
大学の先輩がサハリンで撮り続けている
大学の先輩、新田樹さんがサハリンで写真を撮り続けている。
先日、第47回木村伊兵衛写真賞と第31回林忠彦賞という「日本三大写真賞のうち2賞を同時受賞した」というニュースが入ってきたので紹介したい。
「Sakhalin」の受賞
https://photoandculture-tokyo.com/contents.php?i=2021
▼第47回木村伊兵衛写真賞に新田樹さん。ソニーイメージングギャラリー銀座で受賞作品展 - デジカメ Watch
▼日本三大写真賞 第31回「林忠彦賞」東京工芸大学卒業生 写真家・新田樹氏に決定 - 大学プレスセンター
▼大学のプレスリリース
https://www.t-kougei.ac.jp/activity/pr/uploads/2023/03/kougei_hayashi-award2023.pdf
作品「Sakhalin」について。
ロシア・サハリン(樺太)、この島の北緯50度から南半分は、日露戦争後の1905年から1945年8月の第二次世界大戦終結までの40年間、日本の統治下にあった。1945年8月のソ連参戦時の緊急疎開と翌年に始まる引き揚げで、そこで暮らしていた日本人の多くはこの地を後にした。一方で多くの朝鮮半島出身者やその配偶者であった日本人らは、ソ連が支配したこの地を離れることはかなわなかった。
戦後50年を過ぎた1996年、写真家としての最初の地としてロシアを旅していた作者は、サハリンのユジノサハリンスク(豊原)で日本語を話す女性たちと出会い、サハリンとそこに生きる残留韓国・朝鮮人やその配偶者であった日本人がいることを知った。しかしその時はまだ、これらの人々と向き合う自身が持てなかった。
14年後の2010年、作者はこうした人々の現実を残したいと決意を固めた。最後の生き残りともいうべき人たちの家を何度も訪ね、丁寧に取材し、その生活や周りの様子をカメラにおさめていった。そしてその成果を、2015年の写真展「サハリン」で発表、その後も取材を続け、2022年の写真展「続サハリン」と写真集『Sakhalin』にまとめあげた。
遠い北方の地で今なお日本語を話す人々。凍てつく寒さの中でつつましく生きる彼女らの人生に寄り添いながら撮影した作品には静かな時間が流れている。歴史に翻弄されながらもたくましく生き抜いてきた一人一人の人生の重みが伝わってくる。
本作品は、戦争の歴史に翻弄された人々の姿が写真の行間から浮かび上がるドキュメンタリーの仕事として、高く評価された。
日本統治時代に樺太とよばれたこの地には、1945年8月の日本敗戦時約35万人の日本人と2万~4万3千人の(諸説あるが正確な人数は把握されていない)朝鮮人が取り残されていた。戦後ソ連領となったこの地から日本人の多くは引き揚げたが、朝鮮人たちとその配偶者である日本人は、その後数十年にわたりこの地を離れる事はかなわなかった。
1996年3月。私は、未だ混乱の続くロシアを写真家として最初の仕事にしたいと思い旅していた。その途上での出会いがサハリンとの始まりだった。
青く凍えた街の辻にろうそくが灯っている。木でこしらえた枠にはビニールが張られ、そのなかでは生花がろうそくの炎に照らされかろうじて息をしていた。傍らには凍えた顔のおばあさんが座っている。
当時、ユジノサハリンスクのバザール(市場)や街で花を売る朝鮮人のおばあさんたちの姿があった。私が日本から来たとわかると、厳しい生活の様子を日本の言葉で話してくれた。路上での短いやりとりを交わしただけでも、彼女たちの背景に日本が大きくかかわったことが色濃く感じられて、私は漠然としながらも鋭利な後ろめたさを感じずにはいられなかった。だからだろうか、彼女たちの心に触れる事ができればと願った。
私は街をうろつき、彼女たちの前に立つのだが、気持ちがこわばってしまい言葉が出てこなかった。なぜ彼女たちはこの地に残らざるをえなかったのか。それを知る事なしでは、彼女たちと正面から向き合う自信が持てなかった。あのとき私は一歩も踏み込めずにサハリンを後にした。それだけに今でも忘れられない出来事を思い出す。
街を歩いている時の事だった。思いがけず日本の言葉がきこえてきた。私の前を歩く二人のおばあさんが話しているようだった。
「日本の方ですか?」それまでの旅の心細さに、私は思わず声をかけた。
「いいえ、私たちは戦争の前にここへ来た朝鮮人です」
戦後から50年、この地で日本の言葉が日常的に使われている事に驚いた。それは単に話せる事とは違う何か、その後何度も繰り返される問いの始まりとなった。
歴史が記憶の堆積物ならば、降り積もり埋もれてしまう前に、単純に割り切ることのできない思いを抱え生きる姿に今なら向き合えるのではないかと動き出したのは、あれから14年後の2010年の事だった。
新田樹(たつる)氏の公式サイトより
ご本人のサイトにもかなりの数の写真が公開されている。
ニュースによると日本人、日系人もいるらしい。
