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K子...

    あらすじ
    東京で身寄りを無くし、10代半ばで大阪の親類の家に身を寄せたK子。やがて、〈パチンカス〉へと転落した彼女は、パチンコ店の常連客に奉仕し金を得たり、ヤクザ・アライと関係を持ち金銭をもらったりしていたが、そのお金もすべてパチスロで溶かすという生活を送っていた。
    ある日、アライとの薬物を用いた性交の果てに、警察に捕まったK子だったが、出所後、アライの組から追われる身となってしまう。
    命からがら、東京へと逃げたK子。そこで、かつての友人であるヴ―ドゥーと再会し、ガードマンの職を紹介されて再起を誓うのだった。
    ヴードゥーを筆頭に、ミニG、ヒラヌマといった同僚とガードマンとして働くことに生きがいを見出し、順風満帆にことが進んでいると思っていたある日、再びアライが目の前に現れたことで、K子の人生は大きく変わっていく…。

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    〈ここで速報です。本日、午後1時ごろ、大規模な陥没事故が発生しました。現在までに入っております情報によりますと、この事故で生き埋めとなっている方も多数いる模様です。繰り返します。本日、午後1時ごろ、大規模な陥没事故が発生しました…〉

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     男子便所の個室にうっすらと聞こえるハイテンポの流行歌。そのビートに合わせて、K子は首から上を激しく上下に動かした。
    「あぁ…もうアカン、出すわ」
     そう言うや否や、K子の喉奥深くに、ドロリとした生臭い液体が放出された。それを咳とともに便器に吐き出し、大量に引きちぎった備え付けのトイレットペーパーで口元をぬぐった。
    「はぁ~…スッキリした! K子ちゃん、また、たのむで」
     男はそう言うと、黄ばんだ乱杭歯をむき出しにしながら、くしゃくしゃになった1万円札を差し出した。
    「どうでもいいけど、ちゃんと風呂入ってる? クセぇんだけど」
     K子が金をむしり取ると、男は「そのクサさが、興奮するんやろ」とズボンを上げながら下品に笑った。K子は笑い声を背中で聞きながら男子便所を後にし、スロット台が並ぶシマに向かい躊躇なくしわになった1万円札を機械に滑り込ませた。ハイテンポの流行歌は、最近人気のバンドが歌う、メロウなラブソングに変わっていた。

     パチンコ中毒、いわゆる〈パチンカス〉になり、1年が経つ。この日も、10月に入りすっかり寒くなってきたが朝からパチンコ店に並び、整理券を受け取ってお目当てのスロット台を目指した。昼すぎまでは順調にメダルを吐き出していたが、夕方になるにつれて見る見るうちにメダルは減っていった。
     追加で突っ込む金がない――。
     そんなときいつも、K子は常連客の男性を誘い、便所の個室で奉仕する。口なら1万円、手だけなら3千円。いつしか男性常連客の間で、K子の奉仕は有名となり、あからさまにニタニタとした潤んだ目でねぶるようにK子を見るようになった。別にどうでもよかった。金が手に入り、スロット台と向き合っていられれば。

     ――1990年代、大阪。
     ちょうどこのころ、〈裏基板〉と呼ばれる正規のプログラムに手を加え、大当たり確率や出玉率を調整してあるスロット台がホールをにぎわし、主流となっていた。ギャンブル性は極めて高く、出るときは20万円でも30万円でも出るが、出ないときはとことん出ない。K子がのめりこんでいるスロット台〈家康〉もそうで、大勝ちしたときは、晩御飯は焼き肉だし、滞納気味の家賃を気前よく払ったりする。しかし、負ければ地獄だ。男性常連客のヘドロのような粘着質の精子が喉ぼとけのあたりにこびりついたまま、親指でボタンを押し続けている今も、財布の中身はすでに小銭だけだった。

     口で奉仕し手に入れた1万円は、ものの20分でなくなった。
     今日はツイてない――。
     舌打ちしながらK子が席を離れると、先ほどともに便所の個室に籠った男と、もう一人の常連客から声をかけられた。今日は少し浮いているので、一杯御馳走するという。ツイてる! K子は迷わず、彼らの後に続いた。
     パチンコ店の斜め前にある安居酒屋。2千円もあれば、それなりに飲め、それなりに食べられるので、現場作業員風の客や、若いサラリーマンたちでにぎわっていた。
    「ささっ! K子ちゃん、なんでも頼んでや」
     ヤニで茶色くなった紙製のメニューをK子に渡しながら、乱杭歯だけでなく赤紫の歯茎までむき出しにして、男が上機嫌でほほ笑んだ。
     生ビールが3つ到着し、ジョッキを合わせると3人は一気に半分ほど飲み干した。今日は、彼らの奢りなのだ。こんな安居酒屋で、遠慮などするものではない。K子は焼き鳥の盛り合わせから冷ややっこ、もつの煮込み、ポテトサラダと、思いつくままにオーダーし、生ビールも追加した。目の前の二人は、どちらが会計を支払うのか、けん制し合うように目線を泳がせた。
    「それにしても、K子ちゃんはまだ若いんやろ? ちゃんと働いた方が、将来的にもええのんちゃうか? ほら、見た目もまぁまぁやし」
     口で奉仕した乱杭歯の男が、お通しの枝豆を口に放り込みながら言う。
    「やってるよ仕事。ときどき、テレクラのティッシュ配ってるもん。でもヤだよ、働くの。クソだりぃじゃん。あーあ、どっかに金持ちいねぇかな。すぐに結婚すんのに…」
     中国人の店員が持ってきた追加の生ビールと、空になったジョッキを交換しながらK子は答える。実際に、K子は身なりこそ毛玉だらけの黒いスウェットの上下とみすぼらしいが、顔面のパーツは整っている方だった。くりっとした目に、気の強さがうかがえる鷲鼻、ルージュ映えしそうなポテっとしたくちびる…いわゆる男をそそる顔をしている。
     生ビールから始めたK子が3度目となるレモンチューハイのお代わりを頼むころになると、二人もすでに何杯かのビールを終えて熱燗を酌み交わしていた。ショートホープを灰皿に押し付けながら、ほろ酔いのとろんとした目を細め「なぁK子ちゃん、もう一回、お口でたのむわ」と手を合わせる。結局K子は居酒屋の便所で、二人を相手にし1万3千円を稼いだ。
     これで、明日も朝から並べる――。
     K子は、残ったレモンチューハイでぶくぶくと音を鳴らして口をゆすぐとそれを飲み干し、一人咥えたばこで居酒屋を後にした。

    2
    「俺もたばこちょーだい」
     素っ裸のままベッドで大の字で横になるアライが言う。先ほどまで、K子を相手に反り返っていた男根は、情けないくらいに萎れていた。K子は自分が吸っているスリムのメンソールを枕元の灰皿に置くと、アライのセブンスターに火をつけ、彼の口元に押し込んだ。

     大阪・京橋のラブホテル。K子が、明日、携帯代を払わないと止まってしまうと連絡すると、今から会おうとなった。今日は生理だったが、それでもかまわないと言うので、落ち合ってその足でホテルに向かった。
     アライは地元のヤクザで、半年ほど前にスロット店で出会った。「芸能人みたいやんけ」と標準語を話すK子に興味を示し、「俺、標準語の女、めっちゃ興奮するんや」といきなり体の関係を迫ってきた。それから月に2~3回、携帯代や光熱費、カードローンの支払い日の前に会い、抱かれては5万円ほどの金を受け取る関係が続いている。
     50歳を超えたアライの男性機能はすっかり衰えているらしく、セックスはいつも覚せい剤を用いたいわゆる〈キメセク〉であった。もちろん、ことが始まる前にはK子も足の薬指と小指の間に注射を打たれ、ともに乱れた。
     月に2~3回だけだし、シャブなんてたいしたことない――。
     実際にK子には禁断症状などもなかったし、クスリが切れてひどく落ち込むようなこともこれまで経験したことはない。クスリで壊れるのは嫌だった。スロットが打てなくなってしまうからだ。
     短く刈り込んだ髪の毛、背中に入る牛若丸の刺青、欠損した左手の小指…。見た目でヤクザだとは認識しているものの、K子はアライがどのような組のどのようなポジションで、何をシノギにしているのかなどはまったく知らなかった。金払いはいいし、〈パチンカス〉の臭く不潔な爺さん連中を相手にするよりよっぽどマシなので、身を委ねているだけだ。金だけで繋がっている関係にすぎなかったし、それで十分だった。
    「最近はどうや、こっちの方は」
     アライがセブンスターの灰をプラスチックの灰皿に落としながら、親指でボタンを3回押す動作をする。
    「昨日は閉店まで打って、6万負け。おとといの勝ち分、全部突っ込んじゃったんだよね。聞いてよ、隣の台が夕方から爆発してさ…」
     短い会話も、スロットやパチンコのことがほとんどだ。アライは短くなったたばこを消すと、K子の小ぶりな胸の先に着くピンク色の乳首に吸い付き、ヤニ臭い唾液を垂らしながら舌で転がした。K子もたばこを灰皿に押し付けると、すっかり膨張しているアライの下腹部に手を伸ばした。

    3
     ――半年後。
     東京・新宿。K子は小さなキャリーケース一つで、JR新宿駅東口の植え込みにある石段に腰かけていた。かれこれ、5時間近くも。その間、少しうとうとしたりした。昨夜、大阪から夜行バスに乗り、明け方に東京駅に到着した後、当て所なく中央線に乗り、新宿にやってきた。新発売の清涼飲料のサンプルを配っているらしく、アルタ前が賑やかだった。K子はその列に並ぶと、ミニスカートに商品ロゴの書かれたスウェットを着た黒髪ロングの女から、チラシとともに袋に入ったサンプルを受け取った。ほころびの目立つ、季節外れの茶色いツイードのハーフコートは、待ち合わせなどでごった返す自分と同い年くらいの東京の洒落た若者たちと比べ、異様に浮いていた。

     K子は清涼飲料を片手にキャリーケースをガラガラいわせて石段に戻ると、プルトップを開け、半分ほど飲み干した。考えてみれば、昨日の夕方に総菜パンをかじったきり、何も腹に入れていない。乾いた身体に、ピーチ味の微炭酸が染み入った。コートのポケットから財布を出し、中身を確認する。先ほど、たばこを買ったせいで、3百円ほどの小銭しかない。清涼飲料の残りを一気に空ける。たばこに火をつけ、缶を灰皿代わりにすると、深く煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。曇り空に消えていく煙を目で追いながら、K子は半年前の出来事に思いをはせた。

