
🥊【 我が家に元カノセコンド(乱入者)が居座っています】 創作短編小説
【あらすじ】
イケメンでスマート、100点満点の完璧な彼氏・ハルトと同棲を始めたナナミ。
絵に描いたような幸せな毎日……のはずが、
彼女の視界の端には、なぜかハルトの歴代の元カノ5人(?)がセコンドとして居座っていた!?
「ハルト、次の行動ルート予測出たわよ!」
「ここで上目遣いのカウンターだ!」
元カノたちの完璧なデータに基づく指示のおかげで、デートも日常もナナミの完全勝利ペース。
そう、ハルトの優しさはすべて過去の恋愛から作られた「マニュアル」だったのだ。
初夜(ゴング)は鳴った。朝食はタイトルマッチ。
ナナミ優勢で進むこの歪な恋愛興行だったが、代官山での初デートで、完璧だったはずの王者がまさかのアドリーブルートに突入!?
「……俺、今日ずっと緊張してた」
予測不能の場外乱闘、データ崩壊の喧嘩、そして誰も指示を出さない、二人きりの最終ラウンドへ――。
恋愛は、最後は一対一。元カノたちからバトンを受け取り、ナナミは本当の恋のリングへ駆け上がる!
予測不能の爆笑&号泣プロレス・ラブコメディ、ここに開幕(レディー、ファイト)!🥊
🛎️第1ラウンド 初夜(ゴング)は鳴った
神は言った。天は二物を与えず、と。
分かりやすく言うと、神様というものは非常に公平で、誰しもに美点と欠点を均等に配分しているということらしい。
では、私の場合はどうであろうか。
美点は「付き合った相手の『過去の恋愛の記憶』が人格化して見えてしまう」という謎の特殊体質。
……いや、そんなオカルトかつ気まずさMAXの能力、美点でもなんでもない。できれば今すぐクーリングオフしたい。
この世の不条理を一身に背負いながら、私、ナナミ(22歳)は今、人生最大のビッグマッチを迎えようとしていた。
場所は、初めてできた彼氏。
そして、サークル一のモテ男であるハルトの部屋。
実家をようやく抜け出した私が手に入れた、二人きりの神聖な空間。
窓の外からはこれでもかと自己主張の激しいセミの鳴き声が遠くで響き、部屋の中ではエアコンの風が静かに冷気を運んでいる。
しかし、私の体感温度は軽く40度を超えていた。心臓が防犯ブザーかよってくらい爆音で警報(ゴング)を鳴らし、耳の奥でドクドクと血が巡る音がする。
(落ち着け、落ち着くんだナナミ……!)
私は22年間、それはそれは厳重に、箱入り娘として清く正しく、大事に大事にこの純潔を守ってきた。少女漫画のような運命の出会いを夢見ること早十数年。ついに現れたのが、非の打ち所がない完璧な王子様、ハルトだった。
本当に、少女漫画の3コマ目――ヒロインが曲がり角でぶつかった瞬間に、背景にトーンとバラの花を背負って現れるような男。
それがハルトという男の持つ、神から与えられた圧倒的な「一物(美点)」だった。
しかし、付き合うまでのデートの記憶を思い返すと、今思えば少しだけ違和感はあったのだ。
初めてのデート。
ハルトは私をお洒落な映画館に連れて行ってくれた。座席の予約もスマート、ポップコーンを買うタイミングも完璧。映画が終わった後に彼が口にしたセリフはこうだ。
「すごく感動的な映画だったね。ナナミの横顔、映画のヒロインより綺麗だったよ」
その時は「ひゃあああ!」と脳内麻薬が分泌されて気付かなかったが、今冷静に考えると、あのセリフはネットの『女子が100%落ちる胸キュンセリフまとめ』のコピペそのものだった。
2回目のデートの時もそう。
ちょっとした段差で私が躓きそうになった瞬間、ハルトは電光石火の早さで私の手首を掴み、そのままグッと引き寄せて言った。
「危ないよ。俺の目の届くところにいてくれないと、心配で死んじゃいそうだから」
うん。
少女漫画のセリフとしては100点だが、あまりにもアドリブ感がなさすぎた。まるで、あらかじめプログラミングされたAIロボットとデートしているかのような、完璧すぎるレール。
そして今日、ついにそのレールの終着駅である「ハルトのベッド」に私はいる。
恋愛経験皆無の処女である私は、この日のために「男ウケする可愛い勝負服」を買いに行く心の余裕すらなく、実家のタンスの奥から引っ張り出してきた、絶妙にダサい英字プリントTシャツを着てきてしまっていた。フロントに大きく太文字で【REVOLUTION(革命)】と書かれた、中学生のセンスのような白Tシャツ。
これから始まる甘い夜の雰囲気を木っ端微塵に破壊する、殺傷能力の高い部屋着である。なぜこれを選んだ、過去の私。せめて無地にしろ。
そんな私の【REVOLUTION】なTシャツ越しに、ハルトがゆっくりと覆い被さってきた。
「ナナミ……」
顔がいい。至近距離で見ると、毛穴という概念が存在しないかのような美肌。長い睫毛に、形の良い唇。
ハルトの顔が、ゆっくりと近づいてくる。私はパニックのあまり、ぎゅっと、引きちぎれんばかりに目を閉じた。
唇と唇が重なる、まさにそのコンマ1秒前――。
「あー、やっぱり。こいつキスする時、必ず右斜め45度から顔傾けるよね。手癖悪っ」
「わかるー。しかもちょっと顎引いてカッコつけてるのが本当にウケる。相変わらず進歩してない」
「ちょっと2人とも静かにして。ほら、緊張で女の子の肩がガチガチじゃない。もっと優しくリードしなさいよ、ハルトのヘタレ」
……待って。
今、この部屋に私とハルト以外、誰かいる?