https://globe.asahi.com/article/11581400
ウクライナ情勢もあって、とかくサハリンは話題になっている。「サハリン2」のような油田・ガス田プロジェクトもある。サハリン島南部は1905年に日本領の南樺太となり、日本本土や日本領だった朝鮮半島から渡ってきた人々だけでなく、アイヌ、ニブヒ、ウイルタなど様々な先住民族が暮らしていた。先住民たちは日本による同化政策で、日本人として暮らした。戦争が終わっているはずなのに日本には引き上げを許されなかった。そしてソ連からの攻撃が終わらない、さらにインフラにかかわる人々はソ連にとって必要であるから引き上げが不可能だったという。
「戦争とは無縁」という刷り込みをされている現代日本人が、フェイクフォトでもAI画像生成でもなく、偏向報道でも紛争地帯でもなく、現実にロシア人として生き続ける日本だった家族たち、そして国や生活の歴史にかかわらず、変わらず厳寒の地に生きる人々の目線をとらえ続けている姿は一見の価値がある。
新田樹さんについて
新田さんは昭和42年(1967)、福島県生まれ。東京工芸大学工学部卒業後、麻 布スタジオに入社。1991年に半沢事務所入社、半沢克夫氏に師。1996年に独立。
工芸大(旧・東京写真大学、以下某芸大)は、今でこそ芸術学部が有名だけど、芸術学部ができたのは僕が大学3年生だった1994年から。それまでは中野の短期大学部と厚木の工学部、女子短期大学部だけだった。
僕が所属していた「写真部」の先輩によると、新田さんは隣の報道写真部の先輩だったようで(実は写真の大学だけに、写真部、カラー写真研究会、報道写真部、山岳部、鉄道研究会、自動車部など、みな写真好きで"広義の写真部"だった)、世代としては一回りちょい上なので直接お会いしたことはなかったのですが、伝説のOBとして名前を耳にすることはあった。
そもそも工学部から写真スタジオに就職する人というのは珍しく、工学部の写真バカであった私は「そんな人もいるのか、熱いな…」という感想を抱いていたのを記憶している。芸術学部ができて以降は、写真家になりたい人は工学部ではなく芸術学部に入学してくるので職業写真家として生きる人、特に営業写真館ではなくソロの報道写真家や作家としての写真家は減ったけれど、実際に生業としてフォトグラファーになる人の存在がいるのは熱い。
かくいうこのニュースを知ったのは写真部のOBで工学部卒でフォトグラファーを続けている阿部章仁さん。
もちろんその部活の卒業生にはキヤノンやニコン、コニカ、ミノルタ、オリンパス、富士フィルムに凸版印刷、大日本印刷といった企業にお勤めしたり実際に憧れのカメラやレンズの設計者になっている人も沢山いた(自分もその一人ではある)。
AI画像生成時代に思う
新田さんの受賞はめでたい、しかし僕はただの隣の部活の後輩であり、ここは僕の作家としてのブログなので、ほんの少しだけ本音を書こうと思う。
その後の平成の某芸大の工学部と芸術学部は卒業生の僕が見ても、お世辞にも仲がいいとは思えない(だからこそ某芸大としか書けない)。春のこんな時期にOBがこんなことを書くのはどうかと思うけど、某芸大を卒業し、東工大に学び、時に芸術学部で非常勤講師など禄を食み、その後フランスのArt&Metiers(工&芸)に近いところで学んだ僕からすると、外から来た先生方には工学なり芸術なりの出自が強い。要は、先生方が在学生や卒業生のことなど考えずに勝手に工と芸で戦っている。
当時はInstitute of Polytechnicsという英語名だったと思う。写真工業だけでなく、写真工芸としてエコールポリテクから工芸と訳してしまったのかもしれないけれど、そもそも写真技術というのは写真術でしかなかった。当時はガラス細工のようなポリテク技術も十分に必要だったのだろう、エコールポリテクで学んだからポリテク大、それを写真大学のままにしておけばいいのに「工芸」と呼んでしまった。
たしかに当時の日本は高度技術者だけでなく、中間技術者、つまり技術の根幹を研究開発するだけでなく、技術を使う技術者を育てる需要があった。写真技術というのは芸術や表現はもちろんのこと、それを支える光学、化学、精密機器、電気電子、そして私が学んだ時代には電子写真以降、つまりコピーだとかファックスだとか、スキャナだとか通信だとかCGだとか画像処理だとかいった技術が拡がっていたし、工学部からその手の工業や産業に進む方々もたくさんいた。
