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Boleh Boleh (ボレボレ)


マレーシアで知った、言葉にしない優しさ


夕方五時ちょうど、修理工は工具を置いて帰っていった。

トイレの床は、水浸しのままだった。
便器は外れ、作業は明らかに途中だった。

驚いたのは、その時間の正確さだった。
彼は、五時という時刻を、一秒たりとも逃さなかった。
壁の時計が五時を指すのとほとんど同時に、彼の手は止まっていた。
これほど時間に忠実な人を、私は日本でもあまり見たことがない。

ただ、彼が守ったのは、工事を終わらせる時間ではなかった。

自分が、帰る時間だった。

水が床を濡らしていようが、
便器が外れたままだろうが、五時は五時だった。
彼の中で、その区切りは、
我が家のトイレの惨状より、はるかに揺るぎないものだったらしい。


「ボレボレ」

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帰り際、彼はそう言って手を振った。
できます、できます。明日には終わります。
声は明るく、悪びれた様子は微塵もなかった。

その晩、我が家のトイレは、二つから一つに減った。

家族は、もう一つのトイレを代わる代わる使った。
夜中に廊下を歩く足音を聞きながら、私は日本の暮らしを思い出していた。

日本なら、こうはならなかった。

水を出したまま帰る職人は、まずいない。
終わらないなら、終わらないと連絡が来る。
「本日中に必ず」と言われれば、たいてい本当に本日中に終わる。

それは、当たり前ではない。

世界に出て、私はそれを知った。


翌日、しかも彼は遅れてきた


翌朝、彼は約束の時間に現れなかった。

九時に来ると言っていた。時計は十時を回り、十一時に近づいていた。

ドアのチャイムが鳴った。
あの独特な、間延びした調子で返ってきた。

「ボレボレ」
できます、できます。

結局、彼が現れたのは昼近くだった。

私は、日本との違いに少し混乱していた。
昨日、五時をきっちり守った男だ。
時間に、あれほど正確だった男が、
なぜ今日は二時間以上も遅れてくるのか。
つじつまが、合わない気がした。

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けれど、
水浸しだった床を手際よく拭き、
外れていた便器をあっという間に
元通りにする彼の背中を見ているうちに、ふと、あることに気づいた。

彼は、時間にルーズなのではない。

守っている時間の、種類が違うのだ。

昨日の五時は、自分の生活の区切りだった。
だから、守った。
今日の九時は、他人が決めた約束だった。
だから、流れの中でずれた。

彼の中には、時計とは別の、彼なりの秩序がある。
デタラメなのではなく、
私の知らない原理で、彼なりに正確なのだ。

そう思ったとき、
私は自分の中の「当たり前」が、静かに揺れているのを感じた。

ルーズなのは、本当に彼だったのだろうか。


なんとかなる国の人たち


マレーシアにいると、
日本では考えにくいことが、わりと普通に起きる。

待ち合わせに1時間遅れてきた友人は、悪びれずに笑う。
「今日は渋滞がすごくてさ」。
1時間分の説明としては、あまりに短い。

レストランで頼んだメニューが
「今日はない」と言われたのは、席に着いて三十分後だった。
最初に言ってくれれば別の店に行けたはずだが。

手続きをしようとすれば、担当者が昼休みで戻ってこない。
スーパーで列に並ぶ人たちは、どれだけ待たされようが、
スマホを見るか、隣の人と世間話をして
楽しそうに時間をやり過ごしている。
苛立っているのは、たいてい私だけだった。

天気予報も、あまり気にしていない。
グラブタクシーの運転手に「今日は雨が降る?」と聞いても、
「知らない」。
それで終わる。

半年ほどこの国で暮らして、ようやく分かった。

「ボレボレ」は、できるという約束ではない。
この国の、自然な呼吸のようなものだ。

最初は、なんていい加減な国だろうと思った。
でも、何度も肩透かしをくらううちに、少しずつ疑いはじめた。

いい加減なのは、本当に彼らのほうだろうか?