あまりの違和感と、耳元で聞こえた明瞭な女子たちの声に、私は勢いよく目を開けた。
目の前には、ロマンチックな表情で静かに目を閉じ、甘いムードを演出しきっているハルトのイケメンな顔。
そしてその背後、ワンルームの狭いベッドの脇に――。
見知らぬ女子が5人、ぴったりと身を寄せ合って、パイプ椅子に座るセコンドのような陣形で並んでいた。
「な、ななな……っ!?」
声にならない悲鳴をあげてベッドの上で跳ね上がる私に、ハルトは「ん?どうしたの、ナナミ?」と、これ以上ないくらいピュアな子犬のような目で首をかしげた。どうやら彼にはこの5人が見えていないし、声も届いていないらしい。
パニックで過呼吸になりかける私を他所に、真ん中にいた妙にギャルっぽい茶髪の女の子が、ポンと私の肩を叩いた。いや、叩こうとした手が、私の服をすり抜けた。
「あ、びっくりさせちゃってゴメンねー! 私たち幽霊でも生霊でもないから安心して! 私はシオリ。ハルトの中に残ってる、付き合ってた頃の『恋愛の記憶』が人格になった存在!」
「お邪魔してますー、分析担当のカホです」
「作戦参謀のマイです。データ分析はお任せを」
「実況兼メンタル担当のレナだよー! ナナミちゃんファイトー!」
「監督のレイよ。よろしくね、挑戦者さん」
驚愕する私に、チーフセコンドを名乗るシオリが、サバサバとした笑顔で言った。
「あいつ、中身が本当にお人形でさ。嫌われるのが怖くて、歴代の彼女全員にネットで調べた『女性が喜ぶ完璧なマニュアル』を再生するだけの恋愛しかしてこなかったの。本当の自分を誰にも見せられない弱虫。だから毎回、数ヶ月で愛想尽かされて振られちゃうわけ」
「そうそう!」と、実況のレナがマイクを握るジェスチャーで続く。
「あいつが恋愛で学んだこと、失敗したこと、後悔したことが、全部ここに蓄積されてるの! 私たち本物の元カノは今頃自分の生活を楽しんでるけど、ハルトの脳内に残った『記憶データ』の私たちは、あいつのヘタレっぷりが心配で消えられなくてさ。だからナナミちゃん、今度こそあいつに本物の恋を教えて、私たちを最高の思い出にして成仏させて!」
その言葉が、私の脳内でカチリと音を立てて火花を散らした。
――本当の恋をしたことがない? マニュアルの再生?
ちょっと待て。私はこの22年間、少女漫画みたいな運命の出会いを信じて、清く正しく、大事に大事にこの純潔を守ってきたのだ。今日だって、ガチガチに緊張しながら、一大決心をしてこの部屋に来た。自分自身が「恋愛経験皆無の処女」だから、男ウケを狙おうとして空回りし、なぜか【REVOLUTION】なんてダサいTシャツを着てきてしまうほど不器用だけど、それでも、この夜を特別に思っていた。
それなのに、何がマニュアルだ。
この男の、主体性のない「お気楽再現データ」の1ページとして、私の神聖な初めてを気安くペタッと処理されてたまるか!!!
「赤コーナー! 恋愛経験ゼロ! 22年間無敗の挑戦者ァァ!! ナナミーー!!」
シオリが突然、プロレスのコールのように両手を突き上げて叫んだ。
「青コーナー! 恋愛経験だけは豊富、しかし中身はコピペの塊! 王者、恋愛マニュアル男・ハルトーー!!」
レナが実況を引き継ぐ。
「さあ、第一ラウンドのゴングが鳴りました! ハルト選手、まずはマニュアル通りの定番アプローチを仕掛けてくる模様です!」
「カウント入るぞ、3、2、1……はい、頭ポンポンきたー!」
――ポン。
作戦参謀マイのカウントダウンと同時に、ハルトの右手が私の髪に優しく触れた。
「大丈夫だよ、怖がらせないから」なんて、用意されたテンプレート通りの甘い声まで添えて。
「入りました! ハルト選手、テンプレ通りの頭ポンポン! しかし挑戦者ナナミ、すでに手口は読んでいる!」レナが激しく実況する。
「カホ、ハルトの現状ステータスは?」シオリが鋭く尋ねる。
「はい、ハルトの精神ゲージは現在40%! マニュアル依存率は80%! ここで頭ポンポンは悪手です、完全に読まれています!」
私の大事な初めてが、この男の『ネットで調べたコピペセリフ』で処理されようとしている。
ハルトは今、必死に男としてのカッコよさを演出しているつもりだろうが、すべてが裏目に出ていた。
「ねえ、ナナミ……いい?」
ハルトが耳元で囁く。その瞬間、セコンド陣が一斉に真剣な顔になってベッドににじり寄ってきた。
「ちょっと待って、作戦変更よ!」監督のレイが凛とした声で指示を出す。「あいつ、今からブラのホックを外す行程に入るわ。でもデータ上、ハルトはホック外しを失敗して手汗で滑り、クソダサい空気になる確率が87%よ。マイ、カウンターの指示を!」
マイが素早くデータバインダーを叩くポーズをした。
「了解! ハルトがマニュアル外のトラブルで脳内パニックを起こした瞬間がチャンスです! ナナミ選手、わざと自分の手でホックを外し、ハルトのカタカタ震える手を優しく握りながら『ハルトが緊張してくれて、なんか嬉しいな』って耳元で囁くのです! データ上、あいつはマニュアルにない包容力をぶつけられると、勝率0%。一撃で溶けます!」
(わかりました……セコンドの皆さん、力を貸してください!!!)
