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「教科書を投げた私が、高校生の娘に『最近怒らないね』と言われるまでに手放した4つのこと」

「ママって最近あんまり怒らないよね」


ある日、高校生の娘にそう言われた。

私は思わず笑ってしまった。


怒っている。

今でも、心の中ではしっかり怒っている。


息子がテスト前なのにYouTubeを見ていたら気になるし、兄妹げんかが始まればうるさいと思う。部活のことだって、いつだって心配だ。

だから、怒らなくなったわけではない。


ただ、昔とは少し違う。

娘の言葉を受けて振り返ってみると、今でこそ笑って話せるが、数年前の私はどん底だった。

私はこれまでに色々なことを「やめて」きたのだと気づいた。


正論を言うこと。

先回りすること。

子どもの人生を背負うこと。

そして、自分を後回しにすること。


もちろん、最初からできていたわけではない。むしろ、以前の私はその真逆だった。


息子の初めての定期テスト前のこと。

学校は早帰り。今日は勉強するだろうと思っていた。

ところが、帰宅後の息子はご飯を食べ、YouTubeを楽しみ、そして昼寝。


私はソワソワする。

「大丈夫なの?」「勉強しなくていいの?」

何度も喉まで出かかる言葉を飲み込む。

娘に「勉強方法を教えてあげて」と頼んだこともあるが、「私もテストあるから無理」と即答された。その通りである。


でも、私は不安だった。

息子は初めてのテストで、どう勉強したらいいかわからないはず。だから口を出したくなる。

けれど最近、ようやく気づいた。

あの時、一番不安だったのは息子ではなく、私だったのだ。

子どもが困る前に、私自身が「困るのが嫌で」焦っていただけだった。


私はかなりの「おせっかい」でもあった。朝になると、確認作業のオンパレードだ。


「お箸持った?」「ネームは?」

「部活の道具は?」

「今日は雨だから靴下の替えもね。濡れたものを入れる袋は持った?」


忘れ物をしないように。困らないように。

親切のつもりだった。

でもある日、ふと思った。

「これ、誰が考えているんだろう」


子どもじゃない。私だ。

子どもが考える前に、私が全部答えを言っている。

私はいつの間にか母親ではなく、本人の代わりに学校の予定を完璧に把握する「優秀な秘書」になっていた。


でも、それは本当に子どものためなのだろうか。

忘れ物をして困る。道具を忘れて焦る。雨で靴下が濡れて不快な思いをする。

それもすべて、大切な経験だ。

私は子どもを助けているつもりで、彼らから「考える機会」を奪っていたのかもしれない。


以前の私は、子どものことを自分のことのように捉えていた。

成績、部活、友達関係。

全部が「自分の問題」だったから、苦しかった。


子どもが悩めば私も悩み、子どもが失敗すれば私も落ち込む。

部活の係が5か月先にあるだけで、自分の番でもないのに気になって仕方がない。

自分でも笑ってしまうが、当時は本気だった。

子どもは大きくなっているのに、私だけが小さい頃のままの感覚で心配し続けていたのだ。


親子ではあるが、別人格。

応援はできるし、支えることもできる。

でも、代わりに生きることはできない。

そう割り切れるようになってから、心は少しだけ楽になった。


そしてもう一つ、自分を後回しにすることをやめた。

子どもが小さい頃は「家族優先、子ども優先。母親なんだから」と自分を律してきた。

でも思春期になり、子どもが少しずつ親から離れていく中で、私だけが相変わらず子どものことばかり考えているのは不自然だ。


最近は、自分の時間を大切にしている。

ウォーキングに行き、植物を育て、noteを書く。

気になる記事を読み、スキを押し、コメントをもらって喜び、閲覧数を見てニヤニヤする。

完全に怪しい人だが、これが楽しい。


子どもの問題が消えてなくなったわけではない。

それでも、自分の楽しみを持つことで心に「余白」ができた。

