「さよなら」と言ってくれてありがとう
はじめに
わたしは、おでこに大きな傷がある。
もし、聞かれたらなんて答えよう。そう思っていつも生きている。
1番、川で転んだ。2番、交通事故に遭った。3番、本当のことを言ってしまう。
今日は、3番で、話そうと思う。
「ああ、この傷?私が高校生のときの話なんだけど…。」
高校生のときの話
入学式
田舎にある小さな中学校を卒業し、私は一人、都市部の高校へ進学した。
入学式を終え、スクールバスに乗り込む。
まだ時間が早かったようで、車内には私のほかに、知らない男の子が一人だけ乗っていた。
何だか真剣に本を読んでいて、話しかけにくい。
まあ、いいか。
一人ぼんやりと、今日のことを思い出していた。
まだ胸が落ち着かない。
早く家に帰りたい。
自分の部屋に入って、ドアを閉めて、それでようやく安心できる。
ふと入口の方を見ると、もう一人、男の子が乗り込んできた。
その子はまっすぐこちらを見る。
「ねえ、あんたが××?」
突然名前を呼ばれ、息が止まりそうになった。
私は小さくうなずいた。
「あ、やっぱり。名簿を見てびっくりしたんだ。知り合いと同じ名前だったから。」
彼は楽しそうに笑った。
その瞬間、彼の笑顔に目を奪われた。
そのあとも、いろいろな話題を出して、途切れないように話しかけてくれた。
さっきまで息苦しかった空間が、少しずつ心地よい場所に変わっていく。
新しい環境で息苦しくて、早く帰りたかった。
明日からの学校も不安だった。
でも、この人がいるなら大丈夫かもしれない。
そう思った。
近づく
それから毎日、帰りのバスで彼と話すのが日課になった。
彼はスマホゲームが好きだった。
バスに揺られる三十分、毎日一緒にゲームをした。
私は全然うまくなかったけれど、彼と一緒なら負けても楽しかった。
数学が苦手な私に、彼が教えてくれることもあった。
ノートに図を書きながら、わかりやすく説明してくれる。
数学で分からないことを見つけると、少しうれしかった。
だって、彼と話す口実ができるから。
廊下を歩く彼。
目が合う。
「よお、お嬢様。」
そんな軽口を言って笑う。
私は、彼の目が好きだった。
自信があって、でもいつも何かを楽しんでいるようで――夏の始まりみたいだった。
彼に見つめられると、私は自分が価値のある人間になれた気がした。
ある夜、彼からメッセージが届いた。
「もし俺が、好きって言ったら、お前どうする?」
胸がぎゅっと苦しくなって、顔が熱くなるのを感じた。
打っては消して、打っては消してを繰り返し、やっと返信した四文字。
「うれしい。」
「じゃあ、明日からよろしく。」
しばらくスマホを握ったまま、動けなかった。
外へ出て、田んぼ道を駆け回って叫びたかったけれど、もう夜だ。
その気持ちはそっと胸にしまって眠った。
明日の帰りのバスの時間が、待ち遠しい。
うわさ
それからは、毎日が楽しかった。
彼が私の恋人だって、学校中に自慢したかった。
ただ、彼は女の子から評判が悪い。
彼と同じ中学校出身の友達が、噂をしているのを聞いたことがある。
「××って、―――らしいよ。」
「まじ、やばいね。」
でも、そんなことは気にならない。
私は彼が好きだ。
彼を尊敬している。
彼はすごい。
デート
デートに行きたい。
彼ともっと一緒にいたい。
もっと彼を独り占めしたかった。
ある日、勇気を出して彼に言った。
「日曜日、遊びに行こうよ。」
「いいよ。」
その一言で、胸が弾んだ。
日曜日。
姉から借りたミニスカートをはいて、待ち合わせ場所へ向かった。
何度も鏡を見た。
少しでも、かわいいと思ってほしかった。
彼は私を見るなり笑って言った。
「うわ、足太いな。」
いつもの笑顔だった。
でも、今日はその笑顔が遠く感じた。
失敗した。
顔が熱い。
恥ずかしい。
さっきまで、水と太陽を浴びてぐんぐん伸びていた自信の芽が、急にしおれてしまった。
映画館へ向かう途中、派手な服装をした知らない男の人が彼に声をかけた。
「よお、××、久しぶりじゃん。」
「先輩? 何してんすか。」
楽しそうに話し始めた二人の後ろを歩く。
私と一緒にいて、彼が笑われてしまうかもしれない。
胸が苦しい。
映画館に着くと、私はまだ男の人と話しながら前を歩いている彼にメッセージを送った。
「トイレに行ってくるね。」
送信ボタンを押して、早歩きでトイレへ向かった。
個室へ駆け込み、鍵をかける。
その瞬間、涙があふれた。
どうして泣いているのか、自分でも分からなかった。
ただ、苦しかった。
夢中でスマホを開き、幼なじみに電話をかけた。
「もしもし? どうしたの?」
「……。」
嗚咽で言葉にならない。
幼なじみは急かすこともなく、黙って私の言葉を待ってくれた。
全部聞いたあと、少し落ち着いている自分がいた。
「とにかく、一回戻りな。」
その優しい声に背中を押され、私は電話を切った。
個室を出ると、彼はいつもの笑顔で立っていた。
「もう始まるぞ。行こう。」
それだけ言って歩き出す。
怒っていないの?
