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【短編小説】くちびるに、歌と、ソーダ

    「…ではお聴きください。『大地讃頌』、歌は東京混成合唱団の皆さんです。…」

    ラジオから不意に流れ出したメロディに、私は掃除の手を止めた。

    こんなに、有名な曲なのに、歌ったことないんだな。そっか、みんな知ってると思ってたよ。…面白いよな。そういう、思い出の違いってさ…

    そうやって私の言葉に笑いかけてくれた、あの柔らかな表情を私は目の奥に浮かべた。
    日枝くんの、あの笑顔が見たい。あの声が聴きたい。私は喉や目元に、ぐっと熱いものが込み上げそうなのを堪えて、廊下にワイパーを滑らせた。埃と一緒に、いつまでも停滞している彼への思いまでも拭い去ってしまいたかった。

    ほとんどが同じ「首都圏」育ちの同期たちの中で異質な存在だった私を田舎者扱いすることもなく、自然に受け入れてくれた日枝くん。
    「俺も大崎みたいに『転校生』だったからさ」と、自分の幼い頃の話をしてくれたあの時の表情を、私は10年経っても忘れることができないでいた。
    彼の隣に居られれば良かった。
    でも、彼の隣に居ることができる資格を、私は持ち続けることができなかった。
    日枝くんを好きになる女の子は何人もいたし、彼は楽しいもの、美しいものは何でも好きだった。広がり続ける彼の世界の中で、私の存在がどんどんちっぽけになっていくようにしか感じられなくなっていった頃、私は彼の前でうまく笑うことができなくなっていった。

    「ヨリコはどうしたいの」
    「どうして、そんなに自分を卑下するの」

    日枝くんから私に投げかけられる言葉は、いくらのその響きが穏やかでも、私を見つめる彼の視線が柔らかくても、私には棘だらけのボールのように思えた。それを投げられるたびに私は目に見えない血を流したが、彼にはその痛みを伝えることはできないように思えた。彼の眩しさから目を背けようと、見知らぬもの同士が酒を飲むような場に身を置いてみたりもしたが、自身を余計に傷つけるだけだった。

    そのうち、彼は私に別れを告げたのだ。
    どうやっても分かりあえない苦しさを理由にして。

    本当は分かりあう必要などなかったのだ。違う人間同士が、違うものを見ている。その差異を面白がり、必要な時には譲り合う。
    彼の世界が眩しすぎたなら、素直にそう伝えさえすれば。

    一緒にふたりで歌ってみようよ。
    ははなーるー、だいちーの、ふとーこーろーに…
    え、もうあと分かんない?
    じゃ、教えるから。
    われらー、ひとのこの、よろこびーはーある…
    さんはい。

    あの、狭い私のアパートに2人きりで、そうして小さな声で歌ったときの彼のしっとりと湿ったシャツの感触。窓を叩く雨音。
    そして、ボディソープと浴室洗剤の香り。全てがつい昨日のことのようだった。

    私は、ワイパーから外したシートで玄関の三和土をごしごしとぬぐうと、そのままゴミ箱へとシートを叩き込んだ。洗面所の冷たい水で手を洗いながら、私は視界がどんどん歪みぼやけてゆくのを止めようと目元に力を込めた。

    何度も、彼に連絡しようとしてはできなかったこの長い年月。回転する覗き絵のように、彼の幻を追い続けたかつての自分の姿がぎこちなく瞼に浮かんでは消えた。
    彼の姿にそっくりな細長い後ろ姿を目にした時は、走って追いかけたかった。一緒に研修に通った時の乗り換え駅では、いつもホームに数分佇んでしまった。
    そして、「大地讃頌」を耳にすると、いつも涙が込み上げてしまった。

    項垂れた私の耳に、微かにスマートフォンの通知音が響いた。
    冷たい水で顔を洗い、タオルで乱暴に拭うと、私は薄暗い廊下を抜けて温かな陽射しの注ぐ居室へ向かった。

    《近くにいるんだけど、まだだったら飯でもどう?》

    メッセージの送り主は同期の島くんだった。同じ沿線に住む彼とは、たまに連絡を取り合って食事をすることがあった。2人だったり、もう1人2人別の同期を交えて、だらだらと近況や昔話をして、大した盛り上がりもなく解散するのだ。

    《いまから、支度するから。先に適当にいろいろ決めてていいよ》

    私は返信を済ませると、眉毛を書き足し適当なヘアクリップで髪を束ねメガネをかけ、マスクを付け、ジーンズとパーカーに着替えてアパートの外へ出た。

    かつては私の世間知らずぶりをあげつらっては笑っていた島くんだったが、今では貴重な友人のうちの1人だ。一度遠方の事業所に赴任した経験が、もしかすると、彼のもともとの人懐こさを残して若さゆえの尖りを削ぎ落としたのかもしれない。
    指定されたファミレスまでは徒歩5分。家の延長のようでありながら人の目が届くその場所で、慣れた存在の島くんとの会話によって、私は気分を少し安らげたかった。