余白ができると、不思議と怒る回数も減る。

私がご機嫌でいることも、大切な子育ての一部なのかもしれない。


あの日、私は母親としてやってはいけないことをした。

娘が高校受験を控えていた頃のことだ。


今思えば、私はずっと焦っていた。「娘のため」と言い聞かせていたが、本当は違った。

受験が近づくたびに大きくなる不安を、コントロールできずにいただけだった。

娘も私もイライラし、お互いに余裕がなかった。


きっかけは些細なことだったと思う。

小さな火種が積もり積もって、ある日突然爆発した。

私は感情を抑えられなくなり、教科書を投げ、娘を外へ出そうとした。

でも、娘の体はもう大きくなっている。小さい頃のようにはいかない。

気づけば、私は学校のカバンを外へ放り出し、叫んでいた。


「そんなに言うことを聞けないなら、出ていきなさい!」


今思い出しても胸が苦しい。親が子どもに言うべき言葉ではなかった。

あの時の私は、自分の不安や思い通りにならない苛立ちを、ただ娘にぶつけていただけだった。


娘は家を出た。夜だった。

すると、息子も泣きながら姉の後を追った。

その姿を見た瞬間、私の中で何かが切り替わった。


「私、何してるんだろう」


娘も傷つき、息子も泣いている。誰も幸せになっていない。

私は、ただ感情をぶつけただけじゃないか。


娘を追い出そうとしたはずなのに、今度は私が家を飛び出した。

頭を冷やさなければと車に乗り込み、夫に電話をしたが、こういう時に限って出ない。

誰かに「大丈夫だよ」と言ってほしかった。

でも誰もいない。だから、震える手でスマホを開き、検索した。


「思春期 子ども 対応」


藁にもすがる思いで見つけたある記事に、目が止まった。

「正論をぶつけても無駄」「まともに受け止めすぎない」

その時の私には、その言葉が妙に刺さった。


私は今まで、向き合っているつもりだった。

でも、娘の気持ちを聞こうとしていただろうか。理解しようとしていただろうか。

私はただ、自分の「正しさ」を証明しようとしていただけではなかったか。


車の中でそう自問自答し、30分ほどして家に戻った。

娘も息子も、家にいた。

私が最初に口にしたのは、説教ではなく謝罪だった。


「物を投げてごめん。当たったら危なかった。嫌な思いをさせてごめん」


親になると、自分が正しいと思っている分、謝る機会が減る。

でもあの日は違った。

私が謝ると、娘も謝ってくれた。

家の空気は、少しずつ、でも確実に落ち着いていった。


今ならわかる。

あの時の私は、娘の受験が不安だったんじゃない。

娘の人生を勝手に背負い込んでいたから、あんなに苦しくて、焦って、怒っていたのだ。


とはいえ、この話を書いている今の私が、完璧にできているかと言われたら、全くそんなことはない。

相変わらず息子のテスト前はソワソワするし、兄妹げんかはうるさい。部活のことだって、気になりだしたらキリがない。


ただ一つ違うのは、「あ、また私、背負おうとしてるな」と自分で気づけるようになったこと。

それだけだ。


正直に言えば、教科書を投げる前に気づきたかった。

娘を追い出そうとする前に、息子を泣かせる前に、もっと早く賢い親になりたかった。

でも、あの時の私には、あれが精一杯だったのだ。


だから最近、娘に「ママって最近あんまり怒らないよね」と言われた時は、少し驚いた。

私は変わったつもりなんてなくて、ただ毎日、言葉を飲み込んで、失敗して、反省して、また飲み込んで……。

そんな泥臭い毎日を繰り返しているだけだったから。


思春期の子育ては、子どもを育てているようで、実は親の修行なのかもしれない。

できればもう少し楽な修行がよかったけれど。


「そうだね。ママも、ちょっとは成長したのかもね」


明日の朝もたぶん私は言いたくなる。

「お箸持った?」

って。

その時、ぐっと飲み込めたら私の勝ち。

たぶんまた負ける日もある。





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