なにか分かったようで。


哲学者フッサールの現象学で、「エポケー」という用語があります。

まず、語感がいいですよね。アホ可愛い感じで。

これは、この語感の通りに強いて表現するなら、

「わからないことを、わからないままにしておく」

という、平仮名の一文で足りる哲学的態度のことです。

厳密にいえば、世界が「存在する」「存在しない」という判断そのものをいったん括弧に入れ、経験がどう現れているのかを見ていく、ということです。

ただ、「思考停止」とはニュアンスが違います。
思考停止はそのまま、考えることを止める、ということです。
これは、すでにある前提や判断をそのまま受け入れてしまう、ということともいえます。

対してエポケーは、考えることをやめるのではなく、判断することをいったんやめる。という感じ。
そして、判断を保留したまま、観察を続けるということです。
つまり「まだ決めない」という姿勢です。

認知した現象を「存在する」と肯定するでもなく、
「存在しない」と否定するでもない。

ただ、世界について当然のように置いている前提を、いったん括弧に入れて、経験そのものを観察する。

これは僕、普通に日常生活でも大切なことだなと思うんですよね。

ラクはラクなんですよ、「あれはああで、これはこう」って、ワクを決めちゃうと。
それこそ思考停止ですが、でもある意味では省エネで、清々しいことですよね。
曖昧な物事で悩む必要がなくなりますからね。

でも、それは同時に、そのワクに自分の認知、思考も閉じ込めることと同じなんですよね。

エポケーは、物事に白黒はっきりつけたいタイプの人には、相当にキツいものです。

ふわふわして、不安定。どこにも錨を下ろせない。
産まれてから自然にひたすらに、「わからないものを、わかるようにしてきた」僕らは、これに相当なフラストレーションを感じます。

でも、そのフラストレーションの大きさを観察すると、僕らがこれまでいかに「わかる、わける」ということに依存していたか、「わかります」。

藤井風さんの「きらり」の歌詞に、

「なにか分かったようで
なにも分かってなくて
でもそれが分かって本当に良かった」

というものがあります。美しいですね。


僕らの自然に培われたマインドセット(経験、教育などにより形成される無意識の思考など)を否定する必要はないと思うんです。

そこに「エポケー」をひと匙。ふた匙。

分量は、お好みで。







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