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【後編】鏡

    舞花がいなくなっても、月日は平然と過ぎていった。
    私はいつの間にか中学生になっていた。
    「花菜、同じクラスだったよ!」
    「本当に!?やったー」
    気付けば、ゆかりと過ごす時間が一番長くなっていた。放課後はほぼ毎日遊び、お互いの家でお泊り会もやった。
    「花菜の部屋、広くて羨ましい!お家も大きいし」
    ゆかりはそんな事を言っていたが、私は温かなゆかりの家族が羨ましかった。
    家ではもう母との会話はほとんど無くなっていた。
    パートの時間を増やした母の帰りは日に日に遅くなった。
    ――本当に働いてるかは分からないけど。
    脳裏に嫌な記憶が浮かびそうになり、急いで頭を振って消した。
    「花菜?どうしたの?」
    「ううん、何でもないよ」

    中学生になってから数ヶ月後、祖母が唐突に亡くなった。
    家で倒れているのを妹が見つけたらしい。
    たくさんの花に囲まれて眠る祖母は穏やかな顔をしていた。
    パートで帰りが遅い祖母だったけど、家にいる時は母や妹に内緒で私の好きなおやつをくれる優しい人だった。
    眠る祖母の横にそっと、祖母の好きだったスイートピーを入れた。
    葬儀から数日が経ち、慌ただしさが落ち着いたある日、家に帰ると父がいた。
    こんな時間に父がいるなんて、退院した日以来のことだった。
    (まだ葬儀の手続きが残ってたのかな?)
    軽く考えている私に父は席に座るように促した。
    向かい合う形で座った父は口を開かない。
    段々と重たい空気が流れ始め、私は全てを察した。
    先に口を開いたのは私だった。
    「お母さんと離婚するの?」
    あっさり言い放った私に父はとても動揺した。
    「…どうしてそう思った?」
    「お母さん、浮気してるじゃん」
    父の目が大きく見開かれる。
    「…知って、いたのか?…いつから?」
    一瞬だけ迷ったが、口に出した。
    「3年生の時。偶然見た」
    父は大きな溜息をつき、頭をかかえた。
    沈黙が続く中、父はボソリと呟いた。
    「…他は?」
    ――他?まだ何かあるのか。
    「…菜々は父さんとは血が繋がっていなかった」
    父の言葉を聞いて、気付いたら席を立っていた。
    「花菜!」
    父が叫んでいるが、構わずキッチンで嘔吐した。
    身体中の何もかもが出ていくような気がした。
    駆け寄ってきた父は無言で背中を撫でてくれた。

    少し落ち着いた私は父を真っ直ぐに見つめた。
    「…私は、お父さんに付いていくよ」
    「…そうか」
    「…菜々も」
    父は目を伏せた。
    「…そう、だな」
    父の心中は私よりも複雑だろう。
    だけど、妹には何の罪もないのだ。
    「母さんとの話し合いは俺だけでする。…それでいいな?」
    「…うん」
    母の顔なんて見たくもなかった。父に全部背負わせることになったとしても。

    「…そうだ、花菜。おばあちゃんの部屋を片付けてくれないか?」
    「…分かった」
    ふと、思いたって父に尋ねる。
    「おばあちゃんの鏡、もらっていい?」
    父は今日何度目になるか分からない溜息をついた。
    「…やめておきなさい」
    静かにそう言った。
    「なんで?…私にだって、おばあちゃんの思い出の物をもらう権利ぐらいあるでしょう!?」
    「…花菜、落ち着きなさい」
    父に言われ、少し冷静さを取り戻す。
    「…花菜、お前を一人にしていてすまない…」
    長い沈黙の後、父はぽつりと話し始めた。
    「仕事を言い訳に、家庭を顧みず、お前にだけ負担を背負わせてしまった…」
    父が息を吐く。溜息とは違う、覚悟を決めたような呼吸だった。
    「…おばあちゃんはパートになんか行っていない」
    「…えっ?」
    「おばあちゃんはカルトや呪術に傾倒していてな…夕方はその集まりに行ってたんだ」
    「…」
    「…花菜」
    「…あはっ、あはははははっ」
    笑うしかない。どうして、気付かなかったんだろう。
    ゆかりが言ってた「花菜ちゃんの部屋は広くていいな」って。
    パートに出る必要なんかないのだ。
    祖母も、母も。
    止める父を振り切って祖母の部屋に駆け込む。
    祖母の部屋の中でも一際異彩を放つ、大きな姿見。
    私は迷わずその姿見を叩き壊した。
    全部、全部、全部なかった事にしたかった。

