数センチ
水面すれすれを、機体が滑っていく。
谷口吉生が設計した、思索のための庭。鈴木大拙館の「水鏡の庭」。広い水面が金沢の曇り空を映していて、どこまでが水で、どこからが空なのか、そのさかいめが溶けている。
ゴーグルを目に当てると、世界が切り替わる。僕の視界はもう、地上にない。機体の鼻先にある。スティックに添えた親指が、汗で滑りそうになる。そっと押し込むと、視界が浮き、そして――降りていく。水へ。
数センチ。たった数センチの高さで、空を映した水の上を、自分の体ごと飛んでいるように、駆け抜ける。あと少し下げれば、機体は水を噛んで、沈む。それで、終わりだ。撮り直しはきかない。一発撮りに、二度目はない。だから僕は、息を止める。数十秒、肺の空気を使い切るようにして、この庭の静けさごと、一本の映像に閉じ込める。
隣で相棒が、一眼で、別の静けさを拾っている。動と、静。その両方を、ここから持って帰る。
機体を手のひらに着地させて、ようやく、息を吐いた。指が、まだ少し震えている。 いい画が、撮れた。
――こういう仕事をしていると言うと、たいてい同じことを聞かれる。「独立して、それで食べてるんですか」。 いや、と僕は答える。会社員です。建材を、売っています。
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その日の朝、僕は、まったく別の場所にいた。
倉庫だ。コンクリートの床に、サイディングや断熱材が積み上がっている。フォークリフトの音。ほこりと、塩ビの匂い。もう何年も、僕はここで建材を売ってきた。見積もりを切り、現場に納め、頭を下げる。安定した、悪くない仕事だ。
昼休み、車に戻る。後部座席には、作業着の隣に、ドローンのケースが積んである。バッテリーは昨夜のうちに充電して、忘れ物がないか、二度確かめた。建材の電話を一本さばいてから、午後の数時間を、撮影にあてる。作業着を脱いで、別の人間に切り替える。
倉庫と、水鏡の庭。この二つの場所を、僕は毎日、行き来している。どちらにも片足ずつ突っ込んで、どちらにも、完全には立っていない。
なぜ、こんな面倒なことをしているのか。独立すれば、いいじゃないか、と何度も言われた。FPVを飛ばせる人間は、まだ少ない。腕一本で、食べていけるかもしれない。
でも、僕には、消せない数字があった。毎月、決まった日に、家の口座から引き落とされていく金額。守らなければならない、暮らし。
撮影で帰りが遅くなった夜、そっと寝室を覗くと、子どもが寝息を立てている。その寝顔を見ていると、いつも思う。この顔の前で、僕は、無責任にはなれない。腕一本の自由より、この寝顔の向こうに続いていく、明日も変わらない生活のほうが、僕にはずっと、重かった。
だったら、会社という屋根の下にいながら、その中に、誰もやったことのない仕事を、自分で作ればいい。守られながら、挑む。ずるいやり方かもしれない。でも、これが、僕の選んだ道だった。
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最初に書いた提案書は、いま読み返すと、顔から火が出る。
「まずは、試させてください」。「検証として、小さく」。「うまくいくか、やってみないと分かりませんが」。
謙虚なつもりだった。慎重で、安全な提案。けれど、それを差し出した相手の顔を、僕はまだ覚えている。決裁を握る人が、紙を一枚めくって、少し黙って、それから、静かに畳みかけてきた。
「この事業に、経費はいくらかかった。費用対効果は。成果は」
どれにも、まともに答えられなかった。書いて、いなかったからだ。そして、最後の一言が、いちばん深く刺さった。
「既存を、おろそかにしすぎている」
図星だった。新しいことに夢中になるあまり、僕は、足元の本業を、少し軽く見ていた。
僕の提案書には、覚悟が、一行も入っていなかった。かけた金も、返すべき成果も、直視していなかった。「試させてください」とは、裏を返せば「失敗しても、自分は痛みません」ということだ。リスクは会社に肩代わりさせて、自分は安全なところにいたまま、面白いことだけ、やらせてください――そう言っているのと、同じだった。
任せる側が、いちばん知りたいこと。それは、技術でも、企画の面白さでもない。この人間は、数字に責任を持ち、足元を守りながら、本気で背負うのか。ただ、それだけだ。
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その夜、僕は、提案書をはじめから書き直した。
パソコンの前で、「まずは試させてください」の一行を、カーソルで選んで、消した。「検証」も、消した。「やってみないと分かりませんが」も、消した。逃げの言葉が、画面から一つずつ消えていくたびに、自分の逃げ場も、同じだけ消えていくのが、分かった。
空いた場所に、数字を書いた。年間、これだけ売る。届かなければ、こう畳む。撤退の線まで、自分の手で引いた。
水の上を飛ぶときと、同じだった。あと少し下げれば、沈む。やり直しは、きかない。
書き終えて、保存して、僕はしばらく、動けなかった。怖かった。でも、その怖さが、たぶん、本気と呼ばれるものの正体だった。
提案は、条件付きで通った。「本業の数字を、絶対に落とさないこと」。当然の条件だ。守られる、とは、そういうことだ。