     その日も、朝から馴染みのパチンコ店でスロットに興じていた。前夜、アライと会い〈キメセク〉でもらった5万円が軍資金だった。乱杭歯の常連らが、順調にメダルを積み上げるなか、K子の台は鳴かず飛ばずで、最後の1万円に願いを込め、機械に滑り込ませた。滞納していた光熱費と家賃を、今日中に振り込まないといけない正念場だった。しかし、勝負はあっさりと終った。周囲から聞こえる大当たりの電子音、BGMで店内に流れる男女の純愛を歌った女性歌手のヒットソング…。メダルのなくなった台を呆然と見つめるK子の視界は歪み、立ち上がるとほとんど無意識のうちに、奇声とともにスロット台を何度も足蹴にしていた。すぐさま店員に取り押さえられ、そのまま警察に連行。尿から薬物反応が出て、K子は覚せい剤使用の罪で逮捕されたのだった。自分は大丈夫と思っていたが、いつの間にかクスリはK子の心身を蝕んでいた。初犯だったため、執行猶予付きの判決となったが、その後が最悪だった。

     刑事の取り調べで、覚せい剤をアライから打たれていたことなどを洗いざらい自供した内容が、なぜかアライ本人の耳に入っていた。後から聞いた話だと、アライは大阪・京橋を根城とするそれなりの勢力を誇る暴力団・島谷組の幹部で、K子が留置されていた警察署の刑事たちとも懇意の仲であった。アライの舎弟に捕まったK子は、久しぶりのシャバを満喫する間もなく、何をやって今の状況となったのかはわからないが、死んだ目をしている複数の女たちとともに、マンションの一室に監禁された。最初こそ、大きな声を出したりと抵抗していたものの、ナイフで耳たぶを削がれた瞬間、心が折れた。K子とほかの女たちは、このマンションで客をとらされた。そんな生活が3か月ほど続いたある日、一瞬の隙をついて逃げ出してきたのだ。下着のような格好の上にツイードのコートを羽織ったみすぼらしい姿で、小さなキャリーケースとともにパチンコ店に現れたK子を見た常連たちはざわついた。乱杭歯の男はK子に餞別の1万円札を握らせ、近くのコンビニで総菜パンを買い与えた。K子は商店街の婦人服店で安物のズボンと長袖Tシャツを購入すると、その足で一番安い運賃の東京行の夜行バスに飛び乗ったのだった。
     明け方に降り立った東京駅。居酒屋から出た生ごみをあさるカラスの群れが、蔑むようにK子を見ていた。

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     JR新宿駅東口を後にし、歌舞伎町へ足を向けると、コンビニで百円のおにぎりを買った。まだ昼間なのに、ケバケバしいネオンが灯る巨大なパチンコ店の前を通ると、K子のお気に入りだったスロット台〈家康〉のポスターが目についた。〈家康〉は東京でも人気らしく、先週からシマを増幅したようだ。K子は女子便所の個室に入ると、キャリーケースを開けて、改めて中身を確認した。ケースの中には、使い古したヘアアイロン、何枚かの下着類、ゲーム機と充電器しか入っていなかった。そもそも、このキャリーケースはK子の持ち物ではなく、部屋から逃げる際にほかの女から盗んできたものだ。K子は下着類を汚物入れに突っ込むと、パチンコ店を出て目についた質屋に飛び込み、キャリーケース、ヘアアイロン、ゲーム機と充電器で2千円を受け取った。すると、〈家康〉の小気味のいい大当たりの音楽が脳内で再生され、次々とメダルを吐き出す映像が頭のなかでフラッシュバックされた。
     コートのポケットに突っ込んだ手のひらが汗ばみ、強く握った2枚の千円札を湿らせる。
     K子は伏せていた視線を上げると、後ろ髪を引かれる思いでパチンコ店の前を素通りし、再びJRの方へ足早に向かった。一度「ワッ!」と短く叫んだ。驚いたすれ違うたくさんの通行人から好奇の目で見られる。頭がおかしくなりそうだった。一刻も早く、ここから立ち去りたかった。

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     新宿から地下鉄の丸ノ内線で3駅。K子は中野新橋駅に降り立った。神田川沿いに建つボロアパート。まだ、健在だった。K子がシングルマザーの母親と16歳まですごした場所だ。新宿でパニックに陥りそうになり、なぜかここに足が向いた。

     小学生のときに親が離婚し、K子は母親に引き取られた。昼はスーパーでレジ打ち、夜はスナックと、身を粉にして働く母親だったが、生活は困窮を極めた。腋のあたりが黄ばみ、サイズが合わなくなった体操着を着ることは、徐々に胸が膨らんできたK子にとって屈辱だった。いじめといういじめはなかったものの、学校で友だちは一人もできなかった。
     やがて中学校に入学すると、K子は不良グループに入り、夜な夜な遊び惚け、あまり家に寄り付かなくなった。このころには、母親にスナックで知り合った男ができ、その男が家に入り浸るようになっていた。中学校を卒業するころ、家に帰ると母親から「母さんね、この人と一緒になるから」と言われ、K子は男から「生活の足しにして」と10万円を受け取った。母親と男は方南町に部屋を借り、ボロアパートにK子を残して新たな生活を始めた。
     卒業後、居酒屋でバイトをしながらなんとか食いつないでいたK子は、毎晩のように大音量でレゲエのかかるクラブに通っていた。そこで知り合った社会人、大学生、専門学校生ら年上の仲間たちは皆、夢を持ち、格好よく見えた。そんな最中、ある日警察から連絡が来た。母親が自殺したという。あっさりと男に捨てられただけでなく、かなりの額の金を貢いでいたそうだ。
     孤独の身となったK子は、大阪に住む子どものいない母親の姉夫婦のもとへ引き取られたが、関係はまったくうまくいかず、部屋に引き篭もった。数年後、いよいよK子の存在を疎ましく思った夫婦は、半ば強制的に小さなワンルームマンションを借り、そこにK子を押しやった。ほどなくして、K子はテレクラのティッシュを配りながら、手に入れた少ない金でパチンコ店に入り浸る〈パチンカス〉へと転落していった。

     思えば、いまK子が置かれている状況のすべての元凶は、このボロアパートにあったとさえ感じる。気が付けば、鉄の味がした。知らぬ間に、水分のないパリパリに乾いた唇を強く噛みすぎて血が噴き出していたのだ。
    「クソが…」
     K子は、血が混じった唾をボロアパートに向けて吐いた。

     その日の夜、朝までの格安パックのあるマンガ喫茶に行くべく、K子は歩いて幡ヶ谷にやってきた。もともと、K子がバイトをしていた居酒屋のある街で、足しげく通ったクラブもこの街にあった。マンガ喫茶は、ネオンこそあのころに比べて黒ずんで光も弱いものになっていたが、営業していたのでほっとした。バイトしていた居酒屋は、跡形もなくなり、コインパーキングになっていた。K子は懐かしくなり、クラブの入る雑居ビルの前まで足を延ばした。地下に降りる、ステッカーだらけの汚い階段。うっすらと、レゲエの野太いベースラインが外まで響いている。あのころのままだった。踊り明かすと、仲間たちと階段の上に集まり、朝陽で街が紫に染まるまで他愛のないおしゃべりをし、近くの牛丼店で並盛をかき込んだ。自分の家に帰るのが億劫なときは、近所の仲間の家にそのまま泊まり、数人で雑魚寝して、そこからバイトに行ったりした。
    〈青春〉――。
     当時住んでいたボロアパートが悪しき人生の象徴であると同時に、K子に〈青春〉と呼べる時期があったとしたら、きっとあの時間のことを指すのだろう。
     感慨に浸ると鼻の奥がキュンっとなった。視界が、にじむ。
    「ん? あれ!? ひょっとして、K子?」
     気が付けば号泣に近い泣き方をしていた。鼻水を垂らしながら、名前を呼ばれた方を振り向くと、レコードバッグを肩からかけ、あごまで伸びたドレッドヘアに、アメフトのチーム名がプリントされたオーバーサイズのスウェットを着た男がいた。
     あのころの仲間の一人、ヴードゥーだった。

    6
     外から差し込む光と、コーヒーのいい匂いで目が覚めた。久しぶりに、ゆっくりと眠れた気がする。黒い合皮のソファから半身を起こし、K子は壁に掛けられた時計を見やる。朝の11時だった。
     昨夜、たまたまヴードゥーと出会い、彼のDJが終わるまでクラブで待った。終電をすぎたころ、ともに笹塚にあるヴードゥーの家に歩いて向かい、泊めてもらったのだ。過去に一緒に遊んでいたときに何度か訪れたことのある、古く小さな木造の一軒家だった。
    「お! 起きたのか、おはよう。コーヒー飲むだろ? 顔洗っておいでよ」
     すでに起きて、キッチンでコーヒー豆を挽き、ドリップさせていたヴードゥーが、タオルを投げてよこす。K子は洗面所に向かい、冷たい水で顔を洗った。鏡に映る自分。頬はこけ、目の下にうっすらとクマがこびりついたひどい顔だった。
     キッチンに戻ると、カップから湯気の上がるコーヒーが二つ置かれていた。
    「…たばこ、もらっていい?」
    「はい」と、ヴードゥーはテーブルにあったマルボロを差し出す。ひと口吸うと頭がクラっとしたが、それをコーヒーの苦みでこじ開けた。
    「ヴードゥーくん、本当にありがとう。マジで助かったよ…」
     K子は軽く頭を下げた。
    「昨日はホントに疲れ切ってたからさ、特に何も聞かなかったけど…なんか、ワケありなんだろ?」
     K子は、大阪に行ってからの自分の落ちぶれた生活や、逮捕されたこと、ヤクザに監禁されていたが逃げてきたことなどを、かいつまんでたばこの煙とともに吐き出した。途中でヴードゥーもたばこに火をつけたせいで、狭いキッチンは靄がかかったように白くなっていた。
    「…それは、なんて言うか…大変だったな」
     ヴードゥーが神妙な面持ちでコーヒーをすする。朝、こうしてコーヒーを飲みながら誰かとゆっくり会話することなど、K子にとって何年ぶりだろうか。大阪時代は、起きれば着の身着のままでパチンコ店に向かっていたため、椅子に座ってコーヒーを飲むことなどなかった。K子は、久しぶりに人のあたたかさに触れているような気がした。
     K子に、気になることがあった。
    「ヴードゥーくん、そういえば…お爺ちゃんは?」
     当時、幼いころに両親を事故で亡くして北海道から東京にやってきたヴードゥーは母方の祖父と二人暮らしだった。普段はニコニコととてもやさしいが、汚い言葉遣いを正したり、玄関では靴をそろえて脱ぐよう叱ったり、大学生だったヴードゥーはもちろん、仲間たちに対しても細やかなしつけに厳しかった。
    「1年ほど前に死んじゃってさ。今は一人暮らし」
     ヴードゥーはキッチンの棚にある紅茶の缶を手にし、中からジップロックを取り出した。そこには、大量の大麻がパンパンに詰まっていた。K子は、ヴードゥーが学生のころからクラブに集まる愛好者たちに大麻を卸していたことを思い出した。
    「まだ、プッシャーやってるんだ?」
    「いや、もうやめた。派手にやりすぎて、ヤクザから目ぇつけられちゃってさ。一時期は危なかったんだぜ。埼玉にあった畑とか工場とか燃やされちゃったりしてさ。今は、仲間内だけで楽しむ量しか栽培してない」
     言いながら器用に紙に巻き、火をつける。深く吸い込むと、いったん間を置き、鼻から豪快に煙を吐き出した。青く濃く、甘い、草いきれのような匂いが部屋に充満した。「一服どう?」と勧められたが、K子は首を横に振り、代わりに新しいマルボロに手を伸ばした。
    「K子、仕事のあてがないんだったら紹介するよ。…まぁ、この世の底辺みたいな仕事だけどさ」
    「底辺? なにそれ…風俗?」
    「違うよ。今、俺がやってる仕事。工事現場とかで誘導棒を振るガードマンなんだけど」
    「ガードマン?」
    「うん。この世の底辺。それに、しばらくここに居てくれていいよ」
     ヴードゥーは再び紅茶の缶に手を突っ込んだ。K子は驚いた。その手には、複数枚の1万円札が握られていた。
    「10万円。貸してあげる。利子とかいらないからさ、毎月、返せる額だけ返して。ずっと爺ちゃんに言われてたんだ。自分より弱い立場の人間が困っていたら助けてあげろって」
     K子は金を受け取ると、これまでパチンコ店の常連客に奉仕して得たり、アライから手渡された金とはまったく違う重みとぬくもりを感じた。我慢できずに、涙が頬を伝う。
    「その代わり、約束して。もう、ぜったいにパチンコ店には近づかないって」
    「…うん、うん。約束する。本当にありがとう、命の恩人だよ」
    「それ、爺ちゃんが遺してくれてた金なんだ。爺ちゃんにも、お礼言ってね」
     ヴードゥーが大麻の煙を吐き出しながら顎で示した先には仏壇があった。K子は仏壇の前で正座し、見覚えのあるなつかしい笑顔の写真に向かってしばらくの間、嗚咽しながら頭をたれ続けた。
    「さっ! 湿っぽい話はここまで。その服、ダサすぎるから、洋服でも買いに行こうぜ。それと、腹減ったろ? ちょっといい感じの町中華があるんだけど、どう?」
    「…町中華、いいね!」
     K子は泣き笑いで、答えた。

