
マッチングアプリ探偵
【あらすじ】
「マッチングアプリ探偵」と名乗る、正体不明のオネエ口調の赤髪の青年・茜(あかね)。半ば強引に助手にされた芸能ライターの碧(あお)は、彼と共に下北沢のカフェに現れる謎の女性を追うことになる。大胆不敵な茜に振り回されながら、碧は次第に惹かれていく。やがて辿り着くのは、誰かの人生を無償で変え続ける謎の美女・楓。夢を見失った物書き、正体を隠す自称探偵、名もなきプロデューサーーーーそれぞれの”本当にやりたいこと”を抱えた三人が交差する時、すべての謎が明かされる。
夕方のトイレは、女達の戦場だ。
鏡の前は、メイクを直したい女たちが「次は私」とばかりにひしめき合っている。きっと皆これからそれぞれの、デートという名の戦に出発するのだろう。彼女たちの可愛らしい身なりには似合わない、殺伐とした空気がパウダールーム中に張り詰めている。
どうやら今日はもう、ひと足遅かったようだ。「パウダールーム争奪戦」に敗れた私は、致し方なくひと足先に今日の待ち合わせ場所である下北沢のカフェに向かうことにした。歩きながら、スマホの画面をちらりと見る。17時25分。うん、大丈夫だ。この時間ならさすがにまだ、相手も着いていないだろう。
店に入ると、私は席を確保するやいなやバッグからポーチを取り出し、いそいそとお手洗いに向かった。早くしないと今日の人が来てしまう。そう思いながら扉を開けると、すでに鏡の前には先客がいた。ロングヘアが似合う清楚な雰囲気の女性が、リップを塗り直している。トイレには私と彼女しかいなかったので少し気まずかったが、私は彼女の隣に立ち、早速メイクを直し始めた。
20代とはいえアラサーにもなると、夕方には顔に疲れの色が出てくる。鏡に近づいてよく見ると、鼻周りのファンデーションが崩れていた。昼間は人気俳優のインタビュー取材の仕事だったので、気合を入れてメイクをしすぎたかもしれない。ライターがどんな顔だろうが、芸能人からしたらどうでもいいのだろうが、つい毎回気合いが入ってしまう。そういえば、今日の人は仕事は何をしているんだっけ。相手が来る前にプロフィールを見直しておかないと。ふと手を止めてスマホの画面を見る。17時50分。いつの間にか、パウダールームの先客はいなくなっていた。
17時55分。席にはまだ、相手は到着していないようだった。
「窓側の席にいます!」
そう打とうとしたところで
「すみません5分ほど遅れます」
という通知が相手から届いた。
Inder(インダー)のプロフィールを見直してみる。登録してある名前は「あや」。 25歳。私の3つ年下だ。身長は178cm、エンタメ関係の仕事をしているらしい。私は芸能ライターなので、なんとなく話が合いそうだと思った。写真はピンボケで、顔ははっきりとわからないが、鼻筋が通っていてイケメンの予感がする。黒いフードをかぶっていた。改めて見ると誰がどう見ても怪しすぎるが、表示されている距離も近かったし、なんとなく会ってみようと思った。
マッチングアプリに詳しい友達からは「そのマチアプだけはやめとけ」と全力で止められたが、一番面白い人と出会えそうなこのアプリがやってみたかった。引っ越してきたばかりで遊べる友達もいないし、いきなり恋愛ではなく、まずは近場で飲みに行けるような男友達ができたらいい。イケメンだったらなおよし。そう思って、登録したのがきっかけだった。
そろそろかなと思い店内を見渡すと、ちょうど入り口から鮮やかな赤髪の、長身で黒づくめの男性が入ってくるのが見えた。
「アオちゃん?」
赤髪の男が私の顔を覗きこんできた。
「あ、はい、そうです!」
「アオ」という名前は、変わっているが私の本名だ。
碧と書いて、あお。この店に他に同じ名前の人がいるとは思えないし、この人が今日の人、「あや」さんで間違いないだろう。
「はじめまして!碧です」
気まずい空気をかき消すように、私は言葉を発した。そんな私とは対照的に、彼は落ち着いた様子でゆっくりと荷物をおろし、目の前のソファーに座った。
この絶妙な、沈黙の間が気まずくて苦手だ。たった数秒の間なのに、ものすごく長く感じる。仕事では初対面の人と会うのはそこまで緊張しないが、それは事前にリサーチをできるからだ。過去の出演作品はもちろん、SNSや、過去の記事にも目を通した上でインタビューのための質問リストを作る。でも、マッチングアプリではそうはいかない。ほとんど情報を書いていない人もいるし、書いてあったとしても「自然体でいられる人と出会いたい」など、そりゃそうだろうと言うような表面的なことしか書いていないからだ。だからこそ、どんな人なのかわからないまま会うのは私にとっては新鮮だった。
