
はり仙人 外伝 その九(後編)
第9話・後編 仮兄弟子と、近づく別れ
その夜、私と偏雀は縁側に座っていた。
銀の鏡は、布に包まれて私たちの間に置かれている。
霊座空鍼の箱は、偏雀の横にあった。
月は細く、風は静かだった。
しばらくして、偏雀が言った。
「昼のことですが」
「兄弟子発言ですか」
「違います」
「違うんですか」
「鍛冶職人のことです」
「そちらですね」
偏雀は前を向いたまま言った。
「私は、正確に診ようとしすぎるところがあります」
「ええ」
「銀の鏡にも映りました」
「ええ」
「あなたのような、少し抜けた言葉で、気が動くことがある」
「少し抜けた、をそんなに丁寧に言われると、逆に傷つきますね」
偏雀は少し笑った。
「ですが、必要な隙間だと思いました」
私は黙った。
偏雀がそう言うのは、きっと簡単なことではない。
私は静かに答えた。
「偏雀の正確さがあるから、私は少し抜けていられるんです」
「どういう意味です」
「私だけなら、ただ抜けて終わるかもしれない。
でも、偏雀が見ているから、抜けても戻れる」
偏雀は何も言わなかった。
その沈黙は、悪くなかった。
私は続けた。
「正しさと隙間。
たぶん、両方いるんでしょうね」
偏雀は小さくうなずいた。
「ええ」
「兄弟子と弟弟子みたいに」
「そこへ戻しますか」
「戻します」
「しつこいですね」
「流浪の鍼灸師は、道に迷っても目的地に戻るものです」
「今の例えは、少し違う気がします」
「私も言ってからそう思いました」
偏雀が、今度ははっきり笑った。
短い笑いだった。
だが、これまででいちばん自然な笑いだった。
私は思った。
ああ、この人はようやく少しゆるんだのだな、と。
もちろん、完全にではない。
偏雀が完全にゆるんだら、それはそれで少し心配である。
だが、少なくとも以前よりは、気が通る隙間ができた。
翌朝、偏雀はいつも通り早く起き、薬草を整えていた。
私は少し寝坊した。
「旅の基本は、寝られる時に寝る、です」
そう言い訳すると、偏雀は静かに言った。
「寝すぎるのは基本ではありません」
「兄弟子は手厳しい」
偏雀は少し間を置いた。
「……弟弟子も、もう少し早く起きるべきです」
私は顔を上げた。
偏雀は薬草を見たまま、こちらを見ない。
今度は逃がさない。
「今、弟弟子と言いましたね」
「言いました」
「認めたんですね」
「昨日から、あなたがうるさいので」
「理由はどうあれ、認定ですね」
「仮です」
「仮兄弟子と仮弟弟子」
「変な言葉を増やさないでください」
私は笑った。
超相君が奥から顔を出した。
「よかったな」
偏雀は静かに言った。
「師が一番楽しそうですね」
「楽しい」
「否定しないのですね」
「する理由がない」
庵の朝の空気が、少しやわらかかった。
私は湯をすすりながら思った。
汁粉屋で餅を吐かせたことから始まった縁が、
金色の玉を通り、銀の鏡を通り、町の病を通り、
ようやくここまで来た。
偏雀は兄弟子になった。
仮ではあるが。
仮でも何でも、こちらとしては十分である。
ただ、心のどこかで、私は感じていた。
この庵に長く留まる時ではない。
私はもともと、流浪の鍼灸師だった。
まだ見たい土地がある。
まだ見ぬ病がある。
まだ知らない人の生き方がある。
超相君は何も言わなかった。
ただ、私の湯のみが空になるころ、ぽつりと言った。
「西へ行くか」
私は手を止めた。
「……なぜ、それを」
「顔に書いてある」
「そんなにわかりやすいですか」
「お前は、隠すのが下手だ」
偏雀が横から言った。
「それは確かです」
「兄弟子まで」
「仮です」
私は湯のみを置いて、少し笑った。
西へ。
そう言われた瞬間、胸の奥で何かが静かに動いた。
まだ理由はわからない。
ただ、西の道が私を呼んでいる気がした。
流浪の鍼灸師は、予定より先に、足が向く。
そしてたいてい、道の先には、ちょっと面倒な出会いが待っている。
私はその面倒を、少し楽しみにし始めていた。
「もう少ししたら、発ちます」
私がそう言うと、偏雀は薬草を整える手を止めなかった。
けれど、その声は少しだけ静かになった。
「そうですか」
「寂しいですか」
「静かになると思っています」
「それは寂しいという意味ですね」
「違います」
「仮兄弟子は素直じゃない」
「仮弟弟子は調子に乗りすぎです」
超相君が声を立てて笑った。
庵の朝は、やわらかかった。
別れは、まだ少し先にある。
けれど、その気配だけは、すでに庭の風に混じっていた。
つづく