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小説 【汐鮮魚店】 第八話 灰汁

    朝、店に入った途端、ものすごい漬物臭がした。

     

    「くっっっっっさぁ!」

     

    澪は顔をしかめ、腕で鼻を塞ぎながら店内を見回す。

     

    「すまん。アラ樽出し忘れた」

     

    真壁もまた苦々しい顔をしながら、店の床へ消毒液を撒いていた。

     

    店の隅に置かれた青い樽が、じわじわ発酵している。

    「いやもう魚屋の匂いじゃないってこれ」


    外にはトラックが停まっている。

     

    今日はカマスが多い。

     

    仲買から「付き合ってくれ」と頼まれて、真壁がまとめて買ったのだ。

     

    氷の上へ細長い銀色が何本も並んでいる。

    背中は青く硬く、腹はまだ張っていた。

     

    口先が少し開き、尖った歯が覗いている。

    水を打つたび銀色がぴかっと光った。

     

    「今日カマスだらけぇ」

     

    奈緒が尾を揃えながら言う。

     

    「まぁ安かったし」

     

    真壁は煙草をくわえたまま発泡を覗き込む。

     

    その時、自動ドアが開く。

     

    「おぉーーーーー!!」

     

    宮田さんだった。

     

    発泡の前へしゃがみ込む。

     

    カマスを一本持ち上げた。

    身体がぴんと反る。

     

    「いいなぁ!これ」

     

    宮田さんの声が少し上がる。

     

    腹を軽く押す。

    すぐ戻る。

     

    「脂あるぞぉ」

     

    「今日当たりっす」

     

    真壁が言う。

     

    「やっぱカマスだけ反応違いますね」

     

    「カマス嫌いな魚屋いねぇよ」

     

    宮田さんは嬉しそうに魚を戻した。

    その時、自動ドアがまた開く。

     

    琴葉だった。

     

    シフトではない。

     

    なのに普通に入ってくる。

     

    「おはようございます」

     

    誰も「なんでいるの?」とは聞かない。

     

    琴葉は店へ入るなり、店頭のカマスを見た。

     

    細長い銀色が、今日は明らかに多い。

     

    「絶対余るじゃないですか」

     

    真壁が煙草を外す。

     

    「まぁな」

     

    「このまま残ってダメになるより、新鮮なうちになんかした方がよくないです?」

     

    琴葉は少し考える。

     

    「炙ってほぐして、出汁茶漬けとかどうです?」

     

    奈緒が振り向く。

     

    「え、絶対おいしい」

     

    「大葉いっぱい入れたい」

    「みょうがも」

     

    話だけ急に盛り上がる。

     

    その横で、宮田さんがまたカマスを見ていた。

     

    「これ開きにしたら売れるぞぉ」

     

    宮田さんが言う。

     

    「何本かやってやろうか?」

     

    真壁が顔を上げる。

     

    「ほんとすか?」

     

    「カマスは開きだよやっぱ」

     

    宮田さんはもう手を洗っていた。

     

    「助かります」

     

    気づけば店の奥に、包丁を持った人間がまた一人増えていた。

     

    鍋へ火が入る。

     

    酒。

    醤油。

    みりん。

     

    甘い匂いが、魚の匂いへ混ざっていく。

     

    煮立ちはじめた頃、表面へ白い泡が浮いてきた。

    琴葉は穴あきお玉で静かに掬う。

     

    奈緒が横から鍋を覗く。

     

    「灰汁って、全部取るもんなのぉ?」

     

    「んー」

     

    琴葉は少し考える。

     

    「取りすぎると、なんか味薄くなるんですよね」

     

    白く濁った泡が、お玉の中で揺れている。

     

    「雑味って、ちょっとくらい残ってた方がおいしい時あるし」

     

    奈緒は「へぇ〜」と灰汁から視線を放さず言った。

      

    その横で、澪は黙々とイサキを捌いていた。

     

    まな板へ腹を打つ音。

    包丁の擦れる音。

    換気扇。

    氷の溶ける水。

    しゃっ。

     

    包丁を入れながら、なんとなく外を見る。

     

    斜め向かいの印鑑屋の入り口から、蓮見さんがこちらを見ていた。

    「また見てる…」

    白髪にチェックのポロシャツ。

    半分開いたシャッター。
    日焼けした「実印承ります」の看板。

    魚ではなく、店ごと見ている感じだった。

     

    澪はふと思う。

     

    蓮見さんは、汐鮮魚店から見える景色を知らない。

     

    きっと、自分たちも。

     

    印鑑屋の奥から見える商店街を知らない。

     

    毎日同じ場所にいるのに、立つ場所が違うだけで、見えているものはたぶん全然違う。

     

    それが何なのかは、うまくわからなかった。

    でもきっと、大事なことのような気がした。


    その時、店の外を小さな柴犬が歩いていった。

     

    近所の大学生、渚だった。

     

    リードを短く持ちながら、商店街をゆっくり歩いている。

     

    「ムクちゃん」

     

    澪が店先へ出る。

     

    犬は澪を見る。でも今日は近づいてこない。

    防水エプロンが怖いみたいだった。
    エプロンの素材感を、犬はちょっと警戒している。

    普段エプロンをしていない時は、勢いよく足へ突っ込んでくるくせに。

    「なんで今日だめなん」

    澪がしゃがむ。

     

    ムクは少しだけ尻尾を振って、そのまま渚の足元へ戻った。

    「魚屋モード怖いんじゃないですか」

    渚が言う。

    「そんな形態ある?」

    澪は後ろ髪引かれながらも諦めて店へ戻る。

     

    その時、自動ドアがしゃっと開いた。

     

    視察おじだった。

     

    今日も何も買わず、店を一周する。

     

    魚を見る。

    氷を見る。

    鍋を見る。

    琴葉を見る。

    灰汁を見る。

     

    そして、小さく言った。

     

    「いい匂いだねぇ」

     

    全員、止まる。

     

    「喋った」

     

    澪が言う。

     

    視察おじはそれだけ言って帰っていった。

     

    「誰なんあの人」

     

    琴葉が笑う。

     

    「魚の妖精」

     

    奈緒が言う。

     

    「妖精にしてはデカすぎる」

    店の奥で琴葉が吹き出す。

    真壁が煙草へ火をつけ直す。

    そして煙を吐いた。

    「終わんねぇな今日」

    鍋はまだ灰汁を浮かせながらぐつぐつ鳴っていた。


     
     
    魚を捌く音と夜の商店街の匂いが好き そこで生きる人達の、名前のつかない感情を小説にしています うまく生きられないまま続いていく生活の記録 『汐鮮魚店』連載中

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