感情が読めない。
どうして何も聞かないの?
彼が分からない。
いつもの速さで歩く彼の背中を、私は少し遅れて追いかけた。
映画を見終わると、彼は言った。
「俺、今日家の手伝いあるから帰るわ。じゃあな。」
私は無言で彼を見送った。
赤くなった目を見られたくなくて、少しだけうつむきながら。
別れ
彼と別れた。
経緯や話した内容は、よく覚えていない。
でも、悲しい感じではなく、いつもの明るいトーンだったような気がする。
私の記憶は、ところどころ抜け落ちている。
別れたあとも、彼はバスで私の隣に座ってきた。
どうしてか分からなかったけれど、そのままにした。
頭をなでられたり、「かわいい」と言われたりもした。
この辺の記憶も、あまりない。
ただ、別れてからの方が、よく話して、仲良くなったような気がする。
復縁
ある朝、彼から電話がかかってきた。
バス通学の朝は早い。
彼も私も、四時には起きている。
話した内容は覚えていない。
ただ、彼に復縁しようと言われた。
私は、「いいよ」と言った。
どんな話をして、私がどう感じたのか。
全く覚えていない。
ただ、電話で話したのが朝四時だったということだけは、今でも覚えている。
クリスマス
クリスマスプレゼントに、マフラーとブランケットをもらった。
うれしかった。
今も押入れの中に眠っている。
あれを、どうしたらいいのか、わからない。
始まり
年末、いつもは下宿先にいる姉が、実家へ帰ってきていた。
うれしい。
自撮りアプリで遊んで、お腹が痛くなるくらい笑った。
面白い写真が撮れたので、彼に送った。
笑ってくれるかなと思った。
すぐに既読がついた。
そして――。
「は?」
「お前、心ないの?」
「俺は今日具合悪くて寝込んでるのに、なんでそんなアホみたいな画像送ってくるわけ?」
画面に、新しいメッセージが次々と表示される。
言葉が、一本一本ナイフみたいに胸へ刺さった。
え、何?
怒っている?
謝らなきゃ……。
私は慌てて返信する。
「ごめん。」
「本当にごめんね。」
でも、謝罪の言葉は、彼から送られてくるメッセージの隙間に滑り込んでは消えていった。
「俺がなんで怒ってるか理解してねーだろ。」
「そんなごめんなんて意味ねーし。」
「お前、勉強しかできねーんだな。」
やがて返信は止まった。
静かになった画面を見つめたまま、動けない。
どうしたらいいんだろう。
彼に嫌われた。
世界から色が消えたようだった。
翌朝、スクールバスに乗った彼の顔をちらりと見た。
朝のバスは静かで、誰も話さない。
彼は私を見もしないで、後ろの方の席へ行ってしまった。
放課後。
私は早めにバスに乗り、ドキドキしながら彼を待った。
彼は無言で私の隣に座った。
怖い。
顔が見られない。
うつむいたままつぶやく。
「昨日はごめんね。」
少しの沈黙。
「……もういいよ。」
彼は静かに言った。
「もうするなよ。」
「うん……。」
少しの沈黙。
それからは何事もなかったように、いつもの話をした。
軽口を言って、私の大好きな笑顔で笑う。
私は安心した。
ああ。
私が少し失敗しちゃっただけなんだ。
次から気をつければいい。
そう思った。
でも、違った。
あれが始まりだった。
夢
わたしは、担任と廊下で進路について話していた。
「××は教員志望か。合っているんじゃないか。」
帰りのスクールバスで、彼は言った。
「教師なんてやめとけ。」
教師には、嫌な思い出があるそうだった。
困惑した私は、スクールバスを降りたあと、迎えに来た父に相談した。
彼の名前も、性別も伏せて。
父は言う。
「世の中には、関わらない方がいい人もいる。考えてみなさい。」
ずっと尊敬していた父。
大好きな彼。
大切な夢。
私の中で、心の天秤がぐらぐら揺れている。
どうしたらいいのか、分からない。
繰り返す
ああ、またか。
彼からのメッセージが止まらない。
「お前、心ないの。」
「勉強はできても、それじゃ意味ないな。」
「お前のこと、みんな嫌いだよ。」
「消えたほうがいいんじゃね。」
画面をスクロールしても、終わらない。
言葉が一つ届くたび、胸の奥にナイフが刺さる。
