余白観光と、素のままさんー盛るな、と山が言うー

有名な観光地は、だいたい派手で見栄えがいい。
大きな建物がある。
きれいな展示がある。
フォトスポットが用意されている。
順路があり、説明もある。
風光明媚・山紫水明・花鳥風月。
主役はそこに存在している。
それはそれで、とても楽しい。
でも、最近、少し違う形の観光もあると気づいた。
ぱっと見ただけでは、ただの空き地。
盛り上がった何か。用途のわからない窪み。
特に珍しくもない景色。
目をこらしても、これといった感想が湧いてこない。
現地に置かれた説明板を読んでも、ふーん。
しかし、事前に情報を丹念に調べて、現地で空想をフル活用すると、急に面白さが立ち上がってくる。
私はそれを、勝手に「余白観光」と呼ぶことにした。
余白観光は、完成品を見に行く旅ではない。
時の流れにさらされた、残骸とうっすら残る面影を、知識と想像で組み立てながら、見て回る旅。
たとえば、春日山城跡がそのひとつだ。
上杉謙信公の居城として知られる、上越の有名な城跡である。
けれど、私が昔見たときの印象は、かなり正直にいって、
「なんだこれ」
だった。
天守閣があるわけではない。
石垣がどんと残っているわけでもない。
ぱっと見て「城だ」と分かる場所じゃない。
ちょっとした小山にひそむ、ただの空き地。
そして自然豊かな上越には、景色だけなら似たような場所が、ごまんとあった。
当時の私は、跡とは何か。を分かっていなかった。
それが今、Googleマップの口コミなどを見ていると、春日山城跡に高評価が並んでいる。
驚いた。
高く評価している人たちは、ただ景色を見に行っているわけではなさそうだった。
史料を読み、歴史を調べ、
地形を見ている。
ここに何があったのかを想像しながら歩いている。
それを見て、少し分かった気がした。
春日山城跡は、何もない場所ではなかった。
今現在は、何もないように見える場所だった。
ここに曲輪があった。
この斜面が守りだった。
この道を人が歩いた。
この場所から、遠くを見張っていた。
今は草と土だけでも、確かにここに城があった。
そう思って歩くと、同じ場所の見え方は変わるのだろう。
観光地そのものが変わった可能性もある。
整備が進んだのかもしれない。
見る人の層が変わったのかもしれない。
どちらにしても、面白いなと思う。
昔の私には「何もない」と見えた場所が、今の私には「想像する場所」に見えてくる。
余白観光は、たぶん全国に埋もれている。
建物の残っていない城跡。
古戦場跡。
廃線跡。
旧街道。
古い集落。
遺跡。
雁木通りのような生活の構造。
観光のために作られたのではなく、暮らしや歴史の結果としてそこに残っている場所。
何も知らずに行くと、ただの道に見える。
ただの空き地、ただの石碑、ただの池に見える。
でも、調べてから行くと、突然そこに熱のこもった景色が広がる。
この道はなぜここを通っているのか。
この地形にはどんな意味があったのか。
この場所で誰が暮らしていたのか。
そう考えながら歩くと、観光は少し読書と同じ匂いを帯びる。
小説は、全部を説明しない。
読者に想像する余地を残す。
余韻を渡す。
行間を渡す。
余白観光も、それに近い。
すべてを説明しない観光地。
少し不親切で、少し無口で、余白をこちらに投げてくる。
「ここにありました。あとは自分で見てください」
そう言われているような。
この旅のしかたは、AIとの相性もかなり良い。
行く前に、土地の歴史を調べる。
昔の地図を見る。
口コミを読む。
地形を確認する。
「ここでは何を見ればいいのか」とAIに聞いてみる。
現地で答え合わせをする。
帰ってきてから、もう一度調べる。
AIは、見え方を1から10まで代わりに用意してくれるわけではないけど、余白に気づく手助けはしてくれる。
知らなければ通り過ぎるものに、少しだけ光を当ててくれる。
ただの道を、「なぜこの道なのか」と問い直させてくれる。
そして、最後に見るのは自分だ。
そんなことを考えていたら、私の頭の中に、ひとりの怪異が立った。
素のままさん
ー下方にホラーテイストの画像があります。苦手な方はご注意くださいー

妙高や上越あたりにいそうな怪異である。
土地のものを、必要以上によく見せようとすると出てくる。
トマトを、大味の創作料理に埋める。
枝豆を、必要以上に都会向けの物語で包む。
城跡に、地形と関係ない感動を乗せる。
地味な場所に、無理やり「映え」を足す。
そういうとき、素のままさんは出る。
素のままさんは、商売や販促そのものが嫌いなわけではない。
例えば、
トマトを真空パックにする。
枝豆を遠くの人にも届ける。
余った食材を別の商品にする。
ブランド化して、生産者にお金が回るようにする。
岡山のシャインマスカットなどは、まさにそういう道を歩いた果物だと思う。
高級なぶどうとして知られ、コンビニ商品やデザートともコラボし、需要が増え、作る人も増えた。
それは成功の一面も持っている。
知名度が上がり、食べる人が増え、
産地にお金が回る。
その一方で、スーパーに並ぶシャインマスカットの質にばらつきが出たように感じる。
初めて食べた時の、あの感動的な美味しさと特別さは薄まった。
単純に悪いとは言えないけど、そこには少し、壊れたものを見る寂しさもある。
素材を広めることと、素材よりも名前を大きくすることは違う。
素のままさんは、たぶんその違いにうるさい。
彼女は商売を嫌っているのではない。
観光を嫌っているのでもない。
商品化を嫌っているのでもない。
素材より先に言葉が走るのが嫌いなのだ。
名前がふくらむ。
包装がふくらむ。
期待がふくらむ。
物語がふくらむ。
そのとき、山の端から畑の隅から、素のままさんが出てきて言う。
「盛るな」

妙高の怪異だから、
素のままさんは、山を背負っている。
「盛るな」と言う本人が、盛り上がった背中をしている。
でも、それは、雪や土や畑や古い道や城跡や雁木や、説明されなかったものが積もってできた山だと考えている。
盛ることと、積もることは違う。
素のままさんは、その違いを見ている。
春日山城跡の隅にも、素のままさんはいる。
昔の私が「何もない」と思った場所で、今の私が少し立ち止まる。
史料を読んで、口コミを読んで、地形を想像して、もう一度そこを見ようとする。
すると、素のままさんは静かに言う。
「ほらね」
余白観光とは、何もない場所を、むやみにありがたがる旅ではない。
何かを見るために、自分の目を少し育ててから行く旅だ。
こちらで調べて、想像して、完成する。
完成といっても、それは固まったものではなく、行くたびに姿を変えるかもしれない。
そうすると、何もないと思っていた場所が、とつぜん賑やかになる。
日本には、まだそういう場所がたくさんある気がする。
有名ではない場所。
整いすぎていない場所。
うまく説明されていない場所。
観光地としては不器用な場所。
けれど、調べてから行くと、急に見えてくる場所。
そういう場所を、これから少し探してみたい。
余白観光。
読者に余韻を渡すように、
観光客に余白を投げる観光地。
そして、その余白の端に、素のままさんが立っている。
盛りすぎたら怒る。
でも、本当に見ようとしたら、たぶん少しだけ許してくれる。
「ほらね」
そう言われる場所を、私は見に行ってみたい。