「飲み物はもう頼んだ?」
彼の目線の先にある私のお冷は、すでに氷が結露し始め、テーブルに小さな水溜りを作っていた。
「あ、いえ!まだです。」
私は慌ててメニューを開き、脳をフル回転させる。
彼はメッセージの時からタメ語だったが、会ってもそれは変わらなかった。最初は「私のほうが年上だぞ」と思っていたが、なぜか敬語で話してしまうような、そんな威厳というか、オーラというか、凡人ならざる者の雰囲気を感じた。「あや」はアプリ上で名乗っている偽名で、本名は「茜(あかね)」というらしい。
強いこだわりがあるのか、彼の長い赤髪はかなり手入れが行き届いていて、女の私なんかよりもずっと綺麗で、少し恥ずかしくなった。人形のように大きく、吸い込まれそうな目をしている。写真からイケメンそうだとは思ってはいたが、肌は陶器のように白く、芸術品のように整った顔立ちだった。絶対に今どきのモテる髪型にしたら爆モテするのに、二次元のキャラのようなその長い赤髪がアンバランスで、その違和感もまた彼の魅力だと感じた。こんな髪色、髪型で大丈夫な職場って、一体彼はどんな仕事をしているのだろう。
「そういえば、エンタメ系って書かれてましたけど、お仕事はなにをされてるんですか?」
何気ない質問のつもりだったが、彼から返ってきた言葉は意外すぎるものだった。
「マッチングアプリ探偵」
「え、え??マッチング...探偵?」
「そ、マッチングアプリ探偵」
冗談なのか、本気なのかわからない笑みを浮かべて答える。理解が追いつかない。マッチング探偵なんて仕事、聞いたことない。
「す、すごいですね...!?」
とっさに安っぽい台詞が口を突いて出た。こういう時、どういうリアクションをしたらいいんだろう。正解がわからない。自分でもライターのくせにボキャブラリーが貧困だと思ったが、すごいですね以外の言葉が浮かんでこなかった。
「アンタ、騙されやすいでしょ(笑)」
「え、えっ!?」
え?私今、もしかしてバカにされてる?やっぱりマッチングアプリ探偵なんて、冗談だったのかな。それくらいわかってますってば。ただ、真面目な表情だったからリアクションに困っただけでーーーーーー。きっと私は今、突然豆鉄砲をくらったハトのような顔をしているのだろう。少女漫画の主人公のように「そんなことないです!」と強く言い返すこともできず、かといってユーモラスな返しもできない。"おもしれー女"になれない私は、ただ苦笑いをしてその場を切り抜けるしかなかった。
彼にはなんとなく、私が脳内で言い訳をしているのも見透かされているような気がして悔しかった。
その後は、私の仕事の話とか、なんでこのアプリを始めたのかとか、そういうありきたりな話をして過ごした。仕事は芸能ライターをしていること。よく誤解されるが、元からやりたかった仕事というわけではないこと。今はこの仕事も楽しみながらやっていること。茜さんは普段は家に引きこもっていて今日は数ヶ月ぶりに外出したこと、日光が苦手でいつも外では帽子かフードを被っていて、友達からはヴァンパイア扱いされていることなどを話してくれた。聞けば聞くほど怪しい。どこまでが冗談で、どこからが本気なのかわからない。彼の話は面白かったのだが、笑っていいところなのかツッコミを入れるべきところなのかが終始不明で、なんだか妙な緊張感があった。ただ、一つわかったのは、彼が途中からオネエっぽい口調になってきたのは、ふざけているのではなく、素なんだろうなということ。それだけは、理由はハッキリとわからないけど、なぜか察しの悪い私でも確信できた。
「そういえば、今流行りのあの診断、茜さんはやってみました?」
「もちろん、やったわよ」
「え!結果なんでした??」
「なんだと思う?あ、当てたほうがここの店奢りね」
「えええー!?わかんないなー」
「アンタは絶対、緑グループでしょ」
まただ。すべてを見透かしてしまいそうな大きな瞳で、私のことを見つめる。
「な、なんでわかったんですか!?」
「だから言ったでしょ。アタシは探偵だって」
