短編小説|ふりかけ
たぶん彼女は、毎朝ちゃんと起きていた。
顔を洗って、髪をとかして、薄く化粧をして
「社会人らしい服」を選んで、電車に乗る。
そうやって毎日、“壊れていない人”として街に立っていた。
けれど本当は、改札を通るたび、少しずつ何かを落としていた。物理的な何かではない。見えないけれどとても大切なものを。
大阪の朝は、妙に白かった。
ビルのガラスも、コンビニの床も、駅前のスーツ姿も、全部が均一に光っていて、彼女はその光にうっすら酔う。最近、キラキラしているものや人をみると胸焼けがする。
悪気はない、けれど、そのキラキラを強要されたと感じたときに消えたくなるのは本当だった。
みんな本当に、この速度で生きていて平気なのだろうかと知らない誰かを心配する。
昼休み、会社近くのパン屋で、小さなじゃがいものフォカッチャを買った。流行りのフォカッチャだ。
Theパン屋さんらしい白い清潔そうなハットを被ったレジの店員さんが、「焼きたてなんです」と言って、紙袋に入れる前に少し笑った。
たったそれだけで、彼女の心に、小さい感謝がぱらぱらと散った。
おいしいふりかけみたいだ、と思った。
白いご飯だけでは生きられないみたいに、人もきっと、小さな優しさがないと生きていけない。
彼のことを思い出さない日は、まだ来ない。
電車の窓に映る横顔や、歩幅の似た人、厚みのある肩を無意識に探してしまう。
きっとあの頃の関係のようには、会えない。頭ではそう理解していても、未だに心が追いついていない。
その事実は、冬のガラスみたいに静かで、硬かった。
最近、家の静けさや夜の暗さが怖く、眠れない日々を過ごしている。とても静かな音だ。
冷蔵庫の低い振動。
洗濯機の終了音。
遠くを走る救急車。
世界は、自分が傷ついていても普通に動くのだと知り、呼吸が狭くなった。
ノートパソコンの横には、読みかけのエッセイと、ぬるくなったカフェオレ。
彼女はふと思う。
私は今ほんとうに手ぶらで、行くところがあるふりや、やることがあるようなふりをしているだけなのだ、と。
今日も、泣いた。
でも、不思議と、前みたいな絶望ではなかった。
空っぽになった、と思っていた。
けれど実際は、空っぽではなく、“余白”なのかもしれない。誰かの予定や、期待や、恋心で埋まっていた場所が、ようやく静かになっただけなのかもしれない。
夕方、彼女は近所の花屋で一本だけ花を買った。
名前は知らない。
薄いオレンジ色で、夕焼けみたい。
店主が「長持ちしますよ」と言ったので、彼女は少し嬉しくなった。
長持ちする、という言葉のふりかけに。
帰宅して、小さな青い花瓶に花を挿す。
ワンルームの片隅に、それだけで小さな灯りができた気がした。
彼女はまだ、自分をうまく愛せない。
未来も、よく分からない。
けれど、こんなふうにして。
パンを買ったり、文章を書いたり、花を飾ったりしながら。
いつか、自分の人生をちゃんと自分のものにしていくのだろうと思った。