几帳面に腹を立て、几帳面に疲れていく。
その自分の律儀さこそ、
この国では、少しばかり不器用に見えるのかもしれなかった。

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なんとかする国の私


私は日本で、上場企業向けの営業を十年以上やってきた。
広告、医療、金融と畑を変えながら、
どの場所でも結果を求められ、結果を出してきた。

ミスをすれば、まず謝罪。次に原因分析。そして再発防止策。

この一連の流れを、私は長らく「誠実さ」だと信じて疑わなかった。

実際、それは日本社会の強さでもある。

電車が時間通りに来る。
荷物が予定通りに届く。
役所の書類がきちんと処理される。
レストランで頼んだものが、頼んだ通りに出てくる。
スーパーのレジでは、後ろの人を待たせない。

それは当たり前ではなかった。
世界に出ると、
日本の「ちゃんとしている」は、もはや一つの奇跡に近い。

日本人のきめ細やかさは、人を安心させる。
相手が困らないように先回りする。
ミスが起きないように確認する。
迷惑をかけないように準備する。

実際、多くのマレーシア人から、
「日本は躾が国中に行き届いている」と何度も褒められた。

日本には、「他人の時間を奪わない」という美しさもある。
それは、決して軽く扱っていいものではない。
私も、その文化に育てられた。

だからこそ、
マレーシアの「まあ、なんとかなる」が、
最初はどうしてもついていけなかった。

ただ、
あの修理工のことを思い返すたびに、
私はひとつの問いに引っかかる。

日本人は、終わるまで帰らない。
だから、しばしば自分の時間を失う。
彼は、五時になったら帰る。
だから、家庭やプライベートな時間を大切にできているのだろう。

どちらも、何かに正確で、どちらも、何かにルーズだった。

ただ、守るものの順番が、正反対だっただけなのだ。

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誰も、急いでいない


マレーシアで暮らしはじめて、意外なことに気づいた。

せっかちなのは、彼らではなく、私のほうだった。

この国では、走っている人をほとんど見ない。
駅の階段を駆け上がる人もいなければ、
閉まりかけたドアに滑り込む人もいない。
信号が変わっても、誰も慌てない。
列が進まなくても、苛立っているのは、たいてい私だけだ。

みんな、どこか、ゆっくり歩いている。

時間を、それほど意識していないのかもしれない。
あるいは、意識しないことを、どこかで選んでいるのかもしれない。

遅刻しても、彼らは謝らない。
そもそも遅刻という観念が、ほとんどない。
まるで天気の話でもするかのような軽さで、
「渋滞だったので」と言って、それで終わる。
そして次もまた、同じように遅れる。
実際は、遅れてると思っているわけではなさそうのだが。

日本にいた頃の私なら、
その一言に、誠実さの不足を感じ取っていただろう。

でも、彼らを見ているうちに、ひとつの違いに気づいた。

彼らは謝る。でも、引きずらない。
私は謝る。そして、自分を責め続ける。

この差は、思っていた以上に大きかった。

日本では、反省する人は誠実に見える。
深く悩む人は、責任感があるように見える。
自分を責める人は、ちゃんと向き合っているように見える。

でも、その反省は本当に必要だったのだろうか。

トイレの工事が遅れたこと。
渋滞で予定が狂ったこと。
雨で外出がつぶれたこと。
担当者が戻ってこないこと。

それらを気に病んだところで、現実は一ミリも早く進まない。

なのに私は、
コントロールできないことにまで、律儀に責任を感じていた。

反省とは、本来、次に活かすためのものだ。
けれど、次に活かせないことまで反省しはじめると、
それはもう改善ではない。

静かな、自傷行為になる。

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言葉にしなくても、伝わる国


あの修理工と、私はほとんど言葉が通じなかった。

彼のマレー語も、私の英語も、途中で行き止まりになる。
それでも、水浸しの床は乾き、便器は元通りになった。

考えてみれば、不思議なことだった。
言葉が通じないのに、必要なことは、なぜか伝わっている。

この国で暮らしていると、そういう瞬間に、何度も出会う。

道に迷って、
ただ地図を見て立ち尽くしていただけなのに、
通りすがりの人が近づいてきて、
聞く前から行き先を察したように指をさす。

荷物を抱えて階段の前で立ち止まっていると、
誰かがすっと下から支えてくれる。
頼んでいない。目も合わせていない。

子どもがぐずりはじめると、
隣に座っていた見知らぬおばさんが、
当たり前のようにあやしはじめる。

まるで、
こちらが口を開く前に、
相手の中の何かが先に動いているようだった。

最初は、テレパシーでもあるのかと思った。

けれど、
あの修理工のことを思い出して、腑に落ちた。
彼らは、言われた時間ではなく、自分の秩序で動く人たちだった。
だとすれば、言われた言葉ではなく、
目の前の必要で動くのも、同じことなのだ。