いつの間にか完全に、私は茜ワールドに飲み込まれていた。それは、好きとも違うような、憧れとも違うような、すごく不思議な感覚だった。でも、私の胸はずっと高鳴っていた。もっと、この人のことを知りたい。
結局、彼は最後まで診断結果を教えてくれることはなかった。また、冗談なのか本気なのかわからないことを真顔で言われ、はぐらかされて終わった。
カフェについてちょうど1時間くらい経った頃、たまたま通路に立つ一人の女性が目に留まった。どこかで見覚えがあると思ったら、私より先にパウダールームにいてメイク直しをしていた女性だ。店員さんに話しかけている。
「お手洗いはどちらですか?」
初めは聞き間違いかと思ったが、確かに彼女はそう聞いていた。もうお手洗いの場所は知っているはず。だって、私は彼女とすれ違っているのだからーーーーーーーー。
「もしかして、わざと知らないフリを...?」
思わず、独り言が漏れていた。
「なに?どうしたわけ?」
私の目線の先をチラリと見たあと、訝しげな表情で訊く。
まずい、目の前に話してる人がいるのに独り言を呟いてしまった。
「あ、いえ。大したことじゃないですけど。さっきお手洗いにいた女性が、お手洗いの場所を店員さんに聞いていたので、もしかして一緒にいる男性に知られたくない理由でもあるのかなって」
「アンタ、センスあるわね」
「は、はぁ...?」
「一緒にいる男性に知られたくない理由ってなんだと思う?」
「んー、何度も来てるって思われたくないとか?」
「多分ね。あの女は、おそらくいつもマッチングアプリのアポでこの店を使ってるのよ。それを知られたくないから、わざわざ店員にトイレの場所なんか聞いて、初めて来たフリをしてるんじゃないかしら」
「え、なんでそんなことわかるんですか!?....あ、探偵だから!?」
「そ。マッチングアプリ探偵だからね。」
彼の表情が、心なしかさっきよりも幼く見えた。その瞳はまるで、カブトムシを見つけた少年のようだった。
「あ、そうそう、アンタは今日からアタシの助手ね」
「え...?え!?えええええ〜?????」
こうして私は、自称「マッチングアプリ探偵」の助手として活動することになったのであった。
第二章
「先生、また遅刻ですか〜?」
私たちは友達でも恋人でもない、自称"探偵と助手"という奇妙な関係になっていた。先生というのは、茜さんのことだ。最初は半分おふざけで呼んでいたが、最近ではすっかりその呼び方が定着していた。二人とも下北沢に住んでいるので、よくふらっと近所に飲みに行っていたが、いつも日付が変わる前にはまっすぐに帰るという健全な間柄だった。もちろん互いの家に行くこともないし、男女の関係はない。これだけ頻繁に会う仲なら、普通は付き合うだろう。もしかしたら先生はゲイなのかもしれない。それか、私がよほど女性としての魅力がないのかーーーーー。そんなことを考えていたら、なんだか少し悲しくなってきた。
「朝早いから起きられなかったのよ」
「朝早いって、11時集合ですよ?11時を早いって言うのはバンドマンか先生くらいのものですよ」
「あたし、昔から朝はどうしても弱いのよね〜」
そう言いながら笑う先生の顔は、確かにまだ少し眠そうだった。起きてからまだ時間が経っていないのであろう、寝起きっぽい、少し掠れた声にドキッとした。髪の毛もいつもと違ってセットしていないようで、無造作に一本に結んだ髪の毛はところどころうねりがある。髪の毛を結んでいることで、いつもよりも輪郭がハッキリと見え、骨格の美しさが際立っていた。もうここまで来るとファンというか、推しのような存在に近いのかもしれない。だが、その推しのような距離感が私にはかえって心地よかった。
芸能ライターとして独立してからは仕事ばかりの毎日。恋愛から遠ざかりすぎて、好きという気持ちを忘れてしまっていたし、どう行動したらいいのかもわからなくなってしまっていたからだ。彼も私のことをそういう対象として見ていないなら、傷つかなくて済む。好都合じゃないか。そのはずなのに、どこか私の心の奥底には、言語化できないモヤモヤがあった。
我ながら、かなり拗らせている自覚がある。
今日私たちは、久しぶりに初めて会ったカフェに来ていた。私に紹介したい女性がいるのだという。一体、どんな人なのだろう。日曜日だからか、午前中なのにもうすでに満席に近いくらい賑わっている。