いってきますのあとで



「いってきます」



子どもが二人並べば、
それだけでいっぱいになってしまう小さな玄関。
その狭さが、かえって安心だった。



娘はいつものように靴を履く。
少し小さくなったスニーカーのかかとを、
指で押し込むようにして整えた。



その様子を見ながら、
そろそろ新しい靴を買わないと
そう思っていた。



時間には余裕をもって起きているつもりでも、
なぜか朝は、いつも急かすように流れていく。


「忘れものない?」

「車に気をつけて」

「変な人についていったらあかんよ」


毎朝、同じ言葉をいった。
娘も、同じ声で返す。


「大丈夫」


玄関の扉が閉まる音がする。
その音を聞くと、今日も世界が動きだしたような気がした。



机の上には、まだ片づけられていない朝食の名残。
どうするとも決められずに置かれたままのプリント。洗面台には彼女の歯ブラシがあり、
コップの底には、わずかな水の跡が残っている。


どこにでもあるような、ありふれた朝だった。
特別なことは何もなかった。


ただ、今となっては、その何でもない時間こそが、
取り戻すことのできないものになってしまった。








あの「いってきます」を、
もう二度と聞くことはできない。








あの声は、もうこの家の中にはない。
あの靴が、玄関に並ぶこともない。
足が大きくなり、スニーカーを買い替えることもない。



これは今朝のことではない。
もう戻ることのできない、過ぎ去った日の記憶。



しばらくの間、同じ朝を想像し続けた。



同じ時間に起きて、
同じように食事を用意し、
同じ場所に座って、
同じ言葉を口にする。



「早く食べなさい」

「時間ないよ」


返ってくる声は、ひとり分だけ。
呼びかけた言葉は行き場をなくし、漂っていた。



リビングには、ひとつ空いた椅子がある。
片付ければいいのに。手を伸ばせない。



彼女が着ていた上着。
小さな手が握っていた跡が、
今も残っているように思える。
抱きしめると、まだ柔軟剤の匂いがした。



片づけられないものが、日ごとに増えていく。



声も、仕草も、笑い方も、手放したくない。
どうか、この記憶だけは薄れていかないで。


残さなければならないと思った。


この子が、たしかにここにいたこと。
生きて、笑って、泣いて、怒り、
この家の中で息をしていたこと。


時間が過ぎ、世界が進んでも、
あの子のいた日々を、
なかったことにはしたくなかった。


書かれた記録は、残されてしまった私が、
もう一度、あの日々に触れるためのものでもあるから。




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