指示される前に、察して動く。
説明される前に、手が出る。

彼らの親切は、言葉の外側にある。

日本の優しさは、時間通りに届く宅配便のようだ。
間違いがなく、丁寧で、安心できる。
伝票があり、記録が残り、こちらも礼を返せる。

マレーシアの優しさは、伝票のない贈り物のようだ。
いつ来るか分からない。お返しのしようもない。
けれど、必要なときに、ふいに差し出されている。

どちらの優しさにも、私は救われてきた。

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気にしないことが、生きる技術になる国


マレーシアには、
マレー系、中華系、インド系、
そのほか多くの民族が、同じ国で暮らしている。

宗教も、
イスラム教、仏教、ヒンドゥー教、キリスト教とさまざまだ。

隣人の祝日が違う。
食べていいものと悪いものが違う。
祈る時間も違う。休む曜日すら違う。

この国で日常を回すには、
「細かいことを気にしない」ことが、
単なる性格ではなく、生きる技術になる。

遅刻を許せない社会は、
遅刻をしない人だけの社会でしか成立しない。
背景がばらばらなこの国では、
「まあ、なんとかなる」で、互いを許し合うしかない。

悪びれない態度の正体は、単なる怠慢ではなかった。
多民族国家を回すための、集団的な処世術でもあったのだ。

言われる前に察して手を貸すのも、たぶん同じ根から来ている。
言葉も、宗教も、前提も違う相手と暮らすには、
言語化される前の何かを、互いに読み合うしかなかったのだろう。

