が、私のメモの中に移る。
    会話の中ではぼかされていた場所が、文字として固定される。

    そのことに、小さな引っかかりがありました。
    取材では、名前を書くことが基本です。

    人名。
    地名。
    施設名。
    出来事。
    日付。

    名前を正しく記録しなければ、記事にはなりません。
    名前を曖昧にすれば、読者に伝わりません。

    ただ、名前を正しく書くことが、いつも正しいとは限らないかもしれない。その土地で呼ばれなくなっていた名前を、外から来た私が記録に戻す。
    それは、単に情報を補うことなのか。
    それとも、ぼかされていたものに、もう一度輪郭を与えることなのか。

    このときはまだ、そこまで深く考えていたわけではありません。

    ただ、名前というものが、思っていたよりも強い働きを持っていることだけは感じていました。

    名前があると、人は安心します。

    分からなかったものが、少し分かったような気になる。
    どこにも置けなかったものが、地図の上に置けるようになる。
    人に説明できるようになる。

    名前は、得体の知れないものを扱うための器です。
    そして、器に入れたものは、そこに残ります。

    前回の社では、私は「何を祀っているのか」を尋ねました。
    今回は、呼ばれなくなっていた名前を、地図と資料の中から拾いました。
    どちらも取材としては自然なことです。

    ただ、それは同時にその土地の人があえて曖昧にしていた距離を、
    少しだけ詰める行為でもあったのだと思います。

    聞かないことで保たれていたものを聞く。
    呼ばないことで保たれていたものを、文字にする。

    振り返ると、この頃から、そういう境目に触れ始めていたのだと思います。

    その地名がなぜ呼ばれなくなったのか、結局は分かりませんでした。

    水害の記録と関係があるのか。
    昔の家や田畑と関係があるのか。
    単に人が行かなくなっただけなのか。
    それとも、別の理由があったのか。

    どれも確かなことは言えません。

    ただ、その名前を知っている人たちはいました。
    そして、その人たちは日常の中でその名前をほとんど使っていませんでした。

    忘れられた名前なのか。
    呼ばれなくなった名前なのか。

    その違いは、最後まで分かりませんでした。

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    フリーライター。地域文化、暮らし、観光、地場産業、まちづくりなどを中心に取材・執筆しています。 地方紙、Webメディア、広報誌、自治体関連の冊子などで記事制作に携わってきました。

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