ハルトの手が私の背中に回る。
――カチャ。
予言通り、ハルトの指先が虚しく空を切った。ハルトの顔が「あ、やべ。想定外のトラブル発生」という風に一瞬でフリーズする。アドリブができないハルトは、マニュアルから逸脱した瞬間に完全にお置物と化すのだ。
今だ!!!
私は自分の手を後ろに回し、ワンアクションでホックを外した。22年間、毎日自分で着脱してきたのだ。このくらい朝飯前である。そして、ハルトのカタカタと震える右手を両手でそっと包み込み、彼の耳元に顔を近づけた。
「ハルト、大丈夫だよ……? ハルトがそんなに緊張してくれて、私、なんか嬉しいな♡」
その瞬間、ハルトの身体がビクッと跳ねた。
彼の顔が、耳の裏まで爆発したように真っ赤に染まる。
「決まったァァーーー!!! ナナミ選手、耳元へのカウンター攻撃、クリティカルヒットーーー!!!」レナが絶叫する。
「ハルト選手、完全に脳内データが吹き飛びました! 精神ゲージ残り30%!!」カホが数値を叫ぶ。
「よし、ハルトのコピペ脳が完全に壊れたわ!」シオリが不敵に笑う。「あいつ、今必死になって、マニュアルにない『自分の言葉』を探そうとしてる!」
ハルトが、まるで限界を迎えたかのように、熱い吐息をもらしながら私をベッドに押し倒してきた。
「ナナミ……///」
呼ぶ声が、さっきまでの作られた甘い声とは違う、少し掠れた、彼自身の本気の声に変わっている。コピペじゃない、彼自身のアドリブの声だ。
次の瞬間、ハルトは自分のTシャツを乱暴に脱ぎ捨て、私のズボンに手をかけた。
――って、待って待って待って!!!
視界に飛び込んできたのは、少女漫画のトーンで処理された綺麗な腹筋……だけではなかった。そのさらに下。
なんじゃこりゃーーーーーー!!!???
生まれて初めて見る「大人の男のソレ」は、私が保健体育の教科書でなんとなくイメージしていたものとは、質量も存在感も次元が違いすぎた。完全に部屋の空気を支配している。
え、人間ってこんな凶器みたいなパーツを標準装備してるの!?
「あ、ナナミ選手、強烈なビジュアルショックを受けて完全に白目を剥いています! レフェリーストップか!?」レナがハラハラしながら実況する。
「左手危険! 指を切る確率……じゃなくて、腰が引ける確率99%!」マイが叫ぶ。
「落ち着きなさいナナミ!」監督のレイが声を張る。「恋愛は判定勝ちでも勝ちは勝ちなのよ! ここで怯んだら22年の箱入り娘が泣くわよ!」
シオリがタオルを握りしめて叫んだ。
「今だ! 首筋だ! 首筋いけーー!! ハルトの首筋に腕を回して引き寄せるのよ! あいつ、肌に直接触れられると余裕がゼロになって、マニュアル抜きの『男の顔』になるから!」
未知の恐怖をゴクリと飲み込み、私は潤んだ目でハルトをまっすぐ見つめ返し、彼のシャツの裾を力の限りぎゅっと握りしめた。
「ハルト……優しくしてね?」
「うおおおおおおおお!!! 」
ハルトが獣みたいな声をあげて、枕に頭を埋めて悶絶した。
マニュアルを剥ぎ取られ、本能剥き出しになったハルトのキスは、さっきまでの右斜め45度の計算高さを微塵も感じさせない、不器用で、だけど狂おしいほどに情熱的なものに変わっていた。
「入りました! ナナミ選手、恋人繋ぎからのカウンター! ハルト選手、完全に対応できません!」レナの実況が響く。
私の指先が彼の首筋に触れるたび、ハルトの口から切ない吐息が漏れる。22年間大事に温めてきた私の純潔が、彼の熱い体温と混ざり合っていく。それは驚くほど滑らかで、痛いほどの愛おしさに満ちていた。ハルトの瞳の奥には、もう私しか映っていない。コピペされた過去のデータなんて、今の彼の熱量ですべて焼き尽くされていた。
「ナナミ……愛してる。本当に、好きだ……」
激しいベッドのきしみと、2人の荒い呼吸、外からのセミの声、そしてセコンド陣の「いけー!」という歓声が遠のいていく。用意されたテンプレートをすべて踏み台にして、私はハルトと一緒に、誰も知らない「初めての夜」の深淵へと、真っ逆さまに落ちていった。
🥊
本日の試合結果
挑戦者:ナナミ VS 王者:恋愛マニュアル男・ハルト
【第1ラウンド】
・頭ポンポン封印 成功
・テンプレ台詞破壊 成功
・耳元包容力攻撃 クリティカルヒット
・ハルトのアドリブ発動 初成功
判定:ナナミ 3-0 判定勝ち
本日のMVP:シオリ(チーフセコンド)
🛎️第2ラウンド 朝食はタイトルマッチ
「……ん」
小鳥のさえずりと、カーテンの隙間から差し込む眩しい朝の光で、私は目を覚ました。
