わたし、自分のことをなにも知らなかった。
“「この物語は自分にしか描けないものだ」「自分だからこの物語を書きたい」
そういう作品を描いてほしい”
大学の卒業制作のゼミで、教授にこう言われた。
4年間、自分の表現をするために、自分という人間を見つめ、向き合ってきたはずなのに、こう言われたとき簡単そうに感じたのにとても難しかった。
「私はなにを書きたいんだ?」「どういう人間なんだ?」
これらの問いと向き合ったとき、自分という人間に対してより深く観察し考えるようになりました。
#00 創作大賞に応募しようと思った理由
卒業制作の企画段階で自分という"人間"と向き合う中で、自分の頭の中の思考や感情、弱さを言葉にして、それらが誰かの自分自身を少しでも理解できるきっかけになればいいと思ったから。
卒業制作の「自分にしか書けないもの」を見つけるため。
これもありますが一番はこの問いに対して自分と向き合い続けた結果さまざまな発見がありました。
(一気に書き上げたわけではなく、日に日に更新しています)
そしてこれは、私だけでなく人間である皆さんに共通するものや共感するもの、誰かの悩みや生きていく上でぶつかる壁やヒントにもなるんじゃないかと思い、自分の記録として残しておこうと思いました。
単なる私の自己満です。
ですがこの自己満足が、誰かのためや救いの手となれるのであれば、これ以上の嬉しいことはありません。
自分で納得できる作品を書き上げるために、新しい自分と出会うために、自分を見つけるためにここに言葉として残していきます。
#01 “わたし”という人間
私はとてもよく笑います。
楽しいことが大好きです。人を笑わせることも大好きです。
毎日幸せでいたいです。笑っていたいです。
私はよく喋ります。騒がしい、愉快な人間です。
沈黙に困ったら呼んでください。永遠と一人で喋れます。
ですがその一方で、私は信じられないほど冷徹です。
目の前の「人間」「現象」を観察し、分析してしまうときがあります。
自分が納得いくまで考え続け、自分なりの答えを見つけます。
私は負けず嫌いです。
勝負事だけではありません。
誰かやなにかのせいで自分が崩れるのも許せません。
私は理想が高いです。
自分に対する理想も、世界に対する理想も高いです。
「こういう人間でありたい」「こういう自分になりたい」
でもそのくせ納得いく形で行動に移せることは滅多にないです。
自分に課す理想が高すぎて自分で自分を苦しめます。
私は興味があることには一直線です。
反対に興味がないことには無関心すぎます。
私は面倒臭い人間です。
自分で面倒臭い自分の相手をすることで精一杯です。
#02 -1 私はなぜ、考えるのか
皆さんも日々、いろいろなことを考えると思います。
夜寝る前なんかに、
「あの人のあの発言はどういう意味だったんだろう」「今日のあの自分の言動は良くなかったんじゃないか、傷つけてしまったんじゃないか」「もっと上手くできたかもしれない」
心当たり大アリな方が多いと思います。
私も時たま、こういった反省会をします。
私は、本当に、よく考えます。
色々なことについて考えます。
「考えすぎじゃない?」「よくそんなこと考えてみようと思ったよね」
こんなことを言われるのは日常茶飯事です。自分でもそう思っています。
「なぜ人は恋をするのか」「なぜそんな言い方をするのだろう」「どうしてこんなことをするのだろう」「幸せってなんだろう」
今挙げたものはほんのわずかですが、こんな正解なんて一見ないようなものについて自分で問い、考えています。
そしてある日、ふと思いました。
“ 私はなぜ、こんなにも考えるのだろうか ”
ついにこんなことについても手を出して考え始めてしまいましたね。
ですが私は、この問いこそが、自分という人間を深く知れるヒント、自分の核となる部分になるのではないかと思いました。
#02 -2 私はなにを考えるのか。なぜ、こんなにも考えるのか。
人のこと。
人間関係のこと。
感情のこと。
幸せのこと。
社会のこと。
夢のこと。
個性のこと。
性格のこと。
人はなぜ、一生の愛を誓ったのに裏切るようなことができるのか。
