晃弘の奇妙な冒険 ウィーンと戸頭の絵師候補生たち

ファントムシンクロナイズ

 ある日、私はウェブの記事を目にして、背筋が凍るような恐ろしさを覚えました。

 それは、若き日の独裁者ヒトラーが過ごした「ウィーン時代」の生活を紐解いた記事でした。

 そこに書かれていた独裁者の足跡は、私の現在の境遇や暮らしぶりと、不気味なほど精巧に重なり合っていたのです。

 ヒトラーは若き日に絵描きを志してウィーンの美術大学を受けるも、不合格という苦い挫折を味わいました。

 その後、「建築学校なら大丈夫だろう」とたかをくくっていたものの、そこでもまた道を閉ざされることになります。

 まさに、私が就活という大きな壁に跳ね返されて失敗し、その後に「アルバイトなら受かるだろう」とたかをくくって受けた先でまた不合格を突きつけられた、あの二段階の絶望の過程までもが生き写しのようでした。

 それだけではありません。お金をかけずに図書館へ通い詰める日々を送り、酒や煙草といった嗜好品とは一切縁のない暮らしで己を律し、公の助けとの繋がりを持ちながら、自らの言葉で発信活動を行っていたのです。

 「これほどまでに条件が重なるものだろうか……」

 パズルのピースがぴたぴたと合わさるたびに、まるで過去の独裁者の幻影(ファントム)と私が不気味に同調(シンクロナイズ)していくような、言葉にできない「ぞっとする恐ろしさ」が胸を締め付けました。

 たしかに、独裁者のように環境が悪かったからと犯罪に走った者たちに対して、同情したくなる瞬間はあるのかもしれません。

 環境のせいにしたいという後ろ暗い気持ちは、同じ苦しみを味わった私の中にも確かに存在します。

 しかし、だからといって一度犯した罪は決して許されることではありません。

年金潮流

 その重なりは、現在の私の生き方の根底にある部分にまで及んでいました。

 私は過去に就活やバイトでの大きな挫折を経験し、現在は障害年金と実家の支えを受けながら生活をしています。

 驚くべきことに、若き日の独裁者ヒトラーもまた、若くして亡くなったお父さんの遺族年金(孤児年金)を受け取り、お母さんが遺してくれた資産という「実家の支え」を頼りに暮らしていたのです。

 歴史の大きいうねり(潮流)の中で、公的な制度や家族が遺した原資というセーフティネットに守られながら、次の自立へと牙を研ぐ。その静かな潜伏期間の形式すらも、不気味なほど完全に一致していました。

 しかし、自分の内なる道徳(倫理観)と向き合い、この奇妙な符合を冷静に紐解いていくうちに、私は決定的な真実に気がついたのです。

スターvsダスト イラストレーターズ

 ヒトラーのウィーン時代は、肥大化した自己愛と、思うようにならない現実との狭間で身悶えする時間でした。独裁者は度重なる挫折や自らの不条理な境遇をすべて「世間のせい、他人のせい」にし、その気力を【外への破壊と攻撃】へと変えていきました。

 独裁者の禁欲は「自分は凡人とは違う優れた人間だ」という傲慢な思い込みのためであり、独裁者の言葉は人々の不安を煽り、憎しみを操るための武器でした。

 自分の思い通りにならない現実から目を背け、弱者を踏みにじることで歪んだ全能感を満たす。

 それこそが、自分の利益のために他人を利用し排斥する、正真正銘の「吐き気を催す邪悪」の向きです。

 独裁者は同じ絵描きを目指す者(イラストレーター)でありながら、現実に絶望し、ただ足元の塵(ダスト)と泥沼だけを見つめていたのです。

私の筆は砕けない

 悲惨なことに独裁者はのちに「T4作戦」という優生思想に基づいた恐ろしい計画によって、障害を持つ人々をも世の中から排除し、命を奪おうとしました。

 しかし、歴史を真摯に見つめ直せば、独裁者の歪んだ優生思想など、ヒトラーが活躍するよりも前にとっくに完全論破されていたことに気付きます。

 その決定的な先例こそが、ヘレン・ケラーという偉大な存在です。

 ヘレン・ケラーは「目が見えない、耳が聞こえない、言葉が話せない」という三重の苦難を背負いながらも、世界的な作家・教育家となり、誰よりも高度な知的生活と社会貢献を全うしました。