    到着して店内を見渡すと、島くんは、バス通りが見下ろせる窓際の席を陣取っていた。

    「よう。なんか、お前顔色いつもより悪りぃな」
    「すっぴんみたいなもんだから」

    席に着いた私が、マスクと小さなショルダーバックを外して置いたところで彼は切り出した。
    「あのさ、日枝…の話、聞いたか。転職して、しばらく経つだろ。結婚したって」

    脂の強い匂いが、会話を遮る。

    「お待たせしました、こちら、ミックスピザとフライドポテトです」

    彼は私の顔から視線を外して、テーブルの上のメニューをまとめて店員が皿を置くスペースを作った。

    私は、タブレットを操る手を止めずに、次々とメニューのページをめくった。スパゲッティ、グラタン、お子様ランチ、デザート、ドリンク。

    「…そうなんだ。ハガキでも来た?」
    目線は、季節のパフェを凝視した。
    どこのチェーンも今はいちご、いちご、いちごだ。ファミレスのデザートに二千円近く使うなんて、この上ない贅沢だ。

    これと、チョコレートパフェと、タワーのように積まれたパンケーキ。全部頼んだら島くんはどんな顔するかな。

    私は次々とボタンを押していった。注文確定ボタンを押すまでは、どんな妄想も私の自由だ。
    私の手元を不安そうに見つめながら、島くんはテーブルの端に置いたスマートフォンの画面を操り、片眼で覗き込んだ。

    「メールで、結婚式の出欠確認が来たんだよ。多分、男連中数人にだけ」
    そう言ってため息をつくと、こう続けた。

    「他のやつが、女子にもしゃべったみたいでさ」

    手元の透明なソーダを、島くんはぐいっと大きく一口飲んだ。

    「お前の耳に、休憩時間に急にこの話が入るよりも…今日話しといた方がいいかなって思って」

    私は、タブレットの注文画面にドリンクバーを付け加えると、マイナスボタンを押下してパフェ2つを一覧から削除し、パンケーキを残したままで注文を確定させた。

    「お前、…しばらく引きずってただろ。日枝のこと」
    私が、ココアとコーヒーとフルーツジュースを盆に乗せて席に戻ると、島くんはピザを齧りながら言った。

    「あっ、そっか、ピザがあったんだ。じゃあピザにはコーラだ」
    私は、再び彼に背を向け、ドリンクバーコーナーへと戻った。なみなみとグラスの縁まで継いだコーラの泡が、ぱちぱちと音を立てて弾けてゆく。

    ピザとフライドポテト、そして大量の飲み物が並んだテーブルが、私と島くんをまるで対局中の棋士のように隔てる。次の言葉を言うのを、もう少し待ってほしい。これは、そう穏やかに言える自信がなかった私の戦法だった。

    彼の頼んだピザを一切れ私は勝手に取り分け用の小皿に滑らせ、口へ運んだ。あんなにさっきぐつぐつとしていた表面のチーズは、すっかりおとなしく平らになっている。

    「気ぃ使わせて悪いね。なかなか、しつこい女だからさ、私」

    ピザを飲み込んで、私はそう言いながら口元を紙ナプキンでぬぐい、コーラを一度に1/3ほど飲んだ。まだ生きていた泡たちがぱちぱちと口元で弾け、私はつい反射的に瞬きをした。

    「奥さんになる人、なんかすごそう。自宅で、エステしたり教室開いてたりさ」

    私がわざとらしく明るい口調で言うと、島くんは眉を少し寄せて呟き、一度に5本くらいのポテトをフォークで刺して口に詰め込んだ。
    「…知らねぇよ」

    「ムービーとか、演出はめっちゃ凝るんだろうな。結婚式の写真あとで見せてね。私の予想、どれくらい当たってるかな」
    「やめろ」

    私は彼の強い口調にすこしびくりと身を固くして、口をつぐんだ。
    空気の停滞したテーブルに、甘い香りが割って入った。
    「パンケーキタワー、お待たせいたしましたぁ」
    皿に積まれたふわふわのそれは、チョコレートソースとクリームで彩られいかにも幸せの食べものといった風体だった。

    「…ピザの分、一枚お返しにあげるよ」
    私は、手をつける前のその最高においしそうなパンケーキを一枚、小皿に移した。しっかりとクリームも添えて。
    「…いいよ、もっと、食えよ。ピザ」

    私たちは、しばらく目の前の料理と飲み物にだけ向かい合った。温かなパンケーキにクリームが溶けて液状になっていく前に、私はごっそりと最初の一枚とともにクリームを平らげた。島くんは、ピザ2切れを畳むようにして一度に口に放り込んだ。

    お行儀の悪い2人は、そうして食べ物の皿を空にすると交互にドリンクバーに立ち、再びテーブルには数種ずつの飲み物が並んだ。

    「…今、…これ何ご飯なの?もう4時半じゃん」

    沈黙を破ったのは、私だった。

    「知るか」
    炭酸を飲み干した島くんは、気に入ったのか同じ野菜ジュースを二つ目の前に並べている。

    日枝くんから別れを告げられた日、私がスーパーで大量の食材を買い込んでいるところを目撃し、話しかけてきた島くんの驚いた顔を私は思い浮かべた。
    プロテインと鶏肉を手に持ってたな、あの日。島くんは。