さっきまで、彼と電話をしていた。
私は宿題をしながら、スマホをスピーカーモードにして彼の話を聞いていた。
彼は勉強のことで悩んでいると言った。
私は相槌を打ちながら、ノートに英単語を書いていた。
突然だった。
「……お前さ。」
彼の声が変わる。
「ちゃんと聞いてる?」
その瞬間、電話が切れた。
そして、ナイフのようなメッセージが次々と送られてきた。
ノート
私は机の引き出しから、いつものノートを取り出した。
新しいルールを書き足す。
「彼が悩み相談をしているときは、鉛筆を置く。」
ページは、ほとんど黒く埋まっていた。
彼の具合が悪いときに自撮りを送らない
彼のお腹をさわらない
彼に勉強の話をしない
彼に夢の話をしない
テストでいい点を取らない
スピーカーモードで話さない
電波が悪いところで電話しない
女友達と彼の話をしない
中には、確かに私に非があるとはっきり分かるものもあれば、どうしていいのか分からないものもあった。
だんだん、何が悪いのか。
何がいいのか。
分からなくなってきた。
私は少し疲れていた。
今回は、いつまで続くんだろう。
前は一週間、口をきいてもらえなかった。
だから今回は、八日くらいかな。
そんなことを考えている自分がいた。
彼は、ときどき突然怒り出す。
それは、私が何かを間違えたとき。
怒り始めると、彼は私に冷たい言葉を浴びせる。
学校ですれ違えば、睨まれる。
私のことだと分かるように、友達の前で悪口を言われる。
私は、ただ彼の怒りが静まるのを待つ。
そして、しばらくすると彼は元に戻る。
「ごめん。」
「俺も怒りたくて怒ってるわけじゃない。」
「お前がいないとダメなんだ。」
「どこにも行かないで。」
その言葉を聞くたびに、私は信じた。
いつか、このノートが必要なくなる日が来る。
私が間違えなくなれば。
彼は、ずっと優しいままでいてくれると。
離れられない
ときどき、おかしいなと思うことがある。
付き合うということは、彼とこれからも一緒にいるんだろう。
でも、彼と一緒に住んだら、私は幸せになれるのだろうか。
幸せな私が、想像できない。
別れた方がいい。
そう思った。
彼に電話をかける。
「別れよう。」
彼は言う。
「じゃあ、俺、死ぬから。」
電話が切れる。
動悸がする。
どうしよう。
かけ直すが、彼は電話に出てくれない。
ふと、彼の家の電話番号を思い出した。
「俺の家の電話番号、覚えやすくてさ……。」
前に彼が言っていた。
私は携帯電話にその番号を打ち込み、電話をかけた。
しばらくダイヤル音が続いたあと、女の人の声がした。
彼の名前を言って、
「宿題を聞きたいので、代わっていただけますか。」
と頼んだ。
「××?」
女の人が彼の名前を呼ぶ。
「なにー?」
彼の声がした。
ほっとした。
彼は電話口に出ると、冷たい声で言った。
「家族に迷惑かけんな。まじでやめて。」
彼は怒っていた。
でも、私は安心した。
彼が死ななくて、よかった。
宝物
私は彼に言った。
「ハグしたい。」
彼は放課後、人気のない食堂へ私を呼び出した。
ハグをして、流行りのアプリで自撮りをした。
彼は笑っている。
私も笑っている。
その写真は、私の宝物になった。
どこに行ってしまったのだろうか。もう、ないけれど。
ゲーム
彼が誕生日にゲームソフトをくれた。
バスで一緒に対戦をした。
彼の圧勝だった。
私は途中であきらめてしまった。
空気が変わる。
「は?」
「買ってやったのに何それ?」
「お前、全力じゃないだろ。適当にやってんなよ。」
その日から私は、夜にゲームをすることにした。
宿題が終わってから、夜、布団の中でゲームをする。
明かりが見えたら、お母さんに心配されるから。
姉が買ってきたカフェイン剤を飲んで、眠らないようにした。
翌朝四時までゲームをする。
そろそろお母さんが起きる時間だ。
ゲームを消して、寝たふりをする。
一週間後、また彼と対戦をした。
攻略サイトを調べて、最善のメンバーで挑んだ。
勝った。
うれしかった。
「いや、今の俺の勝ちだから。」
「お前の画面、間違ってるよ。」
あれ?
