秘める美学
「ええ、最初はベンツの購入を考えていたんです。3年前に父が他界しまして。遺してくれたものが多少ございますの。3年経って、やっと、使ってみようかな、と気持ちが変わりまして。
ヤナセに何度か足を運びました。Sクラスもいい、でも、GLEも捨てがたい。なにせ初めてのベンツなものですから。悩む過程も楽しいものでございます。
わたくしももう還暦を過ぎましたから。運転するなら、今のうちと思いますの。
カスタマイズも、無限にあるんですのね。座席のレザーは、ええ、これはすぐに決めました。マヌファクトゥーアのナッパレザー。これ一択ですわ。惚れました。
4回ほど試乗しまして。買う気満々だと思われていたでしょうね。実際、そのつもりでした。
いよいよ購入を決めて、契約に訪れた日。
試乗車の座席を覗いて、ナッパレザーを撫でてみましたの。
恍惚の手触り。
香りをたとえるなら、雨上がりのアマゾンの密林。
え?南米に旅行したことなど、ございませんわ。
レザーの香りをかいだ途端、数十年前の光景が、脳裏に蘇りました。
出勤前の父の姿。
ピカピカに磨かれた革靴。
かがんで履く背中。
わたし、契約せず、そのまま店を後にしました。
父は、経営者でした。
曽祖父が興した畳店を継いだ形です。海外で畳が売れ始めた時代がございました。小さな商店を継ぎ、世界展開した功績は父のものです。英語に明るかったものですからね。
父がこう言うのを、人生で二回だけ、聞いたことがあります。
「自分にとって最も価値あるものは、誰にも見せない時にこそ、一番輝く」
私に言い含めた、というよりは、呟きのような言い方で。
とても印象に残り、私の中に焼きつきました。
ヤナセでレザーに触れた時、この父の哲学を思い出したんですの。
父はMITを中退しております。
学半ばで、家業に戻るより仕方がありませんでした。
MITが父の誇りであり、挫折でした。
それを誰にも申しませんでした。
在学証明だけが、書斎の一番下の引き出しに入っておりました。
父は、最も価値のあるものを、見せませんでした。
同時に、最大の苦悩も。
左脚は義足でした。
先週、ヤナセから納品がございました。
え?ああ、そうそう、けっきょく発注しましたの。
昨年主人が早世致しました。子どもは独立して遠方におります。この邸に、いまはわたくし一人ですの。
いえ、不自由はございません。これでけっこう、気ままに暮らしておりますのよ。
時々来客はございます。
でも、お客様を二階に上げることは、まずありませんの。
二階に出入りするのは、わたくしだけですわね。
二階のトイレの便座。
新調致しました。
マヌファクトゥーアのナッパレザー、総面張り。
特注で。
え?まあ、もちろん、それなりの金額ではございましたよ。
価値あるものを、わたくしの中にだけ秘めて、愛でる。
父の生きざまに、少しだけ、近づけたように自負しておりますの。
使用感……。
ええ……革を濡らさないように、気を使いますわ……工夫しております。
え?どんな工夫か?
まああなた、その想像、ご自重なさいませ。
わたくしの最大の苦悩?
それも、トイレの中に秘めておりますのよ。
長年、
肛門科にお世話になっておりまして……。
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