隣を見ると、ハルトがこれ以上ないくらい幸せそうな寝顔で、ミノムシみたいにベッドの布団を丸ごと奪って眠っている。昨夜の「野生化」の余韻を少しだけ残したその顔は、相変わらず神の作画ミスを疑うレベルで整っていた。
「……勝った」
私はベッドの上で、ゆっくりと上半身を起こした。
全身に残る心地よい気怠さと痛みが、ハルトのスタンプラリーをぶち壊して完全勝利した証拠のように思えて、少し誇らしかった。22年モノの箱入り娘、初陣にして見事な防衛成功である。
ふぅ、と深いため息をついて、朝食でも作ろうとベッドから脚を降ろした、その瞬間――。
「おはよー、ナナミ選手! 朝の公式計量のお時間でーす!」
「素晴らしいファイトだったわ、ナナミちゃん。歴代彼女の中で、文句なしの『絶対王者(チャンピオン)』に決定ね」
「というわけで私たち、ログアウト不可になっちゃいました!」
ベッドの足元に置かれた2脚のパイプ椅子に、昨日と全く同じメンツが、今度は金メダルを授与するような手つきでパチパチと拍手をして座っていた。
「……は? なんでまだいるんですか。マニュアルは破壊したでしょ」
私は思わず、声に出して虚空に突っ込んでいた。用が済んだら思い出の引き出しに帰ってよ。
「いやー、それがさ」
チーフセコンドのシオリが、テヘペロと楽しげに首をかしげる。
「ハルトの脳内データがね、100%ナナミちゃんで上書きされたのは事実なんだけど、あいつのCPUが昨夜の熱量でバグっちゃって。脳内の『理想の女(女神)』のグラフィックが、全員ナナミちゃんに強制書き換えされちゃったわけ」
「状況を解説します」
私の肩にすっと寄り添うように浮遊しながら、分析担当のカホが真剣な顔でバインダーを開いた。
「ハルトの脳内にある『女性フォルダ』のシステムインフラが、昨夜のナナミ選手の過剰なクリティカルヒットによって完全にエラーを起こしています。通常、過去の恋愛データは『アーカイブ』に移行して私たちは消滅するはずでした。しかし、あいつがナナミ選手を全フォルダに一括コピーしちゃったせいで、私たちのデータがログアウト不可に。システムバグです」
「そうそう!」と、実況のレナが楽しげにメガホンを叩く。
「あいつの脳みそ、今ナナミちゃんへの愛でメモリが100%埋まってるから、私たちを消去する処理能力が残ってないんだよね。つまり、あいつが自分でちゃんと恋愛できるようになって、私たちを『過去の綺麗な思い出』としてフォルダ整理できるようになるまで、私たちはここに常駐するセコンド(居座りバグ)ってわけ!」
____嘘でしょう。
これから始まるハルトとの甘い同棲生活(仮)に、ハルトの脳内バグのせいで、この賑やかなセコンド陣がずっと24時間体制でリングサイドに居座るってこと!?
「ちょっとナナミちゃん! いくらなんでもその戦闘服(エプロン)は、ハルトのバグった脳でも処理しきれないわよ!」
キッチンに立った私を見て、作戦参謀のマイが眼鏡をクイッと上げながら鋭いツッコミを入れた。
私が身につけていたのは、実家から送られてきたお下がりのダサいエプロン。胸元に大きく、金色の糸で【ド根性】と極太の刺繍が施されている。昨夜の【REVOLUTION】Tシャツに続く、我が実家のダサ部屋着シリーズ第二弾である。
「いいのよマイ、今のハルトは脳内がバグってナナミちゃんが世界のすべてなんだから、全裸にそのエプロンでも『ナナミ、最高……♡』って失神するわよ」
シオリがゲラゲラ笑う。
(静かにしてください、ハルトが起きてきちゃうから!)
私は心の中で念じながら、フライパンに火をつけた。作るのは、冷蔵庫の卵と冷やご飯でできる定番のオムライスだ。
「カホ、ハルトの味覚データを開示して」
すかさず監督のレイが冷静な指示を出す。
「了解です!」
カホが素早くデータを読み上げる。
「ハルト選手、母親の料理がプロ級に上手かった反動で、チキンライスの米の硬さには並々ならぬこだわりがあります。水分量が多すぎると、テンションが下がって『ヘタレ子犬モード』に退行します。米はパラパラに、少し硬めを維持してください!」
(米は硬め……よし、強火で一気に炒める!)
私は元カノたちの的確すぎるナビゲーションに合わせ、必死にフライパンを振った。
チキンライスをなんとか卵で包み、お皿に盛る。
そこへ、仕上げのケチャップを手に取った。
「さあナナミ選手、ここが朝食デスマッチの最大の勝負所です!」レナがマイクを握りしめて実況をヒートアップさせる。
「メニューはオムライス! 描くべきは……そう、ケチャップによるハートマーク! 綺麗に、大きく!」
(ハート……ハートなんて描いたことない。どうしよう、手が震えて歪んじゃう!)
