
[Noiry]考え過ぎる人ショート② 鍵、閉めたっけ
Noiry(ノワリー)
noir+story、ノワのショートストーリー。
「考えすぎる人ショート」
異常に考えすぎる人の日常を、面白おかしく、ちょっと書いてみたいと思った。
考えすぎるショート② 鍵、閉めたっけ
家を出て、五分。
駅のホームに立った瞬間、それはやってくる。
——鍵、閉めたっけ。
来た。今日も来た。さっきまで完全に無だった脳内に、その一文が雷のように落ちてくる。電車を待つ列に並んだまま、わたしの思考は一瞬で鍵のことだけになる。
落ち着け。落ち着くんだ。まず、自分を信じよう。
毎朝あれだけきっちり戸締まりをしている人間が、よりによって今日にかぎって閉め忘れるなんて、確率的にありえない。わたしは閉めた。きっと閉めた。たぶん閉めた。という具合に語尾がだんだん弱くなっていくのを、必死に押さえつける。信じよう。わたしはわたしを信じる。
そう言い聞かせている時点で、まったく信じていない。
本当に信じているなら、こんな呪文は唱えない。「自分を信じよう」というのは、信じていない人間だけが必要とする言葉なのだ。わたしはそれを、ホームで一人、真顔で唱えている。
埒があかないので、占うことにした。
脳内に、花を一輪、召喚する。現実の駅のホームには花など一本も咲いていないが、関係ない。わたしの脳内はいつだって花畑にできる。そういう仕様だ。
閉まってる。閉まってない。閉まってる。閉まってない。閉まってる。
一枚ずつ、花びらをむしっていく。指先は脳内で着実に動いている。現実のわたしは、ホームでただ虚空を見つめる無表情の女である。
——閉まってる。
オッケー。閉まってるみたい。
スッキリした。花が言うなら間違いない。なんの根拠もない、わたしが脳内で勝手に生やした花の託宣に、わたしは深々と頷く。ちなみに、最初の一枚を「閉まってる」から始めれば奇数枚で必ず「閉まってる」に着地することには、気づいていない。気づかないふりをしている。安心したいときの人間は、花びらの数すら都合よく数える。
電車が来る。乗り込む。扉が閉まる。もう戻れない。
こういうとき、世間はスマートロックというものを使うらしい。スマホひとつで施錠を確認できて、なんなら外から閉められる。文明。完全にそれが正解だ。
買えばいいのに、わたしは買えない。
なぜなら、考えてしまうからだ。もしスマートロックが誤作動を起こしたら? 出先で勝手に解錠されたら? 逆に締め出されて、真冬の玄関先で凍えるはめになったら? その「もし」を全部先回りで心配した結果、わたしは文明の利器を導入できずにいる。解決策は知っている。知っているのに、解決策のリスクのほうが怖い。だから今日もアナログに、脳内で花をむしっている。賢いのか愚かなのか、自分でもわからない。
そうやって電車に揺られながら、ふと、もうひとつの真実に行き着く。
——そもそも、うちに盗まれて困るものが、ない。
冷静に考えてほしい。家に貴重品なんて何ひとつない。高価な宝石も、札束も、骨董品もない。あるのは読みかけの本と、半分しか使っていない調味料と、洗濯途中のタオルくらいのものだ。こんなしがない雑草会社員のワンルームに侵入して、いったい何を盗むというのか。
開いていたら、もってけドロボー。
そう結論づけて、わたしは窓の外を眺める。達観した。完全に達観した。鍵のことなど、もうどうでもいい。
——と、思えたら世話はないのである。
その日、わたしは一日中、心の隅で鍵のことをチラチラ気にしていた。「もってけドロボー」と大見得を切ったくせに、午後の会議中も、ランチのパスタを巻きながらも、ふとした隙間に玄関の鍵がよぎる。達観、どこ行った。
そして定時で飛んで帰り、玄関の前でドアノブを回す。
——回らない。閉まっている。
その瞬間、心の底から、ほっとした。
ほら。閉まってたじゃないか。何を朝から大騒ぎしていたのか。安堵で全身の力が抜ける。今朝の自分が遠い昔のように思える。
けれど、鍵を開けて部屋に上がりながら、わたしはもう次のことを考え始めている。
毎朝こんなに消耗するなら、いっそ——精神衛生上、鍵は閉めないのが正解なのではないか!?
その閃きに、ほんの一瞬、本気で感心しかけて。
いや、それは違うだろ、とさすがに思い直した。思い直せてよかった。

(このストーリーは完全フィクションです)