日本は、
同じ前提を共有することで精度を高めてきた国だと思う。

同じ時間を守る。
同じルールを守る。
同じ空気を読む。
同じ基準で迷惑を避ける。

だからこそ、日本の社会は美しく整っている。

一方で、
前提が違う人が混ざり合う場所では、精度よりも余白が必要になる。
マレーシアの寛容さは、その余白から生まれている。

日本は、人生のネジを締めてくれる国。
マレーシアは、締めすぎたネジを少しゆるめてくれる国。

私に必要だったのは、たぶん後者だった。

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お金の不安の正体は「孤独」


FP2級・AFPの資格を持ち、
これまで1,000世帯程の家計相談を受けてきた。

その私でさえ、
家族の収入の柱を失った月には、何度も眠れない夜があった。

会社員をやめる。営業をやめる。
主夫としてマレーシアで暮らす。娘の教育を海外で支える。

頭では「なんとかなる」と分かっていても、体はずっと反省を続けていた。この選択で良かったのか。娘に申し訳なくないか。
もっと安全な道が、あったのではないか。

私は、お金の不安を数字の問題だと思っていた。
収入。支出。貯蓄。投資。保険。教育費。老後資金……。

もちろん、それらは大切だ。
けれどマレーシアに暮らして、少し違う景色が見えるようになった。

お金の不安の正体は、残高の少なさだけではない。

「困ったときに、誰も助けてくれないかもしれない」
——その感覚が、不安を何倍にも膨らませる。

孤立した家計は、孤立した不安を生む。

マレーシアの人たちが気楽でいられるのは、
「困ったときに、誰かが助けてくれる」という体験を、
数えきれないほど重ねてきたからかもしれない。

彼らの楽観は、経験に裏打ちされた予測に近いのだ。

日本人が彼らほど気楽になれないのは、性格の問題だけではないと思う。
誰かに助けられた体験の総量が、単純に少ないのかもしれない。

人に迷惑をかけてはいけない。
その美徳は、日本を美しくしてきた。

でも同時に、多くの人を、孤独にしてきた。

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ちゃんとする力、ちゃんとしすぎない力


マレーシアのやり方を、そっくりそのまま真似する必要はない。
日本で「ボレボレ」を連発すれば、ただ信用を失うかもしれない。

私は、日本のきめ細やかさを捨てたいわけではない。

時間を守ること。
約束を大切にすること。
相手の負担を減らすこと。
見えないところまで丁寧に整えること。

それらは、日本人が世界に誇れる美しさだと思う。

ただ、
その美しさが自分を傷つけるほど強くなったとき、
人は少し立ち止まった方がいい。

「責任感」は大切だ。
でも、すべてを自分の責任にしなくていい。
一生分の反省を、今日の夜に背負わなくていい。
努力だけでは、どうにもならない日もある。

日本人は「なんとかする」力に長けている。
マレーシア人は「なんとかなる」を信じる力に長けている。

どちらが上でも、どちらが正しいわけでもない。

ちゃんとする力と、ちゃんとしすぎない力。
人生には、その両方が必要なのだと思う。

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教育移住でみつけた宝物


娘の教育のためにマレーシアへ来て、
私が本当に手に入れた一番の財産は、
語学力でも、学費の安さでもなかった。

——マレーシア人のように寛容でいられる、心の境界線だった。

この境界線を引けるようになると、
お金の不安も、子育ての不安も、
半分くらいは自分で作り出していた不安だったのだと気づく。

もちろん、人生は何もしなくても勝手にうまくいくわけではない。
準備はいる。計画もいる。お金の管理もいる。家族を守る覚悟もいる。

けれど、
それでも最後には、自分ではどうにもならない領域が残る。
天気。渋滞。景気。他人の機嫌。子どもの未来。人生の流れ。

そこまで自分で抱え込もうとすると、人は壊れる。

マレーシアの人たちは、
その境界線をわざわざ勉強しなくても、
この国の空気の中で、身につけている。

私は、頭の良さを測る物差しを、いくつか手にしてきた。
それでも、トイレの工事が一日遅れる程度のことで、
朝まで気に病んでいたのは、他ならぬ私自身だった。

知性は、考える力を与えてくれる。
けれど、考えることをやめる力までは、教えてくれない。

その「やめる力」だけは、
この国で、悪びれない人たちの背中を見ながら、
少しずつ盗むしかなかった。

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二つのトイレと、一つの気づき


あの修理工は、翌日、ちゃんとトイレを直してくれた。
水浸しだった床は乾き、
外れていた便器は、何事もなかったように元に戻った。

仕上がりは、悪くなかった。
少しだけ配管の位置が気になったが、水はきちんと流れた。

日本の職人なら、きっともっと美しく仕上げてくれただろう。
寸法も、水平も、隙間も、きっちり整っていたはずだ。

その美しさを、私は知っている。そして、今でも好きだ。

けれど、無事に流れるようになったトイレを見ながら、私はこうも思う。

完璧ではなくても、用を果たすものはある。
予定通りでなくても、最後には形になるものがある。
ちゃんとしていなくても、暮らしは続いていく。

私の完璧主義な性格を洗い正してくれるようだった

彼は、五時にきっちり帰る男だった。
翌日は、大幅に遅れてくる男だった。
言葉は、ほとんど通じなかった。

それでも、私の家のトイレは、直った。

彼には彼の時間があり、彼の秩序があり、
そして、言葉にしない優しさがあった。

ただ私が、それを知らず気づかなかっただけで。

日本は、人生のネジを締めてくれる。
マレーシアは、締めすぎたネジをゆるめてくれる。

どちらか一つでは、きっと足りない。

きちんと整える力と、少し崩れても笑える力。
その両方を持てたら、人はもう少し優しく生きられるのだと思う。


「ボレボレ」
できます、できます。


最初は腹立たしかったその言葉が、
今では少しだけ、祈りのように聞こえる。

なんとかする。でも、なんとかなる。

そのあいだで、
私は今日も、二つに戻ったトイレのある家で、暮らしている。

いつのまにか、
あの修理工とは、旧知の友人のように笑顔を交わすようになっていた。

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