    「…もう、最近、筋トレしてないの」
    私はべたりとテーブルに肘をつき、ココアを啜りながら上目遣いで尋ねた。

    「…やってるよ。減らしたけどな。飯だって、いつもジャンクなもの食ってるわけじゃねーよ、週末とか…そういう時だけ」
    彼は手元のタブレットを弄びはじめた。くるくると、料理の写真たちが画面に躍る。

    お前こそ、随分丸くなったよな。

    彼はそう言いかけてやめたように見えた。昔なら絶対、そうやって私をからかったはずだった。私だって、彼のファッションや筋トレを、「なんかヤンキーっぽい」なんて評価したことがあったのを彼は覚えているだろうか。

    「俺が言えた話じゃないけどさ。お前、いろんな奴にからかわれたりしても、ほとんど昔は言い返さないで飲み込んでただろ。日枝のこともさ」

    彼は、タブレットの中のページをまるでスライドショーのように捲り続ける。

    「あの日だって、次の日だって、泣いてやるもんかって顔して…出勤してただろ。うまく、区切り、付けられんのかなって…なんとなく思ってた」

    私は、気の抜けた炭酸のグラスの汗を紙ナプキンで拭い、これは何味だったかなと思い出しながら見つめた。

    「昔は」

    グラスの中身を確かめるように、私は口元へそれを運ぶ。シャワシャワ、と頼りない炭酸がまだかすかに私の唇で弾けた。

    「意地張ってた。負けちゃいけないとか、前を向かなきゃとか」

    ジンジャーエールか。
    ぴりっとした刺激とかすかな風味が鼻を通り抜けるのを感じた後、私はやっと何の攻撃も防御もせずに島くんの目を見て答えた。

    「何の、後ろ盾もないし、味方もいないって思ってたから」

    彼は不意に、テーブルの向こうから私の方へ手を伸ばした。だらしなく置かれた私の指に、そっと島くんの指先が重なる。

    「…今は、そうじゃない…よな?」
    顎をテーブルに預け、私を見上げるように彼は小さな声で尋ねた。

    過去の軽口の懺悔とも違う、もっと、まっすぐで、温かさを帯びた声だった。

    私は少し戸惑ったが、首を縦に振った。
    彼の手はジュースのグラスのせいかひんやりと冷たい。

    窓の外はいつしかオレンジに染まり、眼下の通りには車の灯りと街灯が目立ってきていた。

    「味方扱い、していいんだね」
    彼の指先をそっと握り返すと、自然と目の奥から熱いものが溢れた。

    1人の時、…「大地讃頌」以外では、泣かないつもりだったのに。

    私は自分のルールが破られたような気がしたが、そうではなかった。
    今は、差し出された優しさと安心感で、心が解けただけなのだ。日枝くんのために流した、涙ではない。

    私は気が済むまで、涙が自然に止まるまで、そうしていた。ポケットのハンカチを空いた右手で取り出して静かに頬に添え、左手は、すっかりあたたまった島くんの指先を握り続けた。

    「ありがとう…、もう、大丈夫」

    そう言って私は彼の指先を離し、小さなバッグからティッシュを出して鼻をかんだ。島くんは、私がそうするのを顔を伏せながら見ていた。

    「抜けちゃったかな。炭酸」
    そう言って笑うと、私は片っ端からグラスの中身を一口ずつ飲んで確かめて笑った。

    「さっきさ、ここに来る前…ラジオ聞いてたら『大地讃頌』流れたんだよ」

    私はつい、目を丸くした。

    「昔、覚えてるか?お前がさ…歌ったことないって。実は、俺もそうだった」

    彼は決まり悪そうに紙ナプキンで口の周りを拭うともなく拭った。

    「覚えてたんだね、そんな話…したこと」
    私は、彼の口からそんな打ち明け話が発せられたことに驚き、頬を緩ませた。あの曲は、もう、苦しみが詰まったタイムカプセルではない。

    ひとつひとつ、こうして、手放していけばいいんだ。…炭酸の泡みたいに。
    無様でも、遅々としていても、私は前に進んでいる。きっと。
    すっかり、ただの砂糖水のようになったコーラを、私はテーブルの向こうに笑いかけながら飲み込み、彼も私に笑いかけた。

    「明日の休みは、早起きしてどっか行ってみないか?久々に車、運転したいんだ」
    彼は顎に手を当てておかしな決めポーズを作った。
    「親父の、おさがりだけどな」

    《完》


    ↓この小説の後日談です


     
     
     
    季節のうつろいや街をゆく人の姿から浮かんだ言葉を拾い上げ、散文や短歌、超短編小説をつづります。40代主婦。 無職で悶々とする日々の中、突然短歌を詠んでみたくなり2026年の初めから創作を始めました。 古い漫画や映画、アート作品なども薄くたしなみます。

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