私の「計算ド下手ポンコツ」が、ここにきて最悪のタイミングで炸裂しそうになる。
「焦るなナナミ、脇を締めろ!」シオリが叫ぶ。
「手首を完全に固定して、一気に引くのです。ほら、右のカーブから!」マイが製図の指示を出すように冷静に弾道を計算する。
セコンド陣の怒涛の指示に合わせ、私は息を完全に止めて、ケチャップのチューブをギューッと絞り出した。
ト、ト、ト……。
できた。不格好で少し右に傾いているけれど、確かに大きな赤いハートマークが、黄色い卵の丘の上に鎮座している。
「ふぁ……ナナミ、おはよ……」
その時、寝室から寝癖を爆発させたハルトが、目をこすりながらトボトボと歩いてきた。昨夜の「本能の獣」の片鱗はどこへやら、今は完全に無防備な子犬モードだ。しかし、顔が良すぎる。寝癖すら、一流のヘアスタイリストが計算して作ったかのようにアンニュイで格好いい。なんなんだこの一物は。
「あ、朝ごはん作ってくれたの……?」
ハルトがテーブルの上のオムライスに目を落とす。
その瞬間、ハルトの動きがピタッと止まった。
彼の大きな瞳が、みるみるうちに潤んでいく。
「あ、これ『ステップ4:感動の涙』ですね」カホが数値をノートに書き留める。
「う、嘘だろ……。俺のために、オムライスに、ハートマーク……。こんなの、生まれて初めてだ……」
ハルトがポロポロと、大粒の涙を流し始めた。
(いや、お姉さまたちの誰かも絶対に作ってるでしょ!?)
私が心の中で鋭くツッコミを入れると、シオリが呆れたように首を横に振った。
「いや、私たちはあいつのマニュアルデートに付き合わされすぎて、胃がもたれてたからさ。朝から重いオムライスなんて作ってあげたの、ナナミちゃんが初めてだよ。あいつ、ネットの知識で『いつか彼女に朝食にハートのオムライスを作ってもらうのが男の夢』って脳内にインプットしてたの。それが今、目の前で現実になったわけ」
ハルトは涙を拭いもせず、スプーンを握りしめてオムライスを口に運んだ。
「美味しい……! ナナミ、すごく美味しいよ……!」
「ほらナナミ選手、勝機を逃すな! すかさず追撃のコンビネーション!」レナが叫ぶ。
「ハルトの背後に回り、頭を後ろから優しく抱きしめて『たくさん食べてね、私のハルト』と囁くのよ。レイ監督、これで今日の主導権は完全に奪えますね?」マイが作戦を具申する。
「ええ、完璧よ。やりなさい、ナナミ」レイが深く頷く。
私は意を決して、椅子に座るハルトの背後に回り、【根性】のエプロンをなびかせながら、彼の広い肩に腕を回してその頭を胸に抱きしめた。
「たくさん食べてね……私の、ハルト♡」
「ひゃうっ///」
ハルトがスプーンを落としそうになりながら、顔を耳の裏まで真っ赤にして完全にフリーズした。
マニュアルにない「背後からの不意打ち抱きしめ」に、彼の脳内CPUは完全に処理落ちし、思考停止している。
キッチンカウンターの上、冷蔵庫の前、リビングの隅で、5人のセコンドたちが一斉にガッツポーズを決めた。
「よし! 朝の第2ラウンド、ナナミ選手、見事な判定勝ちーーー!!!」
レナの実況が響き渡る。
私は、ハルトの驚くほど素直な、だけどアドリブのできない愛おしい頭を撫でながら、確信した。
この恋愛興行、前途多難で、バグだらけだけど……絶対に退屈はしない、と。
🥊
本日の試合結果
挑戦者:ナナミ VS 王者:恋愛マニュアル男・ハルト
【第2ラウンド】
・パラパラチキンライス 完全再現
・不格好なハートマーク クリティカルヒット
・マニュアル脳強制フリーズ 成功
・背後からの奇襲ホールド 一本勝ち
判定:ナナミ 3-0 判定勝ち(主導権完全掌握)
本日のMVP:カホ(分析担当)& レナ(実況)
🛎️第3ラウンド 初デートは代官山編
朝食のドタバタから数日後。私たちは初めての本格的な「休日デート」で代官山へとやってきていた。
ハルトの服装は相変わらず神の作画ミスを疑うレベルで格好いいし、マイがハルトの脳内データから逆算してくれた「白のシアートップス×デニム」のコーデのおかげで、私もなんとか代官山のお洒落な街並みに気後れせずに歩けている。
ここまでは、完全に私たちのペースだった。
ハルトがスマートにエスコートしてくれるお洒落なカフェテラスで、セコンド陣は次々とハルトの行動を先読みしては、私に的確な指示(カウンター)を出していた。
「ハルトなら次、メニューの『アボカドとサーモンのエッグベネディクト』を勧めてくるわ」
シオリがフッと勝ち誇った笑みを浮かべる。100%当たる。ハルトは寸分狂わずにその通りのセリフを口にした。
「はい、マニュアル通り。ハルト選手、10回中10回このルートです」
カホがノートにチェックを入れる。
私はセコンドの指示通りに「わあ、美味しそう!」と完璧なリアクションを返し、ハルトを終始ご機嫌にさせていた。
デートは終盤。夕暮れ時の代官山の並木道を、2人で並んで歩く。
「さあナナミ選手! ここで最終コーナー! 最後のトドメです!」
街灯の上に飛び乗ったレナが、メガホンを片手にテンション高く実況を始める。
「ここで手を繋いで! 上目遣いで『楽しかったね』のコンボ! ハルトのハートは完全にノックアウトよ!」
「うん!」
私は心の中で力強く頷き、意を決して、ハルトの右手にそっと自分の手を重ねた。
指先が触れ、ハルトがビクッと肩を揺らす。