    高校を卒業して、私はすぐに家を出た。
    大学生活の大変さを支えてくれたのはゆかりだった。
    学部は違うけれど、同じ大学に進学したゆかりとはルームシェアをしている。
    「花菜のご飯美味しい!太る!」
    彼女の朗らかさは私の救いだ。
    家から離れたことで、私の精神も安定していた。
    時々、父や妹にメールを送る。
    この距離くらいが、ちょうどいいのかもしれない。

    大学が夏季休暇に入り、互いにバイトに勤しむ日々を送っていたある日、ゆかりがなんだかソワソワとしていた。
    「…ゆかり?」
    話し掛けても返事がない。
    空を見つめるゆかりの肩を少し揺らす。
    「わっ!…花菜か」
    「どうしたの?大丈夫?」
    心配する私にゆかりはポツリと言った。
    「…好きな人ができた」
    「…えっ?」
    ゆかりとは小学校からの付き合いだが、浮いた話は一度もなかった。
    「お、おめでとう…?」
    咄嗟に出た言葉はとてもぎこちない。
    「…ふはは。何それ」
    ゆかりは笑いだし、私もつられて笑ってしまう。
    ゆかりが好きになる人だから、きっと素敵な人だろう。
    「今度、紹介してね」
    「うん」
    私たちは初めて恋バナで盛り上がった。

    ゆかりの好きな人はバイト先にいる二歳年上の人だった。
    告白して、付き合うことになったと聞き、今日初めて会った。
    「初めまして、悠一です」
    そう言った彼は柔和な表情が印象的な人だった。
    「悠一さんも、医学部なんですか?」
    「えぇ、内科医を目指して頑張ってます」
    「花菜は産婦人科医だよね?」
    「それは…大変そうですね」
    「私だけ薬学部なんだよなー」
    三人とも似た進路で、話は自然と盛り上がった。
    会話やちょっとした動作から彼が知的で、気遣いのできる人だと分かる。
    何より、ゆかりのことを一番に考えていることが分かり私は安心した。
    「今日はありがとうございました。また三人でご飯に行きましょう」
    「もちろん」「ぜひ」
    私とゆかりの声が重なった。
    彼が笑い出し、私とゆかりも顔を見合わせて笑った。

    大学在学中に、ゆかりは悠一さんと結婚した。
    白いウェディングドレスに身を包んだゆかりは、息を呑むほどに綺麗だった。
    悠一さんと寄り添うその姿は、どこか遠いもののようで、私の理想がそのまま形になったように見えた。
    ゆかりは悠一さんの家に引っ越すことになった。
    「花菜のご飯をもう食べられないなんて」
    「大げさだなー。ほら、ちゃんと荷物詰めて」
    「花菜ー!花菜も一緒に引っ越そうよ」
    無茶な事を言うゆかりを放っておいて私は自分の部屋の片付けを始めた。
    実家から出た時に勢いで持ってきたものを、ついでに整理したかったのだ。
    仕舞ったままの箱を開けるとアルバムや本に紛れて入っていた小さな財布を見つけた。
    それは舞花の財布だった。
    中を開けると数百円の小銭と小さな鏡の破片が入っていた。
    両手で破片を包み込むと幼い日の記憶が鮮やかに蘇る。
    そっと財布の中に破片を戻し、大切に引き出しの奥に仕舞った。