    7
    「教育係の丹羽です。ヴードゥーくんとは生まれが同じ北海道で、幼馴染なんですよ」
     高田馬場にある警備会社〈ミカサセキュリティー〉。ヴードゥーから紹介され、K子は履歴書を手にここを訪れた。狭い会議室で、長テーブルを挟んで丹羽と向かい合う。住所や緊急連絡先は、ヴードゥーの住む笹塚の家と彼の番号を使わせてもらった。ヴードゥーから借りた10万円で携帯電話を契約し、ファストファッションの店でジーンズとスウェットを購入した。ドラッグストアで安い化粧品類も手に入れ、かなり生気を取り戻した出で立ちとなっていた。
     目の前の丹羽は、レゲエミュージシャン然としている幼馴染のヴードゥーと相反して、短めの髪をワックスでスタイリングしたさわやかな青年だった。
    「さっそく働いてもらいたいんですが、一応研修というものがありまして。今日から3日間、ビデオを観てもらったり、誘導棒を持ってひと通りの動作を覚えてもらったりすることになります。お昼はお弁当が支給されます。もちろん、この3日間も一日5千円ですが日当が発生します」
     K子がさまざまな書類に名前や住所を書き込んでいる間に、丹羽が事務的に説明する。
    「その…ガードマンの仕事って初めてなんですけど、私にもできますかね?」
    「力仕事もありませんし、こう言ってはなんですが学も必要ありません。工事現場に立って、車と歩行者の安全をしっかりと守っていただくだけです。まぁ、ヴードゥーくんは〈底辺の仕事〉なんて言いますが、プライドを持ってやってらっしゃる女性の方も多いですよ」
    「今、女性は何人くらい働いてるんですか?」
    「うちに登録しているガードマンの総数は2百名ほどなんですが、そのうち女性はK子さんを入れて8名です。ちなみに、うちのガードマンの平均年齢は68歳。かなり高齢化しています。本当に、日本どうなってんだろうって思いますよ。年金だけじゃ、満足に暮らせないんですから…」
     K子の履歴書に目を通しても、丹羽は特に質問などしてこなかった。ヴードゥーから、ある程度の事情は聞いているのかもしれない。
     丹羽はテレビの電源を入れ、VHSをセットし再生ボタンを押した。画面には〈その① ガードマンの歴史〉と映し出されている。
    「では、退屈でしょうけど、しばらくビデオを観ていてください。終わるころにまた来ますんで」
     K子がうなずくと、丹羽は部屋を出て行った。

     かなり以前に作られたと思われる研修ビデオは、ガードマンの起源は西部開拓時代にあることや、日本では戦後の混乱期、東京オリンピック開催時に業界が大きく飛躍したこと、『ザ・ガードマン』なるガードマンを主人公にしたテレビドラマが過去に人気を博したことなどを、髪を7・3にピッチリと分けたアナウンサー風の男性が説明する第一章からはじまった。続いて、再現ドラマ仕立てとなっている第二章に突入する。ガードマンAくんとガードマンBくんを軸に物語は展開するが、楽ばかりしようとする何かとトラブルメーカーのBくんを頼もしいAくんがサポートしていくなかで、ガードマンの仕事の内容や精神を浮き彫りにしていくものだった。大手警備会社の創業者の半生を追った、かつてのドキュメンタリー番組の録画でビデオは終わった。そのタイミングで部屋に戻ってきた丹羽は、驚いた。K子が涙を流して鼻をすすっているのだ。
    「K子さん!? どうされました…?」
    「すいません、泣いちゃって…すごく感動したんです。特に、第二章でガードマンBくんが心を入れ替えていくところや、一生懸命に仕事に取り組んで通行人のお婆さんや子どもたちに感謝されているシーン、『これからも一緒に市民の安全をしっかりと守っていこう!』とガードマンAくんがBくんの肩を叩く場面で、もう涙が止まりませんでした。最後のドキュメンタリーも最高ですね。デパートに派遣されたガードマンが商品である腕時計を盗んだせいで信頼がガタ落ちし、そこから信用を取り戻すために創業者の方が奮闘するくだりなんかは…」
     目からマスカラとともに流れ出る黒い涙、鼻から垂れる鼻水を拭おうともせずに、自分がいかに心打たれたのかを説明し続けるK子を、丹羽は少し引きつった笑みを浮かべ見つめていた。これまで、こんなお粗末な研修ビデオでK子のようなリアクションをする者など皆無だった。
    「私、一生懸命頑張ります! これから、どうぞよろしくお願いします!」
     席から立ち上がり、K子は丹羽に向かって深々と頭を下げた。

    8
    「まぁ、様になってんじゃん」
     真新しい、青と黄を基調とした制服、頭に乗ったサイズの大きな青いヘルメットに身を包んだK子を見て、ヴードゥーがからかう。
    「なんて言うか…気持ちがピシッとするね。パワーがみなぎる感じ?」
     西新宿・青梅街道沿い。交通量の多いこの道路の地面を這う水道管工事の警備が今日の現場だ。ガードマンが現場に就くことを〈上番〉という。逆に現場を終えることを〈下番〉といった。この日は、K子にとって初めての〈上番〉だった。「お! 来た来た」。ドレッドのせいでヘルメットが浮き上がったヴードゥーが、腰かけていたガードレールから立ち上がる。同じ制服を着た、二人の老人がこちらに向かって歩いてきた。
    「K子、紹介するね。こっちの背の小さいほうがミニG。見たまんま〈ミニの爺さん〉だからミニGね。で、こっちの背の高いほうがヒラヌマさん。ヒラヌマさんは元プロ野球選手なんだぜ。二人とも俺なんかよりぜんぜんベテランだからさ、なんでも聞くといいよ」
    「K子です。よろしくお願いします!」
     K子は甲斐甲斐しくお辞儀した。
    「K子ちゃんね、よろしく。遠慮なしでミニGって気軽に呼んでね!」
    「ヒラヌマです。よろしく」
     二人とも60歳をとっくに超えていたが、明るいミニGと寡黙で気難しそうなヒラヌマは〈凸凹コンビ〉といった感じでかわいらしく見える。
    「だいたいいつも、ミニGとヒラヌマさんと組むことが多くてさ。俺もめっちゃ世話になってるんだよ」
     しばらく立ち話していると、工事車両が3台やってきてハザードを炊きながら停まった。ヴードゥーとミニG、ヒラヌマがサッと車両のほうに駆け寄る。K子も急いで後を追った。車両の背後や側面に立ち、規則正しく点灯を繰り返す誘導棒で通行する車両に注意を促す。
    「あんまり最初から飛ばしすぎると疲れちゃうからさ、適当にやりなよ」
     ヴードゥーの見よう見まねで、K子も誘導棒をゆらゆらと振り続けた。

     以降、朝から夕方までの現場、夜の9時から明け方までの夜勤と、K子は精力的にガードマンの仕事をこなしていった。なかでも、K子のやる気をより増幅させたのは、幼稚園児から「ありがとう!」と乳歯の抜けた口を大きく開けて微笑みかけられたことと、通りすがりの老婆から「ご苦労様」とペットボトルのお茶をもらったことだった。このエピソードがあってからというもの、「〈底辺の仕事〉なんてとんでもないよ! ガードマンは素晴らしい仕事だよ!」などと大麻をくゆらせるヴードゥーにたびたび熱烈にプレゼンした。

     ある日、ヴードゥーがK子の歓迎会を開いてくれた。馴染みだというスナックにミニGとヒラヌマも集まり、ボックス席を陣取る。年増のママと三十路がらみのリコというホステスが、カウンターで常連客を相手にしていた。酔いも深まってきたころ、罪状こそ言わなかったがミニGが前科持ちであることや、プロ野球を引退後のヒラヌマがギャンブルで身を崩した話などで盛り上がった。K子だけは、くわしく過去を語ることはしなかった。まだ自身の口で詳細を語るには、消化しきれていない部分があったからだ。
     皆、過去にいろいろとあったが、今はこうしてガードマンという崇高な仕事で繋がっている――。
    「ガードマンがいなきゃ、道路だってビルだって造れないんだ。俺たちは、社会に存分に貢献しているんだよ!」
     水で割った鏡月と唾を飛ばしながら、目の据わったミニGが一席ぶった。したたかに酔ったK子はビー玉のように瞳をキラキラさせ、大きな拍手でそれに応えた。