よし、ここまでは完璧。あとはマニュアル通りに彼が私の手を握り返して、いつもの完璧な王子様スマイルでデートを締めくくる――はずだった。
ところが。
「……あ」
ハルトが立ち止まった。
重ねた私の手を、彼は握り返さなかった。代わりに、自分の手のひらをじっと見つめ、それから、ゆっくりと私の方を振り返った。
その顔には、いつも用意されているはずの「100点満点のスマートな笑顔」がなかった。
それどころか、耳まで真っ赤にして、まるで迷子の子犬のように視線を泳がせている。
「ナナミ……ごめん。俺、今日ね……実はずっと、緊張してた」
夕暮れの街の雑踏の中で、ハルトの少し震えた声が、まっすぐに私の鼓膜に届いた。
「え……?」
私の口から、素の声が漏れた。
同時に、私の周囲の空気が、ピキッと完全に静まり返る。
「……タイム」
シオリが、冗談みたいな笑顔を完全に消して、すっと右手を挙げた。試合を止める合図。
「どうしたの!?」
私が心の中で焦ってセコンド陣を振り返ると、チーフのシオリは、信じられないものを見るような目でハルトを凝視していた。
「そんな台詞、データにない」
「えっ……?」カホが慌ててバインダーをめくる。「過去10人の交際データ、デート終わりのセリフ一覧……ありません! ありません! あいつ、デートの最後に自分の弱み(緊張)を見せるなんて選択肢、一度も選んだことがないです……!」
「……成長してる」
監督のレイが、腕を組んだまま、静かに、だけどどこか目を見開いて呟いた。
ハルトは、セコンドたちの動揺なんて何も知らない。ただ、真っ赤な顔のまま、私の目をじっと見つめて、言葉を紡ぎ続ける。
「いつもなら、ネットで調べたお洒落な店に行って、マニュアル通りに喋れば上手くいくって思ってた。でも、今日は……ナナミが可愛すぎて、ずっと頭が真っ白で。変なこと言って嫌われたらどうしようって、本当は、ずっとお腹痛いくらい緊張してたんだ……。かっこ悪いところ見せて、ごめん」
そう言って、ハルトは照れくさそうに、だけど今度はしっかりと、私の手を自分の体温で包み込むようにギュッと握りしめた。
「…………っ」
心臓が、爆発するかと思うくらい激しく跳ね上がった。
あ。ダメだ。これ、マニュアルとか、計算とか、そういうのが全部吹き飛ぶやつだ。
いつもの「用意された王子様」じゃない。
泥臭くて、かっこ悪くて、だけど世界で一番真っ直ぐな、ハルト自身の「本音(アドリブ)」。
「ナナミちゃん、指示を……! 次のカウンターのセリフは……!」
マイが焦った声を出すが、私の頭は完全にフリーズして、もう一文字も言葉が出てこなかった。ただ顔が熱くて、ハルトに握られた手から伝わる熱量に、完全に圧倒されている。
実況席(街灯の上)のレナも、持っていたマイクをゆっくりと降ろし、ぽかんと2人を見つめていた。
静まり返るリングサイド。
セコンドのデータが、役に立たない。いや、役に立つ必要が、もうない。
私はただ、真っ赤な顔で俯きながら、「う、うん……私も、楽しかった……」と、蚊の鳴くような声でアドリブを返すのが精一杯だった。
ハルトがそれを見て、嬉しそうに、だけど少しはにかむように、今日一番の「不格好で、最高に優しい笑顔」を咲かせた。
🥊
本日の試合結果
挑戦者:ナナミ VS 王者:ハルト(覚醒)
【第3ラウンド】
・手を繋ぐマニュアル作戦 ハルトのアドリブにより不発
・ハルトの「本音の告白」 ストレートクリーンヒット
・セコンドの過去データ 完全無効化
判定:ハルト 3-0 判定勝ち(ナナミ、初の完敗・ハルト覚醒)
本日のMVP:ハルト(完全アドリブによるストレート)
🛎️ 第4ラウンド 初めての喧嘩
その喧嘩は、本当に些細な、だけど同棲している2人にとっては避けて通れない小さなすれ違いから始まった。
ハルトの仕事が忙しくなり、すれ違う時間が増えたこと。せっかく2人でいるのに、ハルトがどこか上の空に見えたこと。普段の私なら「疲れてるのかな」で済ませられたはずなのに、その日に限って、私のポンコツな心のコップは余裕をなくして溢れてしまった。
「……もういい。ハルトのバカ」
気づけば私は、付き合って初めてハルトに冷たい言葉をぶつけ、そのまま2人の部屋を飛び出してしまっていた。
夜の帳が下りた近くの公園。街灯の下のベンチにぽつんと座り、私は膝を抱えて自分の器の小ささに自己嫌悪していた。
「……はぁ。やっちゃった」
「ほんと、やっちゃったねー、ナナミちゃん」
ベンチの背もたれから、レナがひょっこり顔を出した。実況マイクは握っていない。リングサイドの空気は、かつてないほど張り詰めていた。
「ハルトの行動予測パターンを算出」
カホが静かにバインダーを開く。
「ハルト選手、過去の交際データにおいて、彼女と険悪なムードになった際の行動パターンは100%同一。『数日間、連絡を完全に断ち、相手の機嫌が直るのを待つ』です。自分から修羅場に踏み込むアドリブ能力はありません。徹底的な現実逃避ルートを選択します」
「そうよ」
作戦参謀のマイが、冷徹に眼鏡のブリッジを押し上げる。
「あいつはとにかく、女の子に嫌われたり、泥臭い感情をぶつけ合ったりするのが怖くてたまらない弱虫なの。だから、今ここであなたが部屋に戻っても、あいつは部屋の隅で貝のようになって殻に閉じこもるだけよ」
「……作戦を伝えるわ、ナナミ」
