「急に具合が悪くなる」を観てきた
映画「急に具合が悪くなる」を観てきた。
長男の期末試験が始まる前、小学生のチビすけの6時間授業の日、おまけにハッピーマンデー!もう、ここしかない!というタイミングを見計らって。
カンヌ映画祭で、日本人の岡本多緒さんが主演女優賞を受賞したことでも話題になった作品だが、私が惹かれたのはそれだけではない。受賞のニュースが飛び込んできた日、原作の『急に具合が悪くなる』(宮野真生子・磯野真穂著)が哲学者と文化人類学者の往復書簡だと知ったからだ。文化人類学者のなりそこないとしては、渇きを癒す泉に飛びつく犬のような感覚で、原作を求めて本屋に走った。
線を引き引き、時間をかけて原作を読んだ。
それは自分の内側を確認する時間でもあったし、身につけていたものをいったん下ろして自分の感覚の境界線を引き直す時間でもあった。
あまりにも壮大で抽象的で、どこかに明確なテーマがある、というより、テーマの礎そのものを形づくるような書簡のやり取り。
これをどうやって映画化するのだろう、という疑問がわいた。
がんを患った哲学者と文化人類学者という人物設定は、映画では舞台演出家と人間らしい介護を目指す介護施設の施設長へと置き換えられている。それぞれが若いころに学んでいた学問として、哲学と文化人類学の視点は、映画全体に静かに息づいている。
途中、原作にはなかった「資本主義とは何か」という議論や、ケアの本質を問い直すユマニチュードという技法の話も登場し、頭を一からフル回転させる必要があったけれど、それもまた興味深いやり取りだった。
「死に損ないのがん患者なのに、リスクをおかしてまでその向こうへ行こうとしている」
それは映画の中で演出家のまりが口にしたことでもあるし、原作の中で、がんを患った哲学者・宮野真生子さんが繰り返し訴えてきたことでもある。
がんを患うと、他者によって「がん患者」と規定される。「がん患者」になると、医者から遠出を控えなければならないと言われたり、やらなければならないことが増えたりする。でもそれをしなかったからといって、リスクがどれほど増えるかは、結局のところ確率論でしかない。遠出をしたって病状が悪くならない人もいるし、逆に病状が悪くなるのは遠出のせいじゃないかもしれないし。どれほど科学が進歩したとしても、「もしあの日遠出をしていなければ」という問いに、誰も答えを持つことはできない。最後は因果では割り切れないものが残ってしまう。だから宮野さんは確率として提示されるリスクを引き受けてでも、その向こうに行きたいのだ、と。
人はだれしも、試験に落ちるかもしれないとか、ケガをするかもしれないとか、シュートを外すかもしれないとか、日常生活の中でつねに、そういう類の無数のリスクを抱えながら生きている。だから、危ない橋を渡るのはやめておこうとか、シュートではなくパスを選択しようとか、「合理的」と言われる判断のもとにリスクを回避しようとする。でも、その一見「合理的」と言われる判断に身をゆだねることで、唯一無二の自分の人生を手放すことにならないだろうか。
リスクを引き受けてでもその先へ向かう人は、自分が大河のたった一滴に過ぎないとしても、「だからこうなった」という原因と結果で誰かに説明される人生ではなく、自分で選び取った人生を生きたいと願っているのかもしれない。
それが、「死」という究極のリスクであったとしてもなお、自分で選ぶことを求めるのが人間なのか、と思うと胸が熱くなった。
そんなことを考えながら、ふとわが家の思春期男子について思いを馳せる。
大人が「合理的」だと信じる判断によって、自分という存在が規定されることに、彼もまた必死に抗っているのだとしたら。
あの反抗も、あの不機嫌も、あの理屈っぽさもーー
ただ親に逆らっているのではなく、「自分は自分でありたい」という足搔きなのかもしれない。
私にできることは、宮野さんと磯野さんが互いにそうであったように、その向こうへ行こうとする彼のそばにいることなのかもしれない。
そして、どうしても一人で越えなければならない場所では、向こう側で、そっと手を広げて待っていたい。