    9
     片側1車線の道路で、その1車線をつぶして工事をするような場合、ガードマンが片側の車両を止めている間に、もう一人のガードマンが対向車線の車を流すという行為を交互に行わなければならない。これを片側交互通行、略して〈片交〉という。
     バス道や交通量の多い道だと、ひっきりなしに数メートル離れたガードマン同士でのやり取りが発生し、息つく暇もない。さらに、車を流すタイミングを見誤ると、衝突事故が起きかねないため常に緊張感も伴う。しかし、通行止めの看板の前にただ突っ立っているだけの業務などより時間が経つのが早く感じられるし、相手ガードマンと息が合ってくると徐々に高揚感が生まれ〈片交ハイ〉なるゾーンに入ることもあり、K子も〈片交〉はどちらかというと好きな警備業務であった。
     この日も、ヒラヌマと組んで〈片交〉を行っていたK子は、ヒラヌマとあ・うんの呼吸でヘッドライトの光の列を止めては流して、すっかりゾーンに入って意気揚々と業務をこなしていた。
     車が途切れて一息ついたとき、ふと歩行者誘導をしているヴードゥーに目をやると、何やら男と言い争っている様子が見てとれた。工事現場の目の前にある、高層マンションの住民らしい。深夜の街に、工事現場のアスファルトを削る音と、ヴードゥーと男の怒号がこだまする。二人の間にミニGが割って入った。何事かと思いながら、K子は再び〈片交〉に戻った。

     午前3時。作業がすべて終わり、4人は歩道に置いてあったそれぞれのリュックにヘルメットなどを片していた。
    「そういえばヴードゥーくん、さっき揉めてなかった? クレーム?」
    「うん、音がうるさいって。この現場、明日も続きそうだったからさ、ナメられちゃいけないから一喝してやったよ。K子も、ナメたこと言ってくる奴がいたらすぐに俺に言えよ。怒鳴りつけてやっから」
     それを聞いていたミニGが、ため息をつく。
    「ったく…バカか、ヴードゥー。K子ちゃん、ああいうときは平身低頭、笑顔で『すいません』って言っておけばいいんだよ。なんかあったら、俺のところに言ってきな。一緒に謝ってあげるから」
     真逆のことを言う二人。困ったK子がヒラヌマを見やると「まぁ…人それぞれ、やり方はある」と、脱いだ上着を黙々とカバンに押し込んだ。

     翌日は、ヴードゥーの予想通り同じ現場での夜勤だった。今日はヴードゥーとミニGが〈片交〉、K子とヒラヌマが歩行者誘導というフォーメーションだ。
     深夜。昨夜、男の出てきた高層マンションから、大泣きしている赤子を抱いた女が現われ、K子のもとへと近づいてきた。
    「あの…これ、いつ終わりますか? この子、やっとの思いで寝かしつけても、音がうるさくてすぐに起きちゃうんです。昨日も、夫がクレームに寄らせてもらったんですけど、なんかガードマンさんとケンカみたいになったそうで…。あの人、この子の泣き声でおかしくなっちゃって…私とこの子に強くあたるんですよ、最近」
     短い期間ではあるが、K子がこれまでガードマンをやってきて、この手のクレームは初めてだった。「ナメられちゃいけない」「平身低頭、笑顔で『すいません』」…。昨日のヴードゥーとミニGが脳裏によぎる。たしか、ヒラヌマは「やり方は人それぞれ」と言った。
    「すいません、昨日は3時までだったんで、あと2時間ほどだとは思うんですが…ご迷惑おかけしてます。ごめんね、眠たいねぇ」
     K子は光のない黒目がちな瞳をした女に頭を下げつつ、ピカピカ光る誘導棒をガラガラのように赤子の前で振った。すると、泣きじゃくっていた赤子が、珍しいものを見るように目を見開き「だぁう、だぁう」と誘導棒に小さな手を伸ばしてきた。
    「あらやだ…りあむちゃん、これ、好きなの?」
     どんな字を書くのか、男の子か女の子かさえもK子にはわからなかったが、りあむと呼ばれた赤子は、誘導棒の赤い光に照らされ「だぁだ、だぁだ」と笑顔を浮かべている。
    「あの…もしよかったら、これお貸しします。あした、改めて取りに来ますから」
    「え? いいの? じゃ、遠慮なく。マンションのコンシェルジュに預けておくんで」
     K子が袖を通したこともない肌触りのよさそうなモコモコ素材のパジャマを着ている母親と赤子に、けばけばしく光る誘導棒は似つかわしくなかったが、K子は満足げに二人を見送った。
     ヴードゥーのほうを見ると、〈やるじゃん〉といった表情でこちらに向かって誘導棒を高く掲げていた。K子も、立てた親指を天に向かって突き上げる。
    「私、ガードマン好きだーっ!!」
     叫んだK子の声は、穴を掘るドリルの音にかき消された。

     翌日、丹羽から、会社から貸与されている誘導棒を他人に渡したこと、誘導棒を持たずに業務をしていたことなどを電話で叱責されたが、昨夜の成功体験の余韻に支配されていたK子は「すいません」と電話口で恐縮しながらも、笑みがこぼれ止まらなかった。
     この日常がいつまでも続きますように――。
     幼少期からろくに友だちもできず、常に孤独、そして貧乏と闘ってきた。やがて〈パチンカス〉に堕ち、自分を安く売り、挙句の果てにはヤクザと関係を持ちクスリで逮捕されるなど、〈普通の人生〉からは大きくはみ出してしまった。しかし、ガードマンという仕事と出会ったことで、こんな自分でもようやく胸を張ってこの世に生きた証を残せることができそうだと、ワクワクした気持ちになる。
     これまで〈今を生きる〉ことに精一杯だったK子は、初めて〈未来〉を見据えることができた気がした。

    10
     ガードマンの仕事は順調だった。ヴードゥーから借りた10万円を完済する目途の立ったK子は、彼の家を出て一人暮らしすることを検討し始めていた。しかし、敷金など初期費用は安く抑えたい。そもそも、貯金などないのだ。そんなとき、電柱に貼られていた〈敷金・保証人不要! ワンルーム月3万円~ 問い合わせ・岡村ホームズ 03―××××―●●●●〉というチラシを発見した。さっそく問い合わせてみたK子は、不動産屋が近いことを聞き、試しに覗いてみることにした。

     住む場所は、かつてボロアパートで母親と暮らした中野新橋にすると決めていた。自分の人生の転落の始まりだった場所から、やり直したい。ガードマンというやりがいのある仕事に就き、日々、薄皮が一枚はがれていくように心の成長を感じる今なら…。
     きっと、やり直せる――。
     根拠はないが、なぜか自信がみなぎっていた。それほど、毎日が充実していた。それは、ヴードゥーをはじめ、ミニG、ヒラヌマとの出会いも大きい。業務で困ったことがあれば何でも言い合えサポートし合える仲間を、誇りにさえ思う。特にミニGの仕事に対する姿勢は、心のなかで〈師匠〉と崇めるほどに尊敬のまなざしで見ていた。ミニGもまた、慕うK子を可愛がってくれた。順風満帆にことが進んでいる今こそ、独り立ちのタイミングでもあるとK子は感じていた。

     今夜の現場は、初台での電気工事の警備だった。8時半にぞろぞろといつものメンバーが集まる。季節は、春が近づき、うっすらと桜の花も咲き始めていた。暑くもなく、寒くもない。夜勤の警備にはピッタリの時季であった。古い演歌を鼻歌するヒラヌマに、ミニGが「へたくそ!」と突っ込んで笑い合ったりと、二人のテンションもいつもよりも高かった。
    「人間って、春になると調子が上がるのね。すごいね、日本の四季って」
     医学的には絶対にそんなことはないのだろうが、70歳も目前の二人が元気なことは何よりだった。K子はヴードゥーに、不動産屋の件を伝えた。彼は「そっかぁ。寂しくなるけど、いいじゃん!」と背中を押してくれた。今日、内見した物件の一つが気になっていた。K子はさっそく〈あそこにベッドを置いて〉〈カーテンは何色が合うかな〉といった妄想を束の間楽しんだ。
     この日は、ミニGとヒラヌマが〈片交〉のコンビを組んだ。見るからに調子が良さそうで、ミニGは踊るように誘導棒をくるくると回し、ヒラヌマも教習ビデオよろしく高く誘導棒を掲げて車を止めている。二人の躍動感あふれる〈片交〉に、K子は歩行者誘導しながらまるで観劇しているかのように見入ってしまった。それくらいに、美しかった。

     深夜2時に現場は終わった。「おつかれさま~」とハイテンションのまま、ママチャリにまたがったミニGとヒラヌマがそれぞれの家路につく。K子とヴードゥーは、そのまま甲州街道を歩いてともに笹塚の家に向かった。
    「今日の二人、カッコ良かったね。なんか、すごい躍動感でさ。息もピッタリで、見入っちゃったよ」
     ヘルメットを片手に持ち、咥えたばこのヴードゥーに語りかけると、彼は「クックック」と押し殺した笑い声を上げた。「テンション高かったよね。二人とも、ばっちりキマってたよな」と手で〈オッケー〉の形を作り、窄めた口元で前後に動かした。
     大麻!?――。
     パァーーーーーーーンという、長く大きなクラクション音が、甲州街道に響いた。

    11
     神田川から立ち込めるドブのような不快な匂いで目が覚めた。寝ぼけ眼で天井を見やると、ハート形の名も無き小虫がびっしりとへばりついている。最初こそ、ギョッとしたが、もう慣れたものだった。
     中野新橋の、神田川沿い。オートロックなどない、何の変哲もない極小ワンルームのマンションで一人暮らしをはじめて5か月ほど経つ。住みだした当初は、ドブ臭はしなかったが、夏になってから匂うようになった。それにともなって、名も無き小虫も異常発生し、下水道から這い上がって大量に部屋にやってきた。
     小虫には慣れたが、この匂いは大嫌いだった。かつて住んだボロアパートを思い出すからだ。番地こそ違うが、同じ神田川沿い。毎年、夏場はこのドブ臭のせいで母親の機嫌が悪かった。

     引っ越し初日には、レンタカーを借りて荷物を運んだり、買い出しを手伝ったヴードゥーをはじめ、ミニG、ヒラヌマがやってきて引っ越し祝いをしてくれた。大きなペットボトルに入った安い焼酎を緑茶で割り、乾きものやイカの燻製、安売りのシールが張られたスーパーの刺身や寿司を並べた宴会が深夜まで続いた。K子は悪酔いし、便所に顔を突っ込んで吐いた。トイレから出るとヴードゥーとヒラヌマがその場で撃沈していて、ミニGだけが乾燥したイカをしゃぶりながら茶割りをすすっていた。K子はミニGだけに自分の過去の詳細をまるで教会で懺悔するように語った。「よく、頑張ったな」と、ミニGは優しくK子の頭を撫でた。