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通れば、楽になると思っていた。逆だった。
自分で書いた数字は、誰のせいにも、できない。上から降ってきたノルマなら、無茶を押しつけられた、と愚痴れる。自分で約束した数字には、その逃げ道がない。届かない月は、自分で引いたあの撤退の線が、暗いところで、光る。
売上には、波があった。ある月は、まるまる、ゼロだった。月に一度の会議で、その数字を報告する。並んだ顔に浮かぶのは、もう、あきれだった。強く責められるより、その、なかば呆れたような沈黙のほうが、こたえた。
それでも、僕の中には、消えない確信があった。海外では、FPVの映像が、もう当たり前になりつつある。あの波は、遅かれ早かれ、この国にも来る。まだ、僕たちのところに届いていないだけだ。ゼロの数字を前にしても、その確信だけは、手放さなかった。……いや、手放さないように、自分に言い聞かせていた、というほうが、正直かもしれない。
建材を売りながら、僕は心のどこかで、もう一つの仕事の数字を、ずっと数えていた。二つの世界を行き来するというのは、二つの不安を、同時に抱える、ということでもあった。
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それでも続けられたのは、たぶん、あの数十秒があったからだ。
ある家の撮影で、玄関の隙間から、機体を滑り込ませた。リビングを抜け、キッチンをかすめ、階段を一気に駆け上がって、吹き抜けを見上げながら、外へ抜ける。一軒の家を、人が歩いていく感覚のまま、一本で。狙いどおりに、決まった。施主さんが、モニターを覗き込んで、声をあげた。「うわ、なにこれ」。
その高揚を抱えて、会社に戻る。誰かに、話したくてたまらない。
でも、倉庫には、それを分かってくれる人が、いない。「お、よかったな」とは、言ってもらえる。けれど、あのカットがどれだけ難しくて、どれだけ僕を生かしているか、本当のところは、伝わらない。当たり前だ。社内に、これをやってきた人間は、僕しか、いないのだから。
前例がない、とは、こういうことだった。聞ける先輩も、なぞれる手本も、社内に、一つもない。見積もりの相場も、納品の流れも、全部、自分で手探りで作る。「建材会社の中でFPV事業を立ち上げる方法」なんて、どこを探しても、書いていない。
いちばんこたえたのは、言葉が通じないことだ。倉庫では「ドローンの人」。外の映像屋と話せば「建材の人」。どちらの部屋にも、僕の椅子は、一つもなかった。そのさかいめに、一人で、立っていた。
だから、椅子を、自分で作った。撮影に付いてきて、編集をしてくれる相棒。取引先から話を拾ってくれる、営業の仲間。一人で抱えていた仕事を、少しずつ、手渡した。役割を分けると、不安も、分けられた。社外にも、同じ言葉の通じる相手を探した。社内に一人でも、業界には、仲間がいた。
そして――こうして、書いている。うまくいかない夜のことも、顔から火が出る提案書のことも、正直に書いて置いておいたら、「自分も、会社の中で何か始めたい」という人が、読んでくれた。同じさかいめで、片足ずつで立っている人が、どこかにいる。それを知れたことが、いちばんの椅子だったのかも、しれない。
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今日も、撮影が一件ある。
午前は倉庫で建材を売り、昼に作業着を脱ぎ、午後、僕はまた、水の上に出る。ゴーグルを当てれば、世界が切り替わる。数センチの高さで、水と空のさかいめが溶けたところを、息を止めて、駆け抜けていく。
あと少し下げれば、沈む。やり直しは、きかない。
それでも――いや、だからこそ、僕は、この数センチが好きだ。守られた屋根の下で、自分の意思で、逃げ場のない高さまで、降りていく。その矛盾を抱えたまま飛ぶことを、たぶん僕は、挑戦と呼んでいる。
着地させて、息を吐く。指が、少し震えている。車に戻ると、後部座席で、作業着と、ドローンのケースが、隣どうしで揺れていた。二つの世界を、両手に抱えて、僕は今日も、家に帰る。
いつだったか、うまくいかない話をこぼした僕に、連れ合いが、ぽつりと言ったことがある。 「好きな仕事をさせてもらえるのは、幸せなことだよ」 その通りだ、と思った。守られて、支えられて、それでも、挑ませてもらえている。この幸運の前で、途中で投げ出すことだけは、できない。
家に着く。そっと寝室を覗くと、今夜も、子どもが寝息を立てている。 あと少し、力を抜けば、沈む。やり直しは、きかない。――僕が毎日、あの数センチの高さで守ろうとしているのは、たぶん、この寝顔なのだ。
独立は、していない。会社員のままだ。 でも、ここには確かに、僕がゼロから作った、まだ誰のものでもない、数センチがある。
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読んでくれてありがとうございます。
北陸の景色を"飛ぶ視点"で一発撮りしている、まだ小さな挑戦です。いただいたチップは次の撮影のバッテリー代に。
その分、ちゃんといい景色を撮ってきます。