監督のレイが、私の目の前にゆっくりと降り立ち、まっすぐに私を見つめた。
「今は放っておこう。それが、私たちのデータから導き出した『最も傷つかない』正解よ。あいつが頭を冷やして、マニュアル通りの謝罪LINEを送ってくるまで、あなたはここで距離を置くの。それが一番安全な防衛策」
「……放っておく」
私は胸の奥をギュッと締め付けられるような痛みを覚えながら、呟いた。
セコンドの言うことは、いつだって100%正しい。彼らはハルトの「失敗の歴史」そのものだからだ。ハルトとこれ以上こじれないためには、今は引くのが正解。私はスマホの画面を伏せ、ため息をついた。
その、刹那――。
「ハ、ハァ……っ、ナナミ……ッ!!!」
夜の公園の静寂を切り裂いて、激しい足音が響き渡った。
ハルトだった。
いつもなら乱れることのない完璧な髪をめちゃくちゃに振り乱し、息を激しく切らしながら、公園の入り口に立っていた。
スマホも財布も持たず、ただ私が飛び出した時のままの姿で、夜の街をがむしゃらに走ってきたのが一目で分かった。
「……え?」
私の口から、驚愕の声が漏れる。
ハルトの目は、まっすぐにベンチの私を捉えていた。彼は膝に手をついて激しく肩を上下させながら、一歩、また一歩と、私に向かって泥臭く足を進めてくる。
「ハルトの行動予測、完全にエラー!!!」
カホが悲鳴のような声を上げ、バインダーを取り落とした。
「追跡ルート、探索行動……データにありません! あり得ません! あいつが、自分から喧嘩の直後に彼女を追いかけてくるなんて……!!」
「……逃げたくない」
ハルトが、私の目の前で立ち止まり、声を絞り出した。
その瞳は、涙で激しく潤んでいた。だけど、これまでのどんな完璧な笑顔よりも、強い光を宿していた。
「俺……今まで、女の子と気まずくなると、いつも逃げてた。嫌われるのが怖くて、数日連絡を無視して、そうやって毎回、本当に大切な人を失ってきた。でも……っ、ナナミとは、絶対に離れたくない……!! どんなに格好悪くても、嫌われても、俺……逃げたくないんだ……!!」
ハルトの叫びが、夜の公園に、そして私の胸のド真ん中に、力強く突き刺さった。
彼はそのまま私の前にひざまずき、カタカタと震える両手で、私の冷たくなった手を包み込んだ。
「ごめん、俺が余裕なくなってて、ナナミを寂しくさせた……! 怒ってもいいから、無視しないで……お願いだから、俺の側にいて……!」
涙をボロボロとこぼしながら、なりふり構わず私に縋り付いてくるハルト。
そこには、歴代の彼女たちが知っている「お人形の王子様」の影なんて、もうどこにもなかった。
「……あはは」
静まり返る空間に、小さな、だけど心から嬉しそうな笑い声が響いた。
振り返ると、チーフセコンドのシオリが、目元を少し潤ませながら、優しく微笑んでいた。
「……もう、私たちの知ってるハルトじゃないね」
マイも、カホも、レナも、みんな一様に驚き、それから――本当に、本当に嬉しそうに、ハルトの成長を祝福するように笑った。彼らがハルトの中に残した「後悔の記憶」が、今、ハルト自身の本気の恋によって、報われた瞬間だった。
「ナナミちゃん、完敗よ」
監督のレイが、どこか満足気に腕を組み直して微笑む。
「あいつ、もうマニュアルなんて全部脱ぎ捨てて、自分の足で走ってる。私たちの出番は、もうなさそうね」
私は、目の前で泣きじゃくるハルトの頭を、愛おしさを込めて思いっきり抱きしめた。
「バカハルト……私も、ごめん。もう絶対に、置いていかないから」
私の胸の中で、ハルトが子供のようにコックリと頷いた。
その背後で、5人のセコンド陣が、まるで役目を終えたかのように、小さく拍手を送りながら、静かに、優しく微笑み合っていた。
🥊
本日の試合結果
挑戦者:ナナミ VS 王者:ハルト(完全覚醒)
【第4ラウンド】
・セコンドの「放っておく」作戦 ハルトの猛追により完全破壊
・ハルトの「逃げたくない」宣言 魂のストレートクリーンヒット
・ハルトのトラウマ克服 完全達成
判定:ハルト 3-0 判定勝ち(ナナミ2連敗、しかし幸福感MAX)
本日のMVP:ハルト(過去の自分を完全に超えた奇跡の猛追)
🛎️最終ラウンド:告白 (改めて)
喧嘩の夜から数日。
私たちの部屋は、驚くほど静かだった。
いや、ハルトとギクシャクしているわけではない。むしろ、あの夜以来、私たちの距離は以前よりもずっと深まっていた。ただ、いつもならリビングの隅やテレビの上でワイワイと騒いでいた「彼女たち」の声が、パタリと止んでいた。
「……みんな?」
私が心の中で呼びかけても、誰も答えない。
ソファの上にも、冷蔵庫の影にも、あの賑やかな5人の姿はなかった。
ただ、どこからか、セコンドのゴングが遠くで静かに鳴り響く気配だけが、部屋の空気に満ちていた。
そして、その日の夜。
ハルトが、真剣な目を私に向けて、リビングのローテーブルを挟んで私の前に座った。
「ナナミ。ちゃんと、話したいことがあるんだ」
彼の声は少し緊張で震えていた。
マニュアルを演じていた頃の滑らかなセリフじゃない。彼が今、一生懸命に自分の心の中から言葉を引っ張り出してこようとしているのが分かった。
私はゴクリと唾を飲み込んだ。
(どうしよう……。みんな、私、どうしたらいい? 次のハルトの動きは? 私はなんて返せば正解なの?)