なぜ信頼関係を築き上げるのはこんなにも難しいのか。
望んだものを得るのはなぜこんなにも困難なのか。
結婚するときによく『幸せになろうね』と聞きます。
でも、それは「今はまだ幸せじゃない」という意味なんだろうか。
幸せになるために結婚するのか。
結婚以外にも幸せを感じられるものはたくさんあるんじゃないのか。
バイトの面接に来た人に対して、その人の『生き方』に対して説教してやったと、俺はやってやったと言わんばかりに誇らしげに話してきた店長がいた。
頼まれてもいないのに、意見を聞かれているわけでもないのに、相談されたわけでもないのに、今日初めましての自分ではない“他人”にどうしてそこまでするのか。
私は、その出来事そのものよりも、「なぜ人は、求められていない正しさを相手に渡したくなるんだろう」と考えてしまう。
(詳細は聞いていないのでなにか事情があったのかもしれませんが)
へー、と、普通ならただ過ぎていくだけのような、別に気にも留めないような出来事や物に対して、私はなぜこんなにも考えるのだろうか。
そういったことをたくさん、ぐるぐる考えて、色々な考えが複雑に結びついて絡まって、気づいたことがあります。
それは“自分が傷つかないためなのではないか?”と。
“ストレスを受けないようにするためなのではないか?”と
自分が傷ついたということに気づく前に理由を探す。
相手がどんな人間なのか理解できていれば、相手の生き方が自分には理解できなくとも、納得できる。
「そういう人だもんな」「まあ、こうだもんな」
そういう風に自分の中に落とし込むことで、心がすり減らされることもない。
同じような人との出会いや出来事が起きても、もう傷つかなくて済む。
だから、考えるのだと。
ですがこの結論だけでは、引っ掛かるところがありました。
私は、嫌だった出来事、自分の心がすり減らされてしまわないように、ということだけを考えているわけではありません。
嬉しかったことも。
楽しかったことも。
幸せだったことも。
「なんで、あの時間はあんなにも心地がよかったんだろう」
「なんで、あの人といると自然体でいられるんだろう」
そんなことまで考えています。
傷つかないためだけなら、こんなことを考える理由はないはずです。
じゃあ私は、一体なにを知りたくて、こんなにも考えるのだろうか?
#03 自分は強い人間だと思っていた
自分は人に振り回されない、傷つかない、メンタルが強い人間なのだと思っていました。
そんな自分を、自分の強みだと、長所だと思っていました。
でも実際は違うのかもしれない。
私は傷つかない人間ではなく、人より何倍も傷つきやすい人間なのかもしれない。
何倍も人の感情や顔色を気にしていたのかもしれない。
今まで、自分でも気づかないうちに、私はきっと何度も傷ついてきた。
でもその度に、そういう自分でいることが、暗い気持ちのまま生きていくのが嫌で。
そのたびに考えた。
理解しようとして。
納得しようとして。
そうやって、自分なりに前を向きながら生きてきた。
傷つかない人間だったわけじゃない。
傷つきながらも、自分の人生を生きていくために必死だった。
傷つきながらも私が私で生きていけるように、人間の生々しい部分や感情、思考、世の中の在り方、社会を分析したり、考えていたのだと。
傷つきやすいことは、弱さなのかもしれない。
でも、その弱さから目を逸らさずに自分で認め、何度も考え、自分なりの答えを探し続けてきた。
だから今の「考える私」がいる。
ある意味で、それは私の強さなのかもしれません。
#04 人を諦めた、と思っていた自分
そしてまた、ここでふと気づいたことがあります。
私は人を諦めた、と思っていたが、本当は人を諦めていなかったということに。
私は“特定の誰か”に興味はありませんが、“ヒト”には興味があったため(生きていく中で不回避な人間関係で苦労しないために興味を持ったのでしょう)、人間を深く、鋭い視線で客観的に見てきました。(と、勝手に自認しています)
それが故、人の醜い部分や生々しい部分、汚い部分など人間の様々な側面を見てきました。
