
『無間天國』 第五話 反射


第五話 反射
閣下は仰った。
「殺せ」と。
私は思わず、止まった。
「お言葉ですが閣下。監視下に置き、アンヌを活用するという選択肢はございませんか。」
「いらぬ。」
レカロは静かに答えた。
「何度もお前には話してきたであろう。
人格転写制度を社会に浸透させること。
それが今の最優先事項だ。」
一拍置いて続けた。
「お前には随分世話になった。お前は見える。そのおかげで制度の理解も大きく進んだ。」
「お前で十分だ。」
「ですが、閣下……。」
「殺せ。」
レカロはロキを見つめた。
迷いはなかった。
ためらいもなかった。
ただ、この道を進むしかない。
そう信じ切っている眼差しだった。
その光に、私は焼き切れそうであった。
「では、出撃して参ります。」
ロキが扉へ手を掛けたときだった。
「嫌なのか。」
レカロが静かに言った。
ロキは返事ができなかった。
レカロは続ける。
「お前が引き継ぐのではなかったのか。この制度を。」
「お前が後継者となるのではなかったのか。」
「……そうです。」
「正義のためなら。」
「行って参ります。」
ロキは部屋を出た。
レカロは机の中央に置かれた銀色の指輪を手に取り、椅子へ深く腰掛けた。
葉巻へ火をつける。
煙は静かに天井へ昇っていった。
――――――――――
ロキはコートを羽織り、拳銃を携え、雪山へ向かった。
一方その頃。
アンヌたちの家は、とても温かかった。
今日はアンヌの誕生日。
家族の祝日である。
大雪の日に危うく間に合わなくなりそうだったことを思い出しながら、ベルジアは料理を作っていた。
ロメルは残っていた仕事を急いで終わらせようと書類と向き合っていた。
アンヌはただ、にこにこと笑っていた。
今日はとても幸せだった。
だが突然、胸の奥が冷えた。
何人もの足音が、一つの意思になって近づいてくるような感覚。
アンヌはベルジアとロメルの肩を叩いた。
「何か来る。」
小さな声だった。
ベルジアは料理の手を止めた。
ロメルは書類を放り出し、急いでアンヌを隠し部屋へ案内した。
以前の引き出しとは別に作っていた、小さな隠し部屋だった。
「ここにいて。決して出てきちゃいけない。」
「うん。」
アンヌは真剣な目でうなずいた。
ロメルとベルジアは"いつものもの"を身につけ、拳銃を構え、家中のカーテンを閉めた。
ただ静かに耳を澄ませた。
やがて。
玄関の扉が外側から破壊された。
「……早い。」
誰かが来るには、あまりにも早い。
そこに立っていたのは、見覚えのある銀髪の男だった。
ロキ。
しかし以前とはまるで面持ちが違った。
撃つしかない。
そう思った瞬間だった。
ロキは拳銃を抜き、二発。
正確にロメルとベルジアへ命中させた。
二人はその場へ倒れ込んだ。
ロキは迷わず二階へ向かった。
アンヌの居場所は、感覚で分かった。
呼吸。
震え。
以前訪れた時とは違う空間の音。
そこだった。
「ここか。」
本棚をどける。
隠し扉。
開けようとした、その瞬間。
先に扉が開いた。
アンヌだった。
「どうしてここが分かったの?」
「私は分かるんだ。」
「君も、おそらくそうなのだろう。」
アンヌは嫌そうな顔をした。
否定はしなかった。
「お父さんとお母さんは?」
ロキは答えた。
「撃った。」
「なんで……。」
「君が知る必要はない。」
「これ以上苦しむことも望ましくない。」
ロキは拳銃を構えた。
アンヌは泣きながらも、銃口ではなくロキを見つめた。
涙を吹き飛ばすような決心した目だった。
ゆっくり近付いてくる。
ロキには分からなかった。
私が撃てないとでも思っているのか。
アンヌは小さな両手で銃口へ触れた。
「そんなものはいらない。」
ゆっくり下へ押し下げた。
その瞬間。
憲兵隊が屋敷へ突入してきた。
ロキは咄嗟にアンヌを隠した。
「Hide.」
小さく囁く。
本棚を元へ戻し、一階へ向かった。
おかしい。
派遣されたのは私だけのはずだ。
……まさか閣下が。
顔を整え、大きく息を吸い、一階へ降りる。
憲兵隊が敬礼した。
「少佐。一家の生死は。」
リビングにはロメルとベルジアが倒れていた。
「処理は完了した。」
「見ての通りだ。」
「ただ娘、アンヌについては損傷が激しい。」
「見られる状態ではない。」
「承知いたしました。」
「では撤収いたします。」
ロキは尋ねた。
「お前たちは誰の命令で来た。」
「少佐の任務を支援するためでございます。」
ならば私に隠れてくるはずはない。
閣下だ。
「ご苦労。」
「私は少々この屋敷を調査してから戻る。」
「先に帰れ。」
「承知いたしました。」
憲兵隊は去っていった。
ロキは深く息を吐いた。
確かに私は撃ちたくなかった。
父親も母親も。
できることならば殺したくはなかった。
だが。
「嫌なのか。」
また背後からレカロの声が聞こえるようだった。
嫌ではない。
そのはずだ。
……はず。
人格転写は人を救う。
命を救う。
正しい者を正しく生きさせる。
そのためにある。
では。
アンヌは正しくないのか。
その時。
アンヌが降りてきた。
私は思わず拳銃を懐へしまっていた。
ベルジアが息を吹き返した。
「アンヌ……生きてたのね。」
そうか。
防弾チョッキ。
ロキは理解した。
だが拳銃はもう抜けなかった。
ただ立ち尽くしていた。
ロメルもやがて目を覚ました。
アンヌは感じた。
パパが三人いる。
ママも二人いる。
交じり合っている。
でも。
よかった。
「よかった。」
「よかったのはこちらだよ。」
ロメルが笑った。
「アンヌ。」
ベルジアが呼ぶ。
「幸せに生きるんだ。」
「アンヌ。」
「お父さん。」
「お母さん。」
その時。
遅れるものは三人の間で一つもなかった。
二人の腕から、ゆっくり力が抜けていった。
ロキは見ていた。
自分が初めて撃った人間を。
アンヌは力が抜けたような表情でロキへ歩いた。
「お兄さん。」
「前、人の行動で好きかどうか見てるって言ったよね。」
「私は、お兄さんがいい人だと思ってるよ。」
ロキは何も返せなかった。
震えていた。
寒さではなかった。
ロキは一枚の紙をアンヌへ渡した。
そこには治療施設の場所と、安全な逃走先が記されていた。
「ありがとう。」
ロキは自分でも何をしているのかよく分からなかった。
魂が抜けたようだった。
それでも。
アンヌの「ありがとう」だけが、魂を支えていた。
正義とは何か。
何のために、この制度は存在するのか。
レカロが築き上げた"無間天國"に足を踏み入れたロキは、もう引き返すことはできない。
ロキは雪を踏みしめ、一歩、また一歩と政府官邸へ向かった。