    産声を聞くたびに、少しだけ不思議な気持ちになる。
    産婦人科医として、何人も赤ちゃんを取り上げてきたけれど母親のお腹から出てくる瞬間はいつ見ても神秘的だと思う。
    ぎゅっと丸まった小さな手を見ると、入院していた頃に見た新生児室を思い出す。
    今日は久しぶりに早く仕事を終え、レストランへ向かった。
    「お待たせ、ゆかり」
    「花菜、久しぶり」
    薬剤師として働くゆかりとこうして会うのは三ヶ月ぶりだった。
    ご飯を食べながら、お互いの近況で話に花を咲かせる。
    ゆかりは変わらず悠一さんとは仲が良いようで、安心していた。
    けれど、一通りご飯を食べ終わった時にゆかりが暗い顔で話し始めた。
    「…花菜、プライベートでこんな相談して悪いんだけど、私、不妊みたいなの」
    ゆかりからの告白に、私は息を呑んだ。
    何を言えばいいのか分からなかった。
    「悠一さんとも話して、治療することにしたんだけど、花菜のところで診てもらえないかな…?」
    真剣な顔をしているゆかりを安心させてあげたくて、私は「もちろんだよ」と応えた。
    自分の病院で再検査をしても、結果は変わらなかった。
    ゆかりも悠一さんも暗い顔で検査結果を聞いていた。
    「ゆかり、悠一さん、可能性はゼロじゃないから諦めないで」
    そう、声をかけることしかできなかった。

    ゆかりの不妊治療は難航した。
    色々な方法を何度試しても、結果は変わらなかった。
    徐々にやつれていくゆかりと、検査に付き添う回数が減った悠一さん。
    そんな二人を見ているのは、とても辛かった。
    何度目かの検査の時、ゆかりがポツリと呟いた。
    「…もう、やめようかな」
    何か声を掛けようとして、何も言えなかった。
    理想そのものだった二人が脆く崩れるのを見ていることしかできない。
    私がどんなに辛い時も寄り添ってくれたゆかり。
    「私が悩んだり、落ち込んだりした時に花菜ちゃんも私の話を聞いて。そして、一緒に悩んで落ち込んで」
    かつてゆかりがくれた言葉が耳の中でこだまする。
    私は、ゆかりを助ける覚悟を決めた。
    あの時、ゆかりが私にしてくれたように。
    どんな方法でもいい。
    「友達って、そういうものでしょ」
    ――そうだよね、ゆかり。

    仕舞っていた財布から小さな鏡の破片を取り出す。
    鏡に映る自分は、あの頃よりも大人びている。
    ――舞花、ごめんね。
    私は小さな破片を更に小さく砕いた。
    粉々になった破片に映る私は小さく笑っていた。

    「…花菜、本当…?」
    検査結果を聞いて、ゆかりと悠一さんは驚いていた。
    私が頷くと二人は抱き合って、泣いて喜んだ。
    「花菜、ありがとう!花菜のおかげだよ」
    「本当にありがとう!」
    口々に二人がお礼を言う。
    「ゆかり、悠一さん、本当におめでとう。辛い治療によく耐えたね」
    そう言うと、二人は私に抱きついて、更に大きな声で泣き始めた。
    温かな二人の体温を感じて、私は理想が壊れていないことに安心した。

    少し大きくなったお腹をゆかりは愛おしそうに撫でている。
    「ねぇ、花菜。この子の名前、付けてよ」
    ゆかりは唐突にそう言った。
    私は少し目を伏せる。
    「…悠一さんと決めた方がいいでしょ」
    「そう言うと思って、悠一さんには相談済です!」
    無邪気にゆかりは笑った。
    「…舞花」
    「おぉ、可愛い名前だね。男の子だったら?」
    興味津々で聞いてくるゆかりに私は応える。
    「…女の子だよ」
    不思議そうな顔をしているゆかりを置いて、私は席を立った。
    目を閉じると、暗闇の中で温かな鼓動と水音を感じた。

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