勝っても彼はうれしくないの?
私、また間違えた。
また、ノートに書かなきゃ。
友だち
「ねえ、××ちゃん、大丈夫?」
仲のいい友達に聞かれた。
「まじ、あいつ××ちゃんに害しかないじゃん。」
私は半笑いをした。
友達のことは好きだ。
でも、彼を否定するわけにもいかない。
だって、私が間違えなければ、彼は優しいし……。
でも、おかしいのかな。
最近、成績も下がってきた。
親とも話したくない。
家で笑っていない。
バスで笑っていない。
彼も、いつも怒っていて苦しそう。
ああ。
別れた方がいいのかな。
彼にメッセージを送った。
「日曜日、話したいことがある。図書館へ来て。」
カッターナイフ
彼が来た。
手にはカッターナイフ。
私の心は冷静だった。
こういうときは、刺激しない方がいい。
見ない方がいい。
私は彼の目を見た。
手は見ないことにした。
「なに? あ、これ?」
「これは、俺がお前を殴ったときに、お前が自分を守るためのもの。」
彼は、いつものように笑っている。
カッターナイフを地面に放った。
「取れよ。」
私は見ないふりをした。
「別れねーからな。じゃ。」
彼は行ってしまった。
私は彼を追いかけた。
彼は裏道をすいすい進んでいく。
気が付いたら、大きな電気屋さんにいた。
彼はトイレに入っていく。
「来い。」
目で合図される。
断るわけには、行かない。
「脱いで。」
服を脱ぐ。
「全部脱いで。」
靴下と靴以外全部脱ぐ。
「そこに座って。」
トイレに座る。
彼は私の体をさわっていく。
わたしは嬉しかった、と思う。
だって、彼がこういうことをするときは、機嫌がよくなる合図だから。
シャッター音
ビデオ通話をしながら、彼はときどき私に言う。
「見せて。」 そういわれたら、私はトイレに行く。
服を脱いで彼に体を見せなければいけない。
自分で触ったりして、彼を喜ばせなければいけない。
苦しくはない。
でも心と体がはなれて、自分の体を遠くから眺めているような気分にもなる。
大丈夫。これで彼が優しくなる。うれしい。
『カシャ』
カメラの音がした。
その瞬間、私の心は体に戻ってきた。
「弟が隣にいて、スマホを使ってるんだよ。」
彼は少し言い訳をするように言う。
怖い。
もし私の写真を撮られていたら、どうしよう。
その夜、私はインターネットで調べた。
リベンジポルノという言葉を知った。
デートDVという言葉も知った。
ああ。
これは、デートDVなのかもしれない。
そう思った。
別れなければならない。
そう思った。
ホームステイ
帰りの会で、海外ホームステイ募集のチラシが配られた。
行きたい。
父に相談すると、「いい経験になる」と背中を押してくれた。
応募文を考えて、応募した。
そのことを彼に話した。
すると、彼は冷たく言った。
「俺さ、今度脳の手術で入院するんだよね。」
「彼氏がそんな状況なのに行くの?」
やめるしかない。
私は父に言った。
「やっぱり、やめる。」
父は怒った。
「××くんだろ。」
「もう彼と付き合うのはやめなさい。」
「彼の両親のことは知っている。社会的に抹殺することだってできる。」
気持ち悪かった。
なぜそう思ったのか、もう覚えていない。
でも、「気持ち悪い」と感じたことだけは、はっきり覚えている。
この日から、私は家で一切話さなくなった。
気づく
教室で課題をしていると、彼の友達が私の席へ来て、一枚のメモを置いた。
放課後、非常階段。
彼の字だった。
春だけど、寒い日だった。
雪がちらちらと降っている。
私はコートを膝に掛け、図書館裏の非常階段に腰を下ろして彼を待った。
しばらくして、彼が来た。
私の姿を見るなり言う。
「お前、こんなときでも自分のことかよ。」
私は何を言われているのか分からなかった。
「コートなんか持ってきて。」
ああ。
またノートに書き足さなきゃ。
彼に呼び出されたときは、コートを持って行かない。
そう思った次の瞬間だった。
視界が回る。
何が起きたのか分からない。