僕自身もそういう存在であることは否定できない。ソニーがフロッピーディスクに保存できる電子スチルカメラの試作品「MAVICA」を開発し、大学1年の時には某企業研究所の依頼でバーチャル棚卸しシステムを開発するバイトをしていた(今から考えるとその時点で将来の仕事にとても関係がある)。その後、製品化されたデジカメとしては大学4年生のときにカシオが「QV-10」を発売し、Appleが「QuickTake」を発売した、そんな時代だ。高画質モードで一度にたったの3枚しか取れないけれど、それでも町のDPE店にフィルムを持っていく必要がない。自家製現像は当時でもやれる人は少なかったけれど、フィルムを温度管理しながら現像したり、引き延ばししたりする大変な作業。それをしなくてもコンピュータの画面に画像をもってくることができる感動が味わえた時代。画質は当時から見ても酷かったけれど「これからはどんな写真表現だって作れるのでは」とわくわくした。その後の僕といえば、4年で就職するつもりだった広告代理店を蹴って、大学院は画像工学専攻に進んだ。研究の面白さを教えてくれた助教授の先生には感謝している。自由応募で勝ち取ったナムコの企画を蹴って、教授推薦でしか受けられなかったキヤノンに内定受諾なければならなかった修士2年の5月の連休明けのことをいまでも覚えている。先生方には工学の産業のすばらしさや重要性はわかるけれど、アートや表現、もしくは自分たちの人生で評価してこなかった産業についてなんて何の責任も持てないんだ。その後、大学にゲーム学科ができて、知っている方々教授になったときは微妙な気持ちになった。最近では私のように工学部出身でゲーム産業に長く活躍し、母校で教える人もちらほらと出てきているようなので、単に当時の工学部の先生たちが強健すぎたのかもしれない、そう思うことにしている。
ちょっと話が脱線した。
僕はその後も、テクノロジーとアートの境界面をゆらゆらしている。
デジタル写真の登場でわくわくする一方で、「デジタル写真の登場で撮れなくなる絵」もたくさんあることは気が付いていた。
一晩中暗室に籠って色を追求する現像プロセス、自作のカメラでなければ作れない超絶技術写真、何重にもプロセスを重ねて作ったアナログ合成写真、長く腰を据えて、被写体に寄り添って、ひたすらその瞬間の事実を切り取り続けるという残酷で残虐で刹那な写真。「上手く撮れたかどうか」なんてこと、デジタルカメラやスマホ時代のみなさんならいつだって気にしていることを、この手の写真を撮る人は絶対に顔に出さない(もちろん技術的にはいつだってパーフェクトな絵をつくっている)。被写体との対話そのものが問われている、人間と人間の信用を使わないと撮れない写真だからだ。
こんなことを書いている僕だって、昔は、三脚を担いでバイクで走り回り、一晩中撮影し、一晩中現像し、バイト代をフィルムや現像液や印画紙に溶かしていた。被写体は高校の教室、夜の工場、花、人物、セルフポートレート…ちょっとした賞をいただいたりもした。一時期は新宿の地下に潜ってホームレスを撮っていた。撮ってはいるけれど、これは撮影者のマスターベーション、もしくはレイプ写真だ。やってみたらわかることなんだけど、どんな泥まみれで生きている人たちだって心を開く、という状態にならなければ写真なんて撮らせてくれない。みんな何かから逃げている。逃げ出せないからここにいる。そして、それを興味本位で切り取ったりすることなんて許されないんだ。生業としてカメラを持っているかどうかなんて理由にはならない。覚悟があるか、愛があるか、押し付けでないか、信用されているか、その被写体をどうしたいか。僕のレリーズを押し込む力はホームレスのおじさんの人生やおじさんが脱出できない社会を抱え込むには弱すぎた。
僕が報道写真を見るときには、そうやっていつも対峙している。
どんな戦地のどんなかわいそうな子供たちのまなざしだって、そのまなざしには他でもない「写真を撮ったフォトグラファー」がいる。その人が、売れようと思ったのか、伝えたいと思ったのか、伝えなければならないと思ったのか、どんな構図で、どんな背景で、どんな色で、これを撮ろうと思ったのか、その目の前の被写体を救ったのか、捨ててきたのか…そしてどうしてこれを賞に出そうと思ったのか…審査員でもないのにそんなことを考えながら見る必要が出てくる。「必要」と書いたが、誰もがそんな気持ちで報道写真を見ていないのかもしれない。でも自分には写真の額装が、世界の窓になって、平和に暮らしている僕の心臓を握りつぶしにくる。そんな感じがする。
大学の報道写真部の廊下にはこんなキャッチコピーが書かれていた。
「伝えるものがある限り」
写真部にも、カラー写真研究会にもそれぞれのタグラインがあるのだけれど、この「伝えるものがあるかぎり」という精神は、たのもしかった。今も生き続けているはずであるし、その卒業生にも、その写真を見た人たちにも伝わっているといいなと思った。勝手な思いでしかないけれど。
工学部とか芸術学部とか、そういった大人が決めた何かの垣根なんかで勝手に抑制されている場合じゃない。もちろんそれは大学としての垣根ではあるけれど、いい写真はいい写真、素晴らしい活躍は素晴らしい活躍、本当に素晴らしい活躍というものは、学部や大学、国や民族といった垣根を超えて、人々に感動や勇気を与える、そういうものだと思う。
新田さん、報道写真部の皆さん、大学関係者の皆さん。おめでとうございます。これからも伝えるものがある限り、写真を愛してください。
ほんの少し、勇気をもらいました。