
「置いてきたもの」第十五話|ありがとう
若手社員の異動の日が来た。
朝。
真琴はいつもより少し早く出社した。
フロアにはまだ人が少なかった。
照明も半分しか点いていない。
窓の外は曇っていた。
街はまだ完全には目覚めていない。
真琴は席に座る。
パソコンを開く。
メールを確認する。
スケジュールを見る。
今日の予定を確認する。
いつもと同じ朝だった。
少しだけ違うのは、
自分だった。
机の引き出しを開ける。
翔太の手紙。
十五年前のノート。
古い資料。
この数か月、
何度も開いたものだった。
最初は恐る恐る。
途中からは確かめるように。
そして今は、
静かに向き合えるようになっていた。
真琴は手紙を取り出す。
紙を開く。
困ったら言え。
言わないと思うけど。
それでも言え。
短い言葉だった。
初めて読んだ時は、
意味を受け止めきれなかった。
だが今は違う。
言えなかったのは、
十五年前の自分だった。
助けを求められなかった。
相談できなかった。
大丈夫な側に立ち続けた。
そして、
守れなかったと思い続けた。
真琴は静かに読み返す。
それから。
ゆっくり封筒へ戻した。
スマートフォンが震える。
宮城からだった。
一つだけ報告です。
短いメッセージ。
続きが表示される。
連絡先が分かりました。
必要なら送ります。
真琴は画面を見る。
しばらく。
本当に長い時間。
翔太。
十五年間、
会いたくなかった人。
正確には。
翔太と一緒にいた自分。
弱くてもよかった自分。
困ったと言えたかもしれない自分。
守れなかったと思う前の自分。
真琴は画面を閉じる。
すぐには返信しなかった。
答えは急がなかった。
もう急ぐ必要がなかった。
―――
昼休み。
社員食堂。
窓際の席。
真琴は昼食を取っていた。
しばらくして、
佐伯がやって来る。
トレーを持っている。
「ここいいですか」
「もちろん」
二人で向かい合う。
窓の外では人が歩いている。
向かいのビルに雲が映っている。
仕事の話。
異動先の話。
通勤時間の話。
好きなラーメン屋の話。
たわいもない話ばかりだった。
それが妙に心地よかった。
途中で。
佐伯が箸を置く。
少しだけ視線を落とす。
そして言った。
「相談できて良かったです」
真琴は顔を上げる。
佐伯は少し笑った。
「たぶん一人だったら」
少し間が空く。
「変な方向に行ってました」
真琴は笑う。
どこかで聞いた言葉だった。
いや。
何度も聞いてきた言葉だった。
十五年前から。
ずっと。
「そうかもしれないね」
それだけ答える。
佐伯は頷く。
それ以上は言わなかった。
真琴もしなかった。
十分だった。
佐伯は立ち上がる。
「ありがとうございました」
そう言って頭を下げる。
真琴はその背中を見送った。
深夜一時十二分。
「進捗について」
とだけ書かれたメールを送ってきた若手社員。
あの頃の姿はもうなかった。
大丈夫です。
そう言っていた若手社員。
その姿はもうなかった。
―――
夜。
帰宅する。
部屋は静かだった。
冷蔵庫の音。
遠くを走る車の音。
机の上のノート。
翔太の手紙。
真琴はスマートフォンを開く。
宮城からのメッセージはそのままだった。
長い時間見つめる。
それから。
入力する。
ありがとうございます。
それだけ。
送信する。
連絡先は聞かなかった。
聞こうとも思わなかった。
会えばいいわけではない。
話せばいいわけでもない。
それはもう分かっていた。
しばらくして。
返信が来る。
分かりました。
短い文章だった。
そして。
もう一通届く。
私もようやく、
箱を閉じられそうです。
真琴は画面を見る。
少し笑う。
十五年前。
宮城もまた、
何かを抱えていた。
自分とは違う形で。
自分だけではなかった。
誰もが何かを抱えていた。
それだけのことだったのかもしれない。
スマートフォンを置く。
部屋は静かだった。
真琴はノートを開く。
最後のページ。
守れなかった
途中で終わった言葉。
十五年間、
その続きが書けなかった。
その下に、
ボールペンを置く。
少し考える。
長い時間ではなかった。
もう答えは決まっていた。
真琴は書く。
一緒にやろう
文字を見つめる。
十五年前の自分への返事だった。
守れなかった。
その言葉で止まっていた時間が、
ようやく少しだけ動いた気がした。
真琴はノートを閉じる。
静かな夜だった。
―――
翌朝。
出社する。
若手社員の席は空いていた。
もうそこにはいない。
少しだけ寂しかった。
だが。
終わったとは思わなかった。
パソコンを開く。
メールが一通届いている。
異動した佐伯からだった。
件名はなかった。
本文は短かった。
困ったら相談します。
その下に。
ありがとうございました。
真琴は笑う。
そして。
迷わず返信する。
こちらこそ。
ありがとう。
送信する。
窓の外は晴れていた。
雲の切れ間から光が差している。
真琴はしばらくその光を見ていた。
十五年前のことを、
すべて思い出したわけではない。
何があったのか、
まだ分からないことも残っている。
けれど。
一つだけ分かっていた。
終わらせたと思っていた。
違った。
守れなかったと思っていた。
そして今は、
そう思い続けていた自分に、
ようやく追いつけた気がしていた。
真琴はパソコンへ向き直る。
メールを開く。
スケジュールを確認する。
仕事を始める。
窓の外では朝の光が広がっていた。
その光は、
どこか十五年前の西日に少しだけ似ていた。