気がつくと、私は冷たいコンクリートの上に倒れていた。
空が見える。
雪が、顔に落ちてくる。
……ああ。
投げられたんだ。
彼は私を背負い投げしたらしい。
ぼんやりしていると、彼は手を差し出した。
私はその手につかまって立ち上がる。
「何その顔。」
「なんでいつも冷静なの。」
「心無いんじゃねーの。」
そのまま胸ぐらをつかまれ、壁へ押しつけられた。
彼は隣の壁を、何度も殴った。
泣きながら。
拳を振り下ろすたび、鈍い音が響く。
私は動けなかった。
そんなに大きな声で泣いたら、誰か来ちゃうよ。
ぼんやり、それだけを考えていた。
どれくらい時間がたったのだろう。
彼は私から少し離れた場所に立っていた。
拳から血が流れている。
私はポケットから絆創膏を取り出し、彼へ差し出した。
彼は泣き笑いで言った。
「いらない。」
遠くから足音が聞こえた。
「やばい。」
彼は私を植え込みの陰へしゃがませ、自分は涙をぬぐって歩いて行った。
「どうしたの、××くん?」
「いやー、教科書忘れちゃって。」
笑いながら答える声が聞こえる。
足音は、そのまま遠ざかっていった。
私はその場にうずくまった。
息がうまく吸えない。
涙があふれる。
声を出したらだめ。
誰にも聞こえないように。
そう思うほど、嗚咽は止まらなかった。
「やっぱりここにいた。」
気がつくと、知らない先生が立っていた。
その先生は私と同じ目線までしゃがみ、何も聞かずに背中をさすってくれた。
その温かさに、また涙があふれた。
その後、担任の先生のところへ連れて行かれた。
事情を聞かれた。
私はたくさん嘘をついた。
彼が悪く思われないように。
彼を守るために。
何を話したのかは、もう忘れてしまった。
帰りの電車。
彼は何事もなかったように隣へ来た。
「大丈夫?」
彼の目は少し赤かった。
それでも、いつもの笑顔で笑っていた。
あれ。
この恋は、少しおかしい。
面談
それから、放課後によく担任と面談をした。
困っていることや、彼のことを聞かれた。
私は本音を話すこともあれば、少し嘘をつくこともあった。
彼に「別れたら死ぬ」と言われたことは、そのまま話した。
担任はそばにあったゴミ箱を蹴って、言った。
「すげーむかつく。」
本気で怒ってくれた。
わたしのために怒ってくれることが不思議で、少しうれしかった。
苦しい
私は、家で話さなくなっていた。
親と話すのが嫌だった。
帰りの電車も苦痛だった。
彼がいつ怒り出すのか分からなくて、毎日びくびくしていた。
学校が終わってから、放課後に親友と話す時間だけが私の救いだった。
その頃は、周りの友達によく心配された。
「ねえ、大丈夫?」
夜は眠れず、気づけば泣いている日も多かった。
きっと、ひどい顔をしていたのだと思う。
テーマパーク
ある日、親友がテーマパークへ誘ってくれた。
夢みたいな一日だった。
怖いものがない場所で、大好きな友達と笑い合う。
久しぶりに、心から楽しいと思えた。
そのときだった。
着信音が鳴る。
「ねえ、鳴ってるよ。」
私は友達のスマホだと思った。
でも、親友は何も言わず、私のスマホを指さした。
画面には、彼の名前が表示されていた。
私はトイレへ駆け込み、電話に出た。
「何、この音楽。」
彼の声は冷たかった。
「今どこにいるの。」
私は答えられない。
「俺、今日手術のために入院してるって言ったよな。」
沈黙。
「俺を置いて楽しんでるの?」
また沈黙。
「お前、本当に最低だな。」
電話が終わる頃には、さっきまで色づいていた景色が白黒に変わっていた。
音楽はもう聞こえない。
耳鳴りだけが響いていた。
「……夜、話そう。」
それだけ言って電話を切り、私は何事もなかったように友達のところへ戻った。
傷の理由
その夜。
彼から電話がかかってきた。
彼は私への文句を途切れることなく言っている。
気づけば私は、家を出て歩いていた。
田舎の夜は暗い。
街灯もほとんどない。
道路を渡って、近くの橋へ向かう。
川の流れる音だけが聞こえる。
しばらくして、彼が小さく息をのんだ。