     この日は夜勤だったので、近所のコインランドリーに行ったり、くだらないワイドショーを見ながらカップ麺をすすったりし、夕方前までゆっくりとすごした。すると、インターホンのチープな乾いた音が部屋に響いた。K子は「はーい」と鍵を開けドアノブをつかんだ。するとその途端、ものすごい勢いでドアが開かれ、ドアノブに引っ掛かった左手の人差し指の爪が半分ほど剝がれてしまった。K子は「痛っ!」と思わず口に出したが、目の前に立つ男の姿を見た途端に、まるで電池の切れたおもちゃのロボットのようにフリーズした。

     狭い玄関には、灰色のスーツに赤いシャツを着たアライがいた。

    12
     どっしりとベッドに腰かけるアライを前にしても、K子はこれが現実とはどうしても思えなかった。いや、思いたくなかった。
     夢であってほしい――。
     そんなK子の切なる願いを無残にも払しょくするように、剥がれた爪がじくじくと痛んだ。頭がまったく機能しない。K子は座ることもせず立ち尽くしていた。
    「小綺麗にしてるけど、しょうもない部屋やのぉ」
     セブンスターの濃い煙を天井に向かって吐き出しながら、アライが毒づく。K子の飲みかけのコーヒーカップに、たばこを放り込んだ。
    「…あの…いったい、何の御用でしょうか?」
     ようやく絞り出した言葉。かつて、どのような言葉づかいでアライと接していたのかさえ、思い出せない。
    「なんや、オマエ。えらい話し方変わっとるやないか。あれか、ガードマンやって、ちょっとは世間ってモンがわかってきたってことかいな」
     立て続けにたばこに火をつけながら、アライが笑う。
    「ガードマン…どうして知ってるんですか? それに、ここの住所も…」
    「オマエ、心入れ替えたかなんか知らんけど、大阪のおばはんとおっさんのとこに手紙出したやろ。ご丁寧にここの住所までさらして。せやさかい、今日はちょっと挨拶に寄らせてもろうたんや」
    「なんで、アライさんが伯母さんたちのところに?」
    「そんなもん、オマエのこと捜してたからに決まっとるやないか。あんなぁオマエ、俺とおめこしてたときから金だけの付き合いや思て、なめくさってたやろ? 挙句の果てに捕まって、えらい俺のことあれやこれやポリにチクリ倒したらしいやんけ。おかげで、広島の兄貴んとこで、えらい羽根伸ばさしてもろうたわ。今はなんや、気持ち入れ替えて新しい人生送ろうかやて? 笑わせよんでホンマ」
    「もう、あのころの私じゃないんです! お願いです、そっとしておいてください…お願いします!」
     アライの太ももにすがり、K子は懇願した。アライは、黒っぽい血のにじむK子の剥がれた爪をぐっと摘んだ。「ぎゃっ!」という短い悲鳴が狭い部屋に響く。
    「オマエがあの部屋から逃げ出したときな、見張りしとった若いモンが、近所に馬券買いに行って留守にしとったらしいわ。かわいそうにオマエ、そいつ両手潰されてもうて。もうマークシートに記入できひん言うて泣いてたわ。潰れた手は、二度と元には戻れへん。それと一緒や。K子、オマエも俺が生きてる限り、やり直しなんかでけへんのやで」
     ぽんっと、小指のない左手でK子の頭を諭すように軽く叩いた。また、たばこを吸う。部屋は、霧が下りたように真っ白だった。
    「ほんで、や。ここからが本題やねんけどな。そんなこんなで、オマエのおばはんとおっさんとは、仲良ぅさせてもらってるんや。聞いたところによると、保険金もぎょうさん掛けてるらしいねん。受取人の名義は、K子、オマエや。泣かせるやろ。こんな物騒な世の中や。事故や事件に巻き込まれて、急に死んでまうこともあるかもわからんなぁ。ほんだら、オマエのとこに、がっぽり保険金が振り込まれるわけや。それを仲良ぅ分け分けしようやないか」
     先ほど食べたカップ麺が胃から競り上がり、K子は四つ這いで思わず吐いた。アライはベッドから立ち上がると、ヤクザ特有の氷のように冷たい目でK子を見降ろし「これはな、検討の余地はない、決定事項や。ええか、K子。オマエのことは、いっつも見てるで」と、吐しゃ物にたばこを投げ入れた。じゅっと音を立てて、細い煙が上がる。K子はその煙をぼんやり見つめたまま、乱暴にドアが閉まる音を聞いた。

    13
     アライが部屋から出て行った後も、吐しゃ物を片付けることも忘れ、しばらく呆然としていた。
     伯母夫婦の家の電話番号は忘れてしまったが、住所はうろ覚えだったが頭の片隅にあったので、ガードマンにかける強い想いと生まれ変わろうとしている自分の奮闘ぶりなどを、手紙にしたためた。アライの言葉を聞いて初めて、手紙が彼女たちのもとへきちんと届いていたのだと知った。もちろん、保険金の受取人名義が自分になっていることなど知る由もなかった。
     とにかく、誰かに相談しなきゃだ――。
     K子は、夜勤前に時間を作ってもらおうと、ヴードゥーに電話をしたが電源が切られているのかすぐに留守電になった。舌打ちしながら、携帯電話をベッドに投げつける。すると、間髪入れずに電話が鳴った。丹羽からだった。〈今朝、ヴードゥーくんが大麻で捕まったらしいです〉。K子は、目の前が銀色になるような不思議な感覚に陥った。

     夜勤の現場に集まったミニGとヒラヌマにも、すでにヴードゥーの件は丹羽から連絡があったようで、二人とも神妙な面持ちだった。「どれぐらいで、出てこれんだ?」「最低でも20日間は拘留されるそうだ」と舗道で輪になり話したが、アライの件もあり、K子の感情はまったく追いつかず、会話には入れなかった。
    「はぁー…じゃあ、しばらく〈葉っぱ〉もなしってわけか」
     ミニGが、心底残念そうな声を出す。K子は驚いた。「社会に存分に貢献している」とプライドを持ってガードマンという仕事に取り組み、尊敬していた男から発せられた言葉とは思えなかった。
    「…まぁ、仕方ないよな」
     ヒラヌマも、黒いリュックからヘルメットと誘導棒を取り出しながら続けた。
    「ちょっと、二人とも! あんな得体のしれない葉っぱなんか吸って、歩行者や車両の安全の確保なんてできると思ってんの? ヴードゥーくんだっていっつも大麻吸ってるけど、酩酊状態で仕事はしていないって、約束してくれてたよ。それが、なんだよ! 二人がすっかり大麻に憑りつかれちゃってんじゃん! そんなんだから、ガードマンが〈この世の底辺〉なんて言われんだよ! ざけんじゃねぇ!」
     K子のあまりの剣幕に、ミニGとヒラヌマは目を丸くした。はぁはぁと、肩で息をしないといけないくらい、まくしたてていた。ミニGは安物のデジタル腕時計に目をやり、まだ作業開始まで少し時間があることを確認すると「よいしょ」とガードレールに腰かけた。
    「半年くらい前かなぁ。いつものスナックで3人で飲んでるときにさ、俺もヒラヌマさんも、もう限界だって話をヴードゥーにしたんだよ。俺は痔がひどくて、ヒラヌマさんももう肩が上がらなくなっちゃっててね」
     ミニGが、ヒラヌマを見やる。ヒラヌマは、静かにうなずいた。
    「するとヴードゥーが、医療大麻って言うのかな? 勉強してるんだって話になって。あいつ、爺ちゃんをガンで亡くしててさ。最期は自宅療養だったんだけど、ひどい痛みだったそうなんだ。海外じゃ、医者が末期ガンの患者に大麻を処方する国もあるらしくて、あいつも大麻を混ぜたクッキーをこっそり爺ちゃんに食べさせたりして、ちょっとでも痛みを緩和できればってやってたみたい。それで俺とヒラヌマさんにも、一度試してみるかってさ。そしたら、嘘みたいに調子が良くってよ。なぁ?」
    「優しい奴だよ、あいつは」とヒラヌマも右肩をさすりながら答える。
    「保釈金が払えたら、早く出てこれるって丹羽さんが言ってたんだ。仲間内で金を集めてみるって。裁判が終われば返ってくる金らしいから、俺もヒラヌマさんも、少しだけどカンパするつもりなんだ。K子ちゃんも、協力してくれねぇかな? な?」
     話は途中であったが、二台の工事車両が徐行しながら近づいてきたことで、3人は散り散りに持ち場に着いた。

    14
     丹羽の献身的な働きかけで無事に保釈金が集まり、2百万円を納めてもらったヴードゥーは、20日間ほどの拘留で帰ってきた。結局、K子は一銭もカンパには協力せず、そのことでミニGとヒラヌマともぎくしゃくした関係となっていた。気まずい状況だけに、二人にアライのことを相談する機会もなく、K子は何の解決策も思いつかずにいた。K子にできることは、ただただ誘導棒を振り続けることだけだった。この間、アライの手下らしき男たちを、たびたび〈上番〉している現場で見かけた。両手に包帯を巻いている男が、狂犬のような目で遠くからK子を睨みつけていた。

    「御勤め、ご苦労様でした」
     ミニGが冗談交じりに言う。
    しばらくしたある日、例のスナックで、ささやかにヴードゥーを囲んだ。現場にまだ復帰していなかったヴードゥーと久しぶりに会ったが、全員が驚いたのが自慢のドレッドヘアをバッサリと切り、ほとんど丸坊主に近い短髪になっていたことだった。
    「本格的に医療大麻を世の中に広める活動をしたいんだよね。北海道にあるNPO団体に所属して、小さな牧場を手伝いながらやってみるつもりだよ」
     ヴードゥーは、留置所でずっと考えていたという自身の人生計画を堂々と語った。
     ガードマンを辞めるというヴードゥー、身体に限界のきているミニGとヒラヌマ…。自分の置かれている状況が、少しずつ変わってきている現実を目の当たりにし、K子はどうしようもない不安に駆られた。

