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別れと出会い

    今朝咳き込むため病室に居られなくなり、朝4時前にデイルームにやってきた。

    そこには先客が男女で二人居た。表情は不安気でソワソワしていて、どことなくうつろだった。
    私は、「手術が早朝にあるから早めにきて待機してるのかな」くらいにしか思っていなかった。給茶器でお茶を汲みに行く時に二人の横をすれ違った。
    暗い雰囲気が漂う。。。この時点で何かを感じたが、「きっと難しい手術なのだろう、かわいそうに」という思いが頭をよぎって終わった。

    それからお茶を汲み、Kindleで購入した本を読んでいた。

    しばらくして女性が電話をし始めた。結構長めの電話だったが内容までは聞き取ることが出来なかった。それからしばらくしてまた一人別の女性がやってきた。この時の二人の会話を聞いて初めて理由がわかった。

    心臓が弱っているおじいちゃんの死期が近いのだ。

    それから続々と親戚がやってきた。今の病棟は新型コロナウイルスの影響で入院患者でも検査の時しか下界に降りられず、家族との面会も一切できないという制限を受けている。

    死期が近い一人の人間の最後の出会いまで阻害している。この病院ではコロナ時代のせいで一度に病棟に入っておじいちゃんに会えるのは2名まで。その組み合わせも悩ましいところだ。

    コロナはこんなところにも影響を与えている。

    でもこの2人ずつというシステムある意味いいのかもしれない。とにかくおじいちゃんに会って帰ってきた人はみんな泣いている。そしてデイルームに帰ってきて親戚と話をしているうちにだんだん気分が落ち着いてくる。そしておじいちゃんの昔話や近況、健康状態、生活環境、人との関わりについての話をして笑顔が戻ってくる。この笑顔は不謹慎ではなくいいことだ。

    こういう話の時、親戚の関係性がよく見えてくる。席どりからしてそうだ。孫達は通常円の外側に位置して傍観静かにしている。娘がいれば娘とじいちゃんの兄弟姉妹が主に会話を交わす。娘婿はどちらかというと孫の位置寄りだ。そのうち中心部の話が周りに波及して数カ所でそれぞれ話が始まる。いい形だ。
    人が減ればまた話の中心、話の内容も変わる。さっきまで一言も話さなかった人が急に話し始める。いい形だ。
    みんなそれぞれの思いを話せる、そんな形が理想だ。

    しかしこんな時代だから、【ソーシャルディスタンス】は意識した方が良い。葬儀で様々な地域から親戚が集まりお通夜の夜に密になり感染が広まった疑いのある噂もあるからだ。

    しかしいつも思うことだが、病気になり入院し昨日までなんでもなかった人が翌日早朝に突然危篤状態になるパターンはどれくらいあるのだろうか?詳しくはわからないが、それほどいないのではないだろうか?

    少なからず危ないらしいよという予感はしつつ、でも皆自分の日常がある。ましてやコロナ時代で面会謝絶でどうしようもないことだが、その会えなかった後悔がこの集会の中の会話にあふれている気がする。しかも、地元に住んでいなかった親戚はさらにその思いは強いだろう。

    とうとう全員が病室に呼ばれて行った。本人も親戚も幸せだったと思える最後になるよう願っています。

    話は変わりますが、もし自分が病人で死期を感じた時、やはり家族に一度は泣いて欲しいと思います。でもずっと泣いてる顔をみて旅立つのは後悔というか少し寂しさ申し訳なさを感じるのではないだろうか?と思っています。
    最後には夢や目標を語ってくれた方が子供達の未来を想像できて幸せになるかもしれない。

    人それぞれ


    人それぞれ

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