人はどれだけ信頼関係が積み上がってきたとしても、どれだけ大切な人であろうと、そんなものが嘘だったかのようにいとも簡単に崩れていくことがある。
裏切りもある。
だからこそ人を疑うようになってしまった。
信じられなくなってしまった。
誰かと深い関係を築くことなんて、最初から望まなければ傷つかずに済む。
そんな簡単に崩れ、離れていってしまう縁や絆なのであれば私はいらない。
それなら私はひとりで生きていきたい。
その方が幸せだと思うから。
そういう思いが積み重なっていき、いつしか人を諦めていました。
でも。
本当にそれが私の本心なのであれば。
私は「愛」について、今もなお考え続けるだろうか。
どうしたら強い絆を結べるのか、熱い信頼関係を結び続けられるか、なんて考えるだろうか。
誰かの素敵な信頼関係の話や困難を乗り越えた先にある愛の形などの物語を見て涙を流すだろうか。
私は人を諦めたつもりでいました。
でも本当は諦めきれていなかった。
本当は。
自分でもちょっぴり認めたくなかったけど、
だれかを信じたい。
だれかを思いきり愛してみたい。
だれかと固く結ばれた、強い信頼関係を築きたい。
私にはこの人がいるから大丈夫だ、と思える相手、そしてそう思ってもらえる相手と出会いたい。
諦めたつもりでいたのは、頭だけだった。
人を信じられない。でも、本当は信じることを諦められなかったんだと、この記事を書きながらふと思いました。
『頭じゃわかっていても、心は追いつかない』
状態なんですかね。(Saucy Dogさん/シンデレラボーイ から)
一人でいい!恋人なんていらない!なんて強がっていた私の本心というものは、実は真逆のものであったということ。
強がりであったということ。
皆さんにも、ひどく嫌いなもの、体が受け付けないもの、とても愛しているものと言った強い感情、そういったものがあると思います。
そういったものが、自分にとってなぜそうなのか深ぼって見てみると新しい自分、自分の見たくなかった、認めたくなかった自分、自分の本心と出会えるかもしれません。
#05 【最後に】 これが、わたし
色々寄り道をして、ようやくここまで来ました。
試行錯誤をして、自分なりに頑張ってまとめたつもりではいるのですが、上手く伝わらないものとなってしまっていたら申し訳ございません。
最後に、私がこのnoteを一通り書き終えて、最終的に残しておきたかったこと。
それは““自分という人間を理解することは、自分らしく幸せに生きることにつながる””ということです。
このnoteを書き始めたとき、私は自分がどんな人間なのかを探していました。
そしてそのために「考える」という手段を日常的に使っていた。
この「考える」という工程はつまり、「自分という人間を理解していくこと」だったのです。
はじめは、私は、傷つかないために考えているのだと思っていました。
でも、ここまで書いてきて気づきました。
私は傷つかないためだけに考えていたわけではなかった。
“ヒト”(人)を理解したかった。
自分を理解したかった。
幸せを理解したかった。
つまり私は、
人生の解像度を上げるために考えていたんです。
嬉しかった日も。
苦しかった日も。
誰かを好きになった日も。
誰かに傷ついた日も。
そのまま通り過ぎるんじゃなくて、「なんでだろう。」と考える。
そうやって経験を知恵に変えて、
少しずつ自分を知って、
少しずつ“ヒト”を知って、
少しずつ幸せを知っていく。
私にとって考えることは、人生を難しくするためじゃない。
人生を、自分らしく生きるため。
人生の解像度を上げながら、自分なりの最高の幸せを更新し続けるため。
残念ながら、冒頭に述べた教授に言われたあの言葉の答えには、まだ辿り着けていません。
だけど、傷つきながらも必死に考え、本当は人を信じたいのだと気づきそして願い、人生の解像度を上げようともがくこの私の泥臭く、人間味あふれるこのプロセスこそが、きっと「私にしか書けない物語」の始まりなのだと、感じています。
ここまで読んでいただき、誠に感謝いたします。
本当にありがとうございました。
2026.7.8