     日付が変わるころに会はお開きとなり、K子とヴードゥーは気持ちのいい夜風にあたりながら、二人で家路についた。K子はメンソールのたばこの煙を細く吐き出した。ヴードゥーは「20日間も耐えれたんだから」と、この機会にたばこはやめたそうだ。代わりに、ミント味の板ガムをポケットから出し、くちゃくちゃと噛んだ。
    「なぁ、K子…ここだけの話だぜ。俺、リコと付き合ってんだ」
    「え!? そうなの?」
    「うん。一緒に北海道に行って、小さなスナックをやりたいって言ってくれてる。俺がやろうとしてることも、サポートしてくれるってさ。NPO団体と牧場の件がうまく決まれば、すぐにでも東京を離れるつもり。リコから口止めされてるんだ。K子やミニG、ヒラヌマさんは一応お客だからさ。俺といい関係なのは、お店としてはあまりよろしくないからって」
    「…そうなんだ。みんな、変わっていくんだね。ねぇ、ヴードゥーくん…私、なんか怖いよ。この先、どうなるんだろうって。不安が全身を包んで、雑巾みたいに絞られてる気がしてる」
    「なーに言ってんだよ。ガードマンの仕事もちゃんとやって、K子だって前と比べたら随分変わったじゃん。大丈夫だよ、しっかり頑張ってるよ、K子は」
    「…みんながいたから、頑張れたんだよ」
    「そんなことない。K子の努力の結果だって! もっと自分を信じてあげたら?」
     ヴードゥーは「はい」と、K子に板ガムを一枚渡した。そして、落ちていたコーヒーの缶をポーンと蹴った。缶は弧を描いて数メートル飛び、カラカラと音を立てた。
    「…俺のこと通報したの、K子なんだろ?」
    「ぁぃえっ!?」
     驚きのあまり、K子はおかしな言葉と口に入れたばかりのガムを吐いた。

     ヴードゥーが大麻を持っていると匿名で警察に通報したのはK子だった。 しかも、かなりしつこく。ヴードゥーから、ミニGとヒラヌマが大麻を吸った状態で現場に来ていると聞いたあの日、ガードマンという神聖な仕事を汚す悪しき存在としてヴードゥーに怒りの感情が沸いた。翌朝から数週間、合計何十回と公衆電話から警察に電話を入れた。警察もようやく裏が取れたのだろう。あの日、3人の刑事が逮捕状を持ってヴードゥーの笹塚の自宅に押し掛けたのだ。タレコミにあった通り、台所の上の棚に収められていた紅茶の缶から大麻が押収された。

     幼いころから人とうまく接することができず、自分の殻のなかに閉じ籠っていたK子には、昔からその場の感情に流されて思い付きで行動したり、自分の邪魔をする者をあっさりと切り捨てたり、うまくいかないことを人のせいにしたりといった面があった。
     パチスロにしてもそうだが、ガードマンという仕事に〈依存〉しているK子は、自分が居心地のいい環境を続けることが第一優先であり、それを脅かす存在を許さないし、続けるためには手段を問わない。だから過去、〈パチンカス〉たちの悪臭を放つ性器を咥え、アライに抱かれてきた。そして、命の恩人であり現在の状況を作ってくれたヴードゥーに牙を剝いた。

    「なんとなく、わかってたよ。俺がミニGやヒラヌマさんに大麻渡してるの、気に入らないんだろうなって。K子。昔、爺ちゃんが言ってたんだけどさ、人が何かをやるときって、必ずその後ろには何かしら理由があるって。その理由は、自分から見たら正しいけど、他人から見たら間違いかもしれない。だから、非難されることも覚悟して、自分が正しいと思う道を正々堂々と歩けってさ。俺は、自分が正しいと思う道を選んだ。だから、K子のことも恨んじゃいない。K子だって、自分が正しいと信じて行動したんだろ? これからも、自分を信じろよ。やれるさ、K子なら」
     指が、焼ける。いつの間にか、たばこが短くなっていた。思えば10代のころに、この人と出会っていたんだなと、K子は前を歩くヴードゥーの背中を見つめた。母親が自殺し、大阪に行かざるを得なくなった自分の運命を、改めて呪った。ずっとこの人のそばにいたなら、少しは自分の人生もマシになっていたかもしれない。
     あのクソ女め――。
     母親のやつれた顔が思い浮かぶ。K子はそれに向けて、たばこのフィルターを指で弾き飛ばした。

    15
     北海道行きのために忙しなくしているヴードゥーがガードマンの現場に来なくなってから、K子がミニG、ヒラヌマと組む機会もすっかり減っていた。これは、K子が経験を積んで育ち、いろいろな現場で責任者としてガードマンたちを束ねる立場になっていたことも大きい。

     この日の夜勤は久しぶりにヒラヌマと一緒で、K子は歩行者誘導に勤しみ、ヒラヌマはひっきりなしに通る車両に誘導棒を掲げ注意を促していた。時折、肩をさすったり、腰に手を当てたり、体の不調が見てとれた。見かねたK子は、声をかけた。
    「ヒラヌマさん、調子悪そうだね」
    「あぁ…生きてるって証拠だよ」
    「この時間、歩行者はあんまり通らないからさ、私の場所と交代しようか?」
    「悪いな…そうしてもらえると助かる」
     もともとK子がいた持ち場にヒラヌマはゆっくりと移動し、ガードレールに手をついてストレッチをしたり、屈伸をしたり、上体を後ろに反らしたりした。K子はヒラヌマに代わり、びゅんびゅん飛ばすタクシーらに向けて、誘導棒を振った。

     妙な違和感を覚えた。遠くからやってくる車のヘッドライトが右へ、左へと蛇行している。そう思った途端、K子に向かってものすごいスピードで真っすぐに車が突っ込んできた。何の変哲もない軽自動車はK子の目の前10メートルのところまで接近すると、タイヤを鳴らして一気に減速し、その勢いでくるくるとスピンしながら制御不能となり、ガードレールに車体をこすりつけた後、工事車両にぶつかって道路の真ん中で停まった。ヒラヌマは、スピンする車に弾き飛ばされていた。5メートルほど吹っ飛び、ガードレールに激突した後でバウンドし、そのままアスファルトに叩きつけられた。両脚がいびつな方向に曲がり、湯気が立ち昇りそうな血でアスファルトが漆黒に浸食されていく。遠目から見ても即死であることは明らかだった。
     フロントがぐちゃぐちゃに潰れた4人乗りの軽自動車からは、7人の高校生と思しき男女が、あからさまに酔っぱらっている状態で降りてきた。「痛ってぇ~」「俺、鎖骨ヤバいかも…」「マジかぁ、どうしよ、ママに怒られるよ、これ…」と口々に言いながら、廃車確定の車を囲んだ。
     K子は彼らの横を素通りすると、半目を開けて事切れている血まみれのヒラヌマのそばに立ち、まるで魂を誘導するように点灯を繰り返す棒を無表情で振り続けた。

    16
     かつてはパリーグで抑えの切り札として華々しく活躍し、肩を壊して引退後は株や不動産投資で儲けたものの、韓国のカジノにハマってしまい、財と家族をなくしたヒラヌマの葬儀は、あまりにも小規模だった。
     喪服姿のヴードゥー、丹羽、ミニG、そしてスナックの年増のママとリコがパイプ椅子に座り僧侶のあげるお経に耳を傾けるなか、ガードマンの青い制服で現れたK子に一同は目を見開いた。K子は何食わぬ顔でお焼香を終えると、そのまま式場を後にした。
    「K子!」
     名前を呼ばれて、足を止めた。追いかけてきたヴードゥーだった。
    「ひどい話だよな、あいつら未成年だったから、少年法が適用されて大した罪にも問われないってさ。K子、大丈夫か? 自分を責めたりしてない?」
    「…うん。ちょっと、疲れてるだけ。ヒラヌマさん、血まみれでさ。すごかったんだよ、車で撥ねられたとき、あの大きな体がポーンって弾き飛んでさ。一回、ガードレールにぶつかったときに、ものすごい音もしたんだよ。ガーン、とか、ボーンとか、そういうの。それでさ、地面に叩きつけられたときにはグチャみたいなイヤな音もした。ヒラヌマさん、目が開いてたんだけど、なんかもう、スーパーに並んでる魚みたいでさ…」
     瞬きをすることも忘れ、口角泡を飛ばす勢いで身振り手振りを交えながら事故の状況を詳細に語るK子を見て、ヴードゥーはうなずくことしかできなかった。
    「俺とリコさ、来週、北海道に行くことになったよ。なんか、こんな感じで東京を離れることになるとは思わなかったけど…残された俺もK子もヒラヌマさんの分まで一生懸命にさ…」
     途中からヴードゥーの言葉は、K子の耳には届いていなかった。

    17
     ヒラヌマの死から数か月が経ったころ、久しぶりにアライがK子のマンションへやってきた。ドカドカと上がり込むと、洗い物とゴミが溜まった台所、ちゃぶ台に放置されたままの食べ残しが腐った弁当など、以前訪れたときと比べてあからさまに荒れている様子に驚いた。
    「なんや、オマエ。部屋、えらいことになっとるやないか」
     どんよりと籠る酸っぱい匂いに、たまらず窓を開ける。K子は、まるでアライのことが目に入っていないかのように、部屋着のままで、誘導棒を片手に一人で〈片交〉の動作を繰り返していた。
    「今日は、いったい、何の、御用でしょうか」
     K子は動きに合わせて、はきはきと言葉を発した。
    「…イカれてもうたんかいな? まぁ、ええわ。オマエんとこのおばはんとおっさんなぁ、そろそろ事故に遭ってとんでもないことになる可能性が出てきたから、オマエもちょっと準備しときや。保険会社との面談はもちろん、実印やらそういうのも必要やから、一回、大阪に来てやな…」
     K子は真っ直ぐに壁を見つめたまま、キレのある動きで一人〈片交〉を続けていた。ある日、一心不乱にこの動作を繰り返していると、いつしか一人でも〈片交ハイ〉になれることを発見した。アライの言葉が、遠くに聞こえる。
    「おばはんとおっさんの家にな、洗脳を専門にしてる奴、送り込んでんねん。けっこう高ぅつくねんけどな、餅は餅屋や。ほんまエグイことしよるで、あいつは。俺から見ても、ようやるわぁ思うわ。この前もな、おっさんの体に電線巻き付けてやな、コンセントで…」
     アライの嬉しそうな笑い声が脳内で揺れる。K子は額に汗し、一人〈片交〉に没頭した。

    18
     あいつ、殺すか――。
     アライが帰った後も〈片交〉の動作をやり続け、やがて体力も底をつき、動けなくなって汗でびちょびちょの部屋着のままでゴミの上にしばらく大の字になっていた。小虫たちの死骸がへばりついた天井を見つめ、ぼんやり考える。大阪の伯母夫婦のことに関しては、自分にはもう何もできまいと、すでに諦めていた。今、K子の頭を支配しているのは、ガードマンとしての生活を壊そうとしてくるアライに対する怒りだった。
     頼りになりそうなヴードゥーは、すでに北海道に旅立っていた。これまで何度か電話があったが、K子は出なかった。
     壁に掛けた時計を見やる。昼の2時。今日は日曜日でガードマンの仕事も休みだった。ミニGに相談があると電話すると、忙しくて外には出られないと言うので、しぶしぶだが彼の自宅に行くことにした。