「……なあ、今どこにいるんだ。」
さっきまでとは違う、焦ったような声だった。
「ねえ、明日ハグしてあげる。」
「××、ハグ好きだろ。」
その声は、とても優しかった。
私は何も答えなかった。
ただ、橋の下を見つめていた。
遠くから、明かりが見えた。
「××!」
「どこにいるの!」
両親の声だった。
ぼんやりしていた頭が、一気に現実へ引き戻される。
まずい。
夜中に家を抜け出している。
電話をしながら橋の上に立っている。
見つかったら、なんて説明すればいいんだろう。
恥ずかしい。怖い。分からない。
頭の中が真っ白になった。
気づくと、私は橋の欄干をよじ登っていた。
次の瞬間には、もう落ちていた。
目が覚めると、病院のベッドの上だった。
母が私の顔をのぞき込んでいる。
「こんちくわ。」
私がそう言うと、母は困ったように笑った。
母は、頭蓋骨と腰の骨が折れていること、一日眠り続けていたことを静かに教えてくれた。
そして、割れたスマホを私に見せた。
「これは処分しておくね。」
画面は蜘蛛の巣のようにひび割れていた。
それを見て、私はなぜかほっとした。
理由は分からなかった。でも少し安心した。
それから私は、毎日リハビリをした。
家族とも、少しずつ話せるようになっていった。
つながらない
病院にいる間、何度か公衆電話に彼の番号を入れた。
「お掛けになった電話番号は、電波の届かないところに……。」
何度かけても、つながらなかった。
退院
一か月後、退院が決まった。
久しぶりに家へ戻り、大好きな本を読んでいると、隣の部屋から祖母と両親の話し声が聞こえた。
「転校も考えたほうが……。」
私は部屋を出て言った。
「学校に戻りたい。」
また、友達に会いたかった。
登校
久しぶりの登校日。
母は「車で送ろうか」と言ってくれた。
私は首を振り、いつものスクールバスに乗った。
遠くに彼の姿が見えた。
彼は、一度もこちらを見なかった。
教室のドアを開ける。
「おはよう。」
普段ほとんど話さない男子が声をかけてくれた。
その瞬間、友達が駆け寄ってくる。
「久しぶりー!」
私は、ようやく息をついた。
帰ってきた。
そう思えた。
さよなら
テスト最終日だった。
帰りのバスで本を読んでいると、彼が甘い匂いのするお菓子をもってバスに乗り込んできた。
「お疲れー。」
一番後ろに彼と仲のいい友達が座っている。
一番後ろの席から、前の方へ、バスにいる人たちにお菓子を配って歩いている。
わたしは前から2番目の席に座っている。だんだん近づいてくる。
そして、私の隣で止まった。
「やっぱ、お前も欲しかっただろ?」
彼はいつもの笑顔だった。
チョコパイを差し出す。
私はゆっくり顔を上げた。
「あのとき……。」
声が震える。
「電話しながら、あんなことしてごめん。」
ずっと言えなかった。
苦しかった。怖かった。
彼を傷つけたんじゃないかと思っていた。
やっと言えた。
彼は少し黙ってから言った。
「俺ら、もう関わるのやめよう。」
また少し間が空く。
「俺、もうこんな面倒事ごめんだから。」
そう言って、彼は笑った。
そのまま、後ろの席にいる友だちのところへ行った。
私は、その背中を横目で見送った。
最後に
あれから十年がたった。
私は教師になり、結婚して、幸せに暮らしている。
でも、あのときのことを、ときどき思い出す。
夜に外へ出たとき。彼と似ている人を見かけたとき。高いところから下を見おろしたとき。
胸が苦しくなって、動悸がしたり、不安が止まらなくなったりする。
でも、一人ぼっちで不安だった私を助けてくれたのは彼だ。
幸せだった思い出も、確かにある。
あの経験をどう表したらいいかわからない。
「よかった」とは言えないし、「最悪だった」とも思わない。
彼はどうだろうか。気になる。でももう聞く機会はないし、聞いてはいけない。
元気だろうか。苦しくないだろうか。悩んでいないだろうか。
どうか幸せでいてほしい。
ねえ、あのとき、さよならと言ってくれてありがとう。
