
水の器に満ちる色彩
梅雨のどんよりとした空を見上げるとき、私の心は少しだけ浮き立つ。
この憂鬱な雨の季節は、大好きな紫陽花が最も輝く時期だからだ。
「紫陽花が喜んでいるなら、まあいいか」
雨粒に濡れる街並みを眺めながら、そんな風に思えてしまう。
毎年、6月になると京都のどこかしらの古いお寺へと足を運ぶ。お目当ては、もちろん紫陽花だ。
生花が境内に群生する圧倒的な美しさや、帰り道の道端に健気に咲く姿もいい。
けれど近年、多くの寺院で力を入れている「花手水」の前に立つとき、足が止まり、ふと見惚れてしまう。
なぜか、その佇まいに無性に惹かれてしまうのだ。
石の器に湛えられた、澄んだ水。
その中に浮かぶ紫陽花たちは、切り取られたあともなお、驚くほどみずみずしく息づいている。
それを見つめていると、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「ここにいれば、大好きな水を無限に吸うことができる。だから今、この子たちは最高に幸せなんだろうな」
そんな、少し突飛な空想が頭に浮かんで、愛おしさが込み上げてくる。
尽きることのない水に満たされて、生き生きと泳ぐように輝く色彩。それは、生木にあるときとはまた違う、至福の表情に見える。
カメラを携えて、水面に向かって何枚も、何枚もシャッターを切る。
気がつけば、スマートフォンの6月のフォルダは、器に満ちる色彩で埋め尽くされている。
客観的に見れば、どれも似たような水面の写真ばかりかもしれない。
それでも私にとっては、1枚1枚がまったく違う。
光の反射、水の揺らぎ、重なり合う花びらの陰影。
それぞれが、その瞬間にしか見せない固有の表情を持っている。
役割を終えた後、ドライフラワーとしてアンティーク調の渋い色味に変貌していく姿も愛おしい。
けれど、あの水の器の中で見せてくれた、溢れんばかりのみずみずしさが、どうしても忘れられない。
青々と生命力に満ちた、美しい葉脈を持つ葉。
土壌の酸性度によって自分を染める色を器用に変える気まぐれさ。
紫陽花は、どんな環境に置かれても、どんな姿に形を変えても、そのすべてが等しく美しい。
世の中にはたくさんの美しい花があるけれど、私をこれほど魅了する花はほかにない。
溢れる水と溶け合う紫陽花が、私の心という器を、あざやかな色彩で静かに満たしていく。