     ――東中野。
     駅前でおはぎを二個買い、電話で指示された通りに長い商店街を抜けた。住宅街に入ると、目印となる自動販売機が見つかった。鉄の外階段がある二階建ての安アパート。階段は錆びて朽ち果て、力を入れるとそのまま足がはまりそうだった。K子はおそるおそる、階段を上がった。
     二階の一番手前の部屋。おそらく、ここ最近は誰も押していないのだろう。インターホンに蜘蛛の巣が張っていた。弱々しい音が鳴る。〈開いてるよー〉と、ドア越しにミニGの声が聞こえた。
     ドアを開けると、申し訳程度についている台所の奥に6畳間が広がっており、見るからに綿が抜けカチカチになっている万年床の上に胡坐をかいて座るミニGがいた。強烈なヤニの匂い…まるで、灰皿のなかにいるようだ。
    「ミニG、これ、おはぎ買ってきたんだけど…」
    「ちょっと待って! 今、忙しいから!」
     食べカスや得体の知れない虫の死骸などが放置されたままの床を見て、土足のままで上がりたい衝動に駆られたが、靴を脱いで部屋に入った。ミニGは、ラジオにブラウン管の画面が付いているような嘘みたいに小さな白黒のテレビで、競馬中継を食い入るように見ていた。
    〈さぁ、直線の攻防! 逃げる8番のエネックスに大外から4番のマッドセクションがものすごい脚で迫ってくる! 残り2百メートル、粘るエネックス、伸びるマッドセクション、エネックスか、マッドセクションか、マッドセクションが今、差し切ってゴールイン! 2着にクビ差でエネックス!〉
    「クソーっ! 何やってんだよ!」
     馬券を放り投げる。〈単勝 8番 エネックス 2万円〉と書かれていた。ミニGは右手に握りしめたカップ酒をあおった。傍らには数本の空き瓶が散乱しており、「相談がある」と電話しているのに、すでに酔っぱらっているミニGにK子は少しむかついた。また、〈忙しくて外には出られない〉という用事が競馬だったということがわかり、負けてざまぁみろと思った。
    「…やばい、嫌われちまう…嫌われちまうよ、ちきしょう」
     うわ言のように繰り返すミニG。K子は、おはぎが入った袋を万年床に置くと、一番汚れていなさそうな場所を選んで座った。たばこに火をつけ、一息ついた。
    「いったい、誰に嫌われんの?」
    「…リコだよ」
    「リコ? リコって、あのスナックの?」
    「おう。誰にも言わないでって言うから内緒にしてたけどよ、しばらく前からリコといい感じでよ。あいつ、体の悪い母親がいて病院代がかかるって言うから、ときどき金を渡してんだよ。ちきしょー! 一世一代の大勝負だったのによ! 今月、ヤバいよ、もう…」
     ミニGは改めて馬券を拾うと、くしゃくしゃにして茶色く変色した砂壁に叩きつけた。
     ヴードゥーは、小さなスナックをやりたいというリコと一緒に北海道に行くと言っていた。K子は、目の前で「ちきしょう、ちきしょう」と繰り返すミニGを、憐みの目で見た。現場など、外で会うときは櫛を入れているのでそこまで思わなかったが、薄くなった髪が弱々しく頭皮にぶら下がっている様はみすぼらしく、ただでさえ小さいミニGを、より小さく見せた。それにしても…あのリコとかいうホステス、相当悪い女だなと、人を一人殺める相談にやってきた自分のことを棚に上げて、口角を上げた。
    「で、K子ちゃん、なんだよ今日は…改まって相談ってよ」
     灰皿が見当たらなかったため、K子はカップ酒の空き瓶でたばこを消した。
    「いや…もう、いいよ」
     こんなジジィにいったい何ができるというのか――。
     ミニGがアライのことをどうにかできるとは思えなかった。どうにかできるかもと一瞬でも考えた自分が滑稽で、笑える。かつて、こんな男に尊敬の念を抱いていたことが恥ずかしい。K子には、ガードマンとしての作業スキルも精神も、もうとっくにこの男を超えたという自負があった。
    「なんだ、いいのかよ…ところでよ、K子ちゃん」
     いきなり、ミニGが肩をがっしりと掴んできた。小さな体からは想像もつかない力だった。〈え? こんな力あんの?〉と先ほどの思いを再考させるに十分だった。いとも簡単に、K子は万年床に仰向けでねじ伏せられた。
    「この週刊誌に書いてあったんだよ。女が一人で男の家に来るってのは、OKのサインだって」
     はぁはぁと、生臭い息が顔にかかり、吐きそうになる。K子に馬乗りになったミニGは、下世話な週刊誌のページを開いてK子の前にかざした。〈特集! 女がメスに変わるとき〉と題されたモノクロのページには、目もとが黒く塗りつぶされた裸の女の写真が大きくレイアウトされていた。K子はなんとかミニGを振り落とそうと、バタバタと体をよじり、手を強く握って胸や肩のあたりを叩いた。ようやくうつぶせの状態になると、何か武器になるものはないかと、部屋を見渡した。すると、見覚えのあるものが目に飛び込んできた。ブラジャー。K子のものだった。数が足らなくなっていたのはわかっていたが、引っ越しの際に誤ってゴミとともに捨ててしまったのだろうと気にも留めていなかった。K子の目線に、ミニGも気づいた。
    「バレちゃったか…俺ぁよ、K子ちゃんのこと、ずっと気になってたんだよ。それで、引っ越し祝いした日にこっそり持って帰ったんだけど、あれで何回、自分を慰めたことか…な、頼むよ、一回、一回だけでいいから…な。今まで、優しくしてやっただろ?」
     ものすごい力で首元を押さえつけると、もう片方の手でK子のズボンを下げた。白い臀部が、半分ほど露になる。K子は「いやっ!」と腕を伸ばして先ほどたばこを捨てたカップ酒の瓶を掴むと、思い切って体をねじり、その反動を利用して瓶をミニGのこめかみのあたりに打ち付けた。「痛っ!」と一瞬力が抜けたが、そこまで大きなダメージを負わすことはできなかった。「この野郎!」とミニGは先ほどの週刊誌を丸め、K子の顔面を渾身の力で〈突いた〉。丸めた週刊誌で叩かれただけでは大したことはないが、突かれるとなると話は別だ。K子の唇は裂け、血が噴き出した。続けざまに5発、6発と突かれる。鼻血で呼吸がしにくくなり、右目も開かなくなるくらいに腫れてきている。その間、どんどんミニGの股間が膨れ上がっていくのがわかった。

     K子は知る由もなかったが、ミニGの前科は婦女暴行未遂だった。車を運転中に、帰宅途中だった女子中学生の自転車を撥ね、そのまま目の前にあった資材置き場の小屋に連れ込んだ。大きな声を出されたため、素手で殴り、女子中学生がぐったりしたところで犯そうとしたが、たまたま目撃者がおり、あっさり御用となった。背が小さいミニGは、そのことをコンプレックスに思いながら生きてきた。いつしか、抵抗する女を力任せに犯す妄想に囚われ、初めて行動に移したのだ。

     意識が薄れていく。ミニGはベルトを緩めてはちきれそうに隆起したパンツ姿になった。K子のズボンに手をかける。もう、K子に抵抗する力は残されていなかった。ミニGはそれを〈受け入れてくれた〉と勘違いした。だらりと右手のひらに酒の混じった唾液を垂らすと、それをたくましく天を向いた性器にこすりつけた。やがて、K子は下腹部に痛みを感じた。
    「K子ちゃん…あぁ、すごくいいよ…K子ちゃん…」
     発情した犬のように腰を振り続けるミニG。K子は天井の木目をただただ見つめていた。大阪時代の監禁部屋と同じく、なんの感情も持つことはなかった。ミニGは、すぐに果てた。額に汗し、カップ酒の残りをあおった。K子はのそのそと起き上がると、ズボンを穿き、たばこをふかした。
    「ミニGさ…お願いがあるんだけど」
    「何だい? 言ってみな。俺とオマエの仲じゃねーか。なぁ」
     ぜぇぜぇ言いながら、目尻をだらしなく下げた。
     K子は、アライに脅されていることを説明し、幼稚臭い殺しの計画をミニGに話した。
    「…って感じでさ。今度、アライがこっちに来たときに、一緒に殺っちゃおうよ」
    「そりゃあ…もちろんK子ちゃんのためならやってやれないことはないけど…ヤクザだろ? どうかなぁ、できるかなぁ…。ほら、俺、痔がひどいし」
    「できないの?」
    「うーん…殺しだろ? 俺、痔だしなぁ。痔さえなけりゃ、やれるんだけどなぁ」
    「もう、いいよ! ふざけんじゃねぇ!」
     煮え切らないミニGに腹を立てたK子は、持ってきたおはぎの袋に盗まれたブラジャーを突っ込み、立ち上がった。帰り際、台所にあった吸い殻が山になったアルミ製の灰皿をミニGに向かって投げつけた。

     ――数十分後。
     K子は中野新橋駅前のパチンコ店にいた。とっくの昔に〈家康〉はホールから姿を消し、後継機の〈NEW家康〉にモデルチェンジしていた。同時に、〈裏基板〉の時代も終わりを告げ、ギャンブル性はすっかり薄れていた。いくつか大当たりを引いたものの、すべて単発で終わり、あっという間に5万円を失った。目は大きく腫れ、鼻と口から血を流しながらおはぎをほおばる異様な姿のK子の両隣に座る者は誰もいなかった。
     もう〈パチンカス〉にも戻れない――。
     K子は、たまらなく誘導棒を振りたかった。

    19
    「そうそう、ゆっくりでいいんで…すごい、上手ですよ。その調子であの柵まで行きましょう」
     ――北海道。
     新千歳空港から、車で40分ほどの場所にある小さな牧場〈松前ファーム〉。ここに、ヴードゥーは住み込みで働いていた。
    〈松前ファーム〉は、以前に地方競馬場で広報の職に就いていた女社長が、引退後の競走馬のほとんどが不幸な余生を送っていることを悲観し、私財と募金を用いて5年前にオープンさせた。現在は8頭の元競走馬が、のんびりと過ごしている。
     この日、ヴードゥーは華やかな競馬界の裏にある悲惨な現実を、訪れた観光客たちに講義した後、乗馬体験を楽しむ彼らを乗せた馬を、手綱を引きながら誘導していた。