 ナチス体制は、自分たちの思想にとって不都合な「光」であるヘレン・ケラーの存在を恐れ、100年前のドイツの広場でヘレン・ケラーの著書を激しく燃やしました。

 言葉を検閲の炎で亡き者にしようとしたのです。

 しかしその時、ヘレン・ケラーは「思想は燃やせない。あなた方は本を燃やすことはできても、そこに書かれたアイデアが人々の心に生き続けるのを止めることはできない」と、不滅の反論を突きつけました。

 歴史が私に「精神の障害」という変数を与え、過去にヒトラーがそれを排除しようとした因縁を配置したこと。

 これはもはや、ひとつの壮大な「伏線」だったと言えます。

 なぜなら、独裁者が「生きるに値しない」と断じてへし折ろうとし、本を燃やしてまで消し去ろうとしたまさにその枠組みの中から、私は今、独裁者が決して到達できなかった「高度な知的生活」を生み出しているからです。

 皮肉にも、三重の苦難に抗ったヘレン・ケラーや、精神の障害を持ちながら執筆や作画からプログラミングまでAIや周囲の手も借りつつ自立を目指している私といった存在が、ヒトラーの言い分を完全に無効化してしまったのです。

 ヘレン・ケラーの精神を受け継ぐ私の創作への意志、美学を紡ぐ「筆」は、どのような歴史の闇に直面しようとも、決して砕けることはありません。

黄金の関数

 私は今、メルカリで調達して愛用しているパソコン(Chromebook)に向かって、JavaScriptのプログラミングを勉強しています。画面の中でコードを組み立てながら、確信しました。

 私と独裁者のあいだで、置かれた環境や暮らしぶりという「与えられた入れ物(変数)」は確かに似ているかもしれません。しかし、それを処理する精神という「心の働き(関数)」は完全に真逆だったと。

 同じ「負の重荷」という値を入力されても、ヒトラーという関数はそれを「破壊と憎悪」へと出力し、私という関数はそれを「清貧の美学と徳」へと出力しました。

 酒や煙草と無縁な私の暮らしは、限られた予算の中で心身を健やかに保ち、日々を誠実に生き抜くための「清貧の美学」の実践です。

 お手紙などでの便りや贈り物を交わす大切な人から受け取った本物の温もりに、手作りの菓子でお返しをするような、温かい心の循環がそこにあります。

 自らの正義と哲学を貫く「黄金の関数」から出力されるものは、常に優しさと創造のエネルギーそのものです。

ヒストリーオーシャン

 名作漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の作中には、このような美しい詩が引用されています。

 「二人の囚人が鉄格子の窓から外を眺めた。一人は泥々の泥沼を見た。一人は星を見た」

 歴史という巨大な海(ヒストリーオーシャン)の仕組みとして、たまたま同じような初期の配置(引き出し)に入ってしまったとしても、そこに怯える必要はまったくありませんでした。

 独裁者が窓の外に見つめ続けたのは「復讐と憎悪という泥沼」であり、私がこの部屋の窓から見つめているのは「表現と徳という美しい星空」だからです。

 歴史の仕掛けた最悪の伏線は、私の生き方そのものによって、100年越しに完全に論破されました。

 形は似ていても、向かっている未来は決して交わることのない対極にあります。

 あの独裁者が最も持ち得なかった「心の豊かさ」という誇りを胸に、私の『奇妙な冒険』は、これからもこの戸頭の地から、どこまでも穏やかで美しい創造の道へと続いていきます。

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