心の中で必死にセコンド陣を振り返る。
でも、リングサイドは静まり返ったままだ。
(お願い、シオリさん! カホちゃん! マイさん! レナちゃん! レイ監督! 誰か指示を頂戴……!)
私の必死の叫びに答えるように、一瞬だけ、リビングの照明が優しく揺れた。
視界の端、ベランダへと続く窓際に、淡い光をまとった5人の姿が、うっすらと浮かび上がった。
『どうしたらいい?』
私が目で問いかけると、チーフセコンドのシオリが、いつも通りサバサバとした、だけど今までで一番優しい笑顔で首を振った。
「知らない」
『え……?』
「初めてだもん」
実況のレナが、マイクを持たずに、はにかむように笑った。
「ハルトがこんな風に、自分の心から溢れた言葉で誰かに向き合うの、私たち全員、見たことないんだよね。だから、データなんてどこにもないの」
カホもマイも、満足そうにバインダーとノートをパタンと閉じた。
「私たちのデータ更新は、あの喧嘩の夜で完全終了しました。ハルト選手は今、私たちの知らない未知の領域を走っています」
監督のレイが、一歩前に出て、私の目を見つめて凛とした声で言った。
「これは、あなたたち二人だけの試合よ。私たちが指示する試合は、もう終わったの」
「……セコンド交代、ね」
シオリがいたずらっぽく笑って、私に親指を立ててみせた。
「ここからは、ナナミちゃんがあいつの唯一のセコンドであり、対戦相手よ」
「恋愛は、最後は一対一だから」
レイのその言葉を最後に、5人の姿は、夜の風に溶けるようにフッと消えていった。
本当に、リングの上には、私とハルトの2人だけになった。
怖さはなかった。不思議と、胸の奥が温かい勇気で満たされていくのが分かった。
「ナナミ」
ハルトが、私の両手をそっと握りしめた。
「俺、今までたくさんの女の子と付き合ってきた。でも、全部『嫌われないためのゲーム』だったんだ。傷つくのが怖くて、マニュアル通りに演じて、相手の本当の気持ちからも、自分の本当の気持ちからも逃げてた」
ハルトの瞳から、一滴の涙がこぼれ落ちる。
「でも、ナナミと出会って、初めてマニュアルが全部壊れた。カッコ悪いところも、情けないところも全部見せて、それでもナナミと一緒にいたいって、心から思ったんだ。……俺、初めて、本当の恋をしてる」
ハルトが私をまっすぐに見つめる。
「ナナミ。俺と、もう一度、新しく付き合ってください。コピペじゃない、俺の全部で、ナナミを幸せにしたい」
胸が、ぎゅーっと締め付けられるように愛おしさで溢れた。
私はもう、誰の指示も待たなかった。計算も、駆け引きも、何もいらない。
「うん……! よろしくお願いします、ハルト!」
私はハルトの胸に飛び込んだ。
ハルトが、壊れ物を扱うように優しく、だけど二度と離さないというように強く、私を抱きしめ返してくれた。
その瞬間、耳の奥で、カチーンと、長かった試合の終了を告げる美しいゴングの音が鳴り響いた気がした。
エピローグ
それから、数年の月日が流れた。
私たちはあの小さなワンルームを卒業し、もっと広い、2人の笑い声が響く新しい家へと移り住んでいた。
お互いの不器用さに呆れ、喧嘩をして、それでもアドリブで話し合いながら、私たちは一歩ずつ「2人だけの形」を作ってきた。
そして今日。
私たちは、真っ白なドレスとタキシードに身を包み、たくさんの人に祝福されながら、新しいスタートラインに立っていた。
結婚式が終わり、控室に戻ってホッと一息ついた時。
私は、ふと窓の外を振り返った。
カーテンが、さぁっと優しい風に揺れた。
誰もいない。
部屋には、私とハルト以外、誰もいないはずだった。
でも。
『――タイトル防衛成功!』
どこからか、聞き覚えのある、とびきり賑やかで楽しそうな5人の笑い声が、風に乗って耳の奥に響いた気がした。
私はハルトの腕に寄り添いながら、窓の外の青空に向かって、誰にも気づかれないように小さく、最高の笑顔でピースサインを送った。
「ありがとう、みんな」
恋は、攻略できない。
だからこそ、私たちはこれからも、一生をかけて、この愛おしいアドリブを楽しんでいくのだ。
おわり