     東京から北海道へと向かうあの日。結局、リコは待ち合わせ場所に姿を現わさなかった。後から年増のママに聞いた話だと、店の売上金を持ち逃げしただけでなく、額面こそ差異があるものの、多くの男性客から金を騙し取っていたという。そのなかには、なんとミニGも含まれていることを知った。もちろん、「北海道のスナックの店舗に払う手付金が先にいるのよ」とリコに頼まれて渡した百万円は戻ってきていない。
     空いている時間は、医療大麻の開放を目指すNPO団体のボランティア活動として、フリーペーパーの制作やコミュニティFMの手伝いなどをこなし、北海道に来てから忙しなく動いてはいるが、やはりリコの件に関しては相当なショックを受けた。
     自分より弱い立場の人間が困っていたら助けてあげろ――。
     自分を男手一つで育ててくれた尊敬する祖父の言葉に従い今まで行動してきたが、その指針もぶれそうになるほど落ち込んだ。
    そんなヴードゥーの心を癒したのは、他ならぬ馬たちだった。
     そもそも、ヴードゥーが〈松前ファーム〉のことを知ったのは、大麻で逮捕された際に留置所で読んだ女社長が著した本だった。日本にはまだ浸透していない〈アニマルセラピー〉の重要性について書かれたもので、同じく日本ではなかなか認可が下りそうもない医療大麻との親和性を感じた。いつかは、亡き両親と暮らした北海道へ帰ることを考えていたヴードゥーは、仮出所後、すぐに〈松前ファーム〉とNPO団体に連絡を入れ、今に至る。
     毎日、馬たちと触れ合い、ようやく平穏を取り戻したヴードゥーが真っ先にしたことが、K子への電話だった。ガードマンという仕事にやりがいを見出して誇りを持ち、たびたび「こんな私でもこの世に生きたって証を残せることができそう」とキラキラした瞳で話していたK子だったが、自分の出所祝いの席や、ヒラヌマの葬儀の際など、明らかに黒っぽい膜が彼女を飲み込んでいるように思えた。自分が癒されたのと同じく、K子もここにくれば、もしかして…。そう思い、たびたび電話をかけたが、むなしくコールが響くだけであった。
     10代半ばのころからK子を知っているヴードゥーからすれば、彼女は仲間というより、もはや妹に近い存在だった。
     自分より弱い立場の人間が困っていたら助けてあげろ――。
     今こそこの言葉を胸に、もう一度、K子と真正面から向き合わなければならないとヴードゥーは強く感じていた。

    20
     唇の裂傷と目の周りの赤黒いあざが少し引いてくるまで、3日間、K子はガードマンの仕事を休んだ。しかも、ミニGを力任せに殴ったせいで、おそらく右手の甲の、小指の付け根あたりの骨が折れていた。ぽってりと腫れ上がり、3日経ってもうまく力が入らないでいた。
     それでも、K子は制服のボタンを首まで止め、ピシッとアイロンをかけたズボンを穿いた。白い革製のベルトを締めながら、昨夜あったアライからの電話を思い返した。

    〈もしもし? おぉ俺や。おばはんとおっさんなぁ、例の件、明日決行や。六甲山の崖から、車ごとドボンや。見通しの悪いカーブがあってな、前に事故があった後、壊れてもうたガードレールが補修されんと、ロープが張ってあるだけやねん。そのおんなじ場所から、ほな、さいならや。山奥やさかい、監視カメラもなんもない。完璧やで、ホンマ〉。

     K子はたばこを吸った。伯母夫婦への弔いのように、煙が揺れた。
     ヘルメットと誘導棒をリュックに仕舞い、自宅を出る。丸ノ内線で荻窪まで行き、JR中央線に乗る。今日の日勤の現場は八王子だった。

     甲州街道を一車線潰した、ガス管工事の警備。今日は6人のガードマンが〈上番〉しているが、そのなかにミニGもいた。さすがに気まずいのか、話しかけては来ずにK子の方をチラチラ伺いながら時折ほくそ笑み、ヘルメットの紐の長さをいつまでも調整し続けている。K子も、ミニGと〈片交〉などを組まされるのは嫌なので、なるべく遠くで準備していた。
     ケガをしている右手に力が入らず、誘導棒を持つことも心許ない。K子は誘導棒を軽く握ると、その上からガムテープをぐるぐると巻き付けて固定した。

     この日、K子の持ち場は歩行者誘導だった。工事現場のすぐ脇の歩道が狭くなっており、自転車を降りて通行してもらったり、歩行者へ足元への注意を促したりと、朝から業務をこなしていた。
     3日ぶりの仕事で、すがすがしい気持ちになると思っていた。自分に残された道は、もはやガードマンとして誘導棒を振ることだけなのだと、決意を新たにしたつもりだった。しかし、違った。K子は動揺した。アライの顔が頭に浮かんで払しょくできない。また、工事車両の後ろで誘導棒を振るミニGに対しての怒りの感情も、重油のように胸にこびりついて離れない。
     私からガードマンを奪わないで――。
     K子は、すがるようにこれまでのガードマンとしての成功体験を思い返した。ヴードゥーらと初めて〈上番〉したあの日のこと、ヒラヌマとの息の合った〈片交〉、泣きじゃくる赤子を誘導棒であやしたあの夜…。
     泣き声。止まらない。いくら、誘導棒であやしても…。なんで? なんで?
     K子の目の前で、2歳くらいの男児が膝から血を流して泣きわめいていた。
    「ゆーやちゃん! ちょっと、どうしてくれんのよ、ケガしてるじゃない!」
     両手にスーパーの袋を抱えた母親と思しき女が、K子に詰め寄る。
     K子は「なんで? なんで? なんで?」と言いながら、涙と鼻水とよだれを流し、号泣する男児の前で、ガムテープでぐるぐる巻きにした右手をゆらゆらと振った。
    「ちょっとアンタ! 責任者は? 責任者呼びなさいよ! 大丈夫? ゆーやちゃん!」
     そんな言葉など耳に届かないかのように「なんで? なんで?」と繰り返すK子。
     なんで? なんで、私からガードマンを奪うの?――。

     やがて、泣き声は止んだ。
     K子が、誘導棒で男児の頭をたたき割ったからだ。男児の熟れたメロンのように柔らかい頭皮はパックリと開き、傷口から頭蓋骨が見て取れた。意識をなくし、ぐらりと横に倒れた男児の顔面を、つま先に鉄板の入った安全靴でサッカーボールよろしく蹴り上げる。男児は、頭から血しぶきを上げながら2メートルほどゴロゴロと転がり、ピクリとも動かなくなった。
    「キャーっ! ゆーやちゃん!!」
     女の甲高い悲鳴が甲州街道に轟く。K子はゆらりと女の方に体を向けると、誘導棒で側頭部を思い切り殴りつけた。「ううっ」とうずくまる女の後頭部を、硬質なゴム製の靴底で何度も踏みつける。女は左の眼球が飛び出た状態で息絶えた。
    「ちょっ! 何やってんだ!」
     後ろから羽交い絞めにされる。ミニGだった。K子はミニGをおぶるように力任せにそのまま前へと進み、停めてあった工事車両の軽トラックの荷台からバールのようなものを左手で抜いて、背後にしがみつくミニGの脇腹のあたりに突き立てた。
    「いてぇーっ!」 
     ミニGはたまらずK子から離れ、片膝をついた。かすり傷だが、わき腹から血がにじんでいる。この騒ぎに、現場作業員たちもK子たちのもとへと駆け出してきていた。K子は、バールを持ち直すと、「この前、あんなに愛し合ったのに…」と涙を流してこちらを見つめるミニGの眉間を狙って、大きく振りかぶった。

     そのときだった。
     ドーンという爆発音とともに、K子の体はふわっと宙に浮いた。〈キーン〉という耳鳴り。あたりが、粉塵で真っ白に染まる。K子は〈キレイだな〉と思った。白のなかに、カラーコーンにつけられた赤と青の点滅灯や、誘導棒の規則正しい点滅があちこちでまばゆく光り、イルミネーションの中心にいるみたいだった。

     ヴードゥーくん、こんなにキレイな景色が特等席で見れるなんて、やっぱりガードマンって素晴らしい仕事だよ。底辺なんかじゃないよ。私、ガードマンが好き。だけどね、みんなが私からガードマンを奪おうとするんだ――。

     やがて、土砂がK子の足を覆い、一気に地底へと引きずり寄せた。それは、心臓や胃、肺が口から飛び出そうになるほどの力だった。耳鳴りが収まり、視界が真っ黒になった。
     テレビを消した後のような、静寂に包まれた。

     しばらくして、ようやく粉塵は収まった。道路に巨大な穴が開き、人間も、車両も、〈ガス管工事中〉と書かれた看板も、すべて飲み込んだ。
     ひびの入ったアスファルトに、誘導棒がガムテープで固定されたちぎれた右腕だけがあった。

    21
     ふたつ目の塩むすびを手に取った。
     医療大麻に関するアメリカでの研究結果をまとめた本を読みながら、ほおばる。難しすぎて半分ほどしか理解できてはいないが、こうして実際に患者に処方されている国もあるんだという希望が湧く。
    「ヴードゥーくん、精が出るね」
     オーバーオールに長靴を履いた〈松前ファーム〉の女社長が笑いかける。事務所のソファで、ヴードゥーは束の間の昼休憩をとっていた。
    「お疲れ様です! アニマルセラピーのことも、医療大麻のこともいっぱい勉強して、次に会ったときに成長したなって思ってほしいんです、仲間たちに」
    「大事な仲間がいるんだね」
    「はい。何でもいいから力になってやりたいと思うやつも、います。まぁ…俺、バカだからなかなか頭に入ってこなくて大変っすけど」
    「ゆっくりで、いいのよ。自分のペースで。だけど…午後から予約されてるお客様のお迎えは、そろそろ行かないとまずいんじゃない?」
    「やべ、ほんとだ! すぐ行ってきます!」
     塩むすびをお茶で流し込み、ヴードゥーは事務所を飛び出した。「運転、気をつけてよー!」と女社長はその背中に笑いながら声をかけた。
    「さて、と。私も準備しなきゃ」
     伸びをしながら、ふと、つけっぱなしのテレビに目をやった。

    〈本日、午後1時ごろ、東京都八王子市の国道20号で大規模な陥没事故が発生しました。警察の発表によりますと、陥没した穴の大きさは縦横約30メートル、深さ約15メートルに達しており、この日に行われていたガス管工事が原因との疑いを強め、関連を調べています。この事故で、現場作業員、ガードマン、一般の通行人を含め、少なくとも10名前後が生き埋めとなっているとのことですが、救助活動は難航を極めており、生存の確率はほぼ皆無と見られています〉

     さほど興味もなさげに、リモコンのスイッチを押す。
     テレビは消え、静寂が事務所を包んだ。

    #創作大賞2026 #エンタメ原作部門#イヤミス#映像化#ガードマン

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