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手間はかけないが手は抜いていない。

3ヶ月前に投稿した記事は、改めて読むと歯切れが悪くてモヤモヤしている。

ものぐさの黒帯(わたし)は我が家の食事情に緩急をつけながら向き合い、夏を乗り越えて秋を迎えた。思考の整理が落ち着いたのだ。


台所に立つ。
何を作るか考える。
食材を選ぶ。
鍋、フライパンを持つ。

苦手だったゴーヤがショートパスタと友好関係を築くとは。
テキトー99%がおいしくできて驚いた。


わたしたちが作った料理の結果に「手抜き」は存在するのだろうか。

作り手が内心「ちょっと手抜きかな?」と思うのは良しとして、もし食べ手の「手抜き」発言があるとしたらどうにもやりきれない。


里芋と人参の塩麹炊き込みご飯
シンプル以外の言葉が出ない静寂を感じる。

味の良し悪しは嗜好の相違、知識とテクニックの未熟問題があるので、そこは一意見として伝えてくれたらいい話である。

手抜き?手を抜いたら何も作れやしない。


すき焼き風にしようと思った牛肉は、結局牛丼になる。
滅多に食べない牛肉をガツンと味わうには食材を減らす。


​手間を減らす工夫は知恵であり、積み重ねた経験と判断に他ならないから、「手抜き」という雑な言葉で片づけられるのが引っかかる。

一方で「作らせてもらっている」という被害者意識は、解釈次第では卑下が過ぎた傲慢に聞こえる。


上記の牛肉と一緒に使えなかった哀愁。
翌日、焼き豆腐をさらに焼きつける暴挙に出て勝利した。


「作ってやってる」感情のマウントも「作らせてもらっている」歪みも極端だから、食卓をはさむ人間同士の距離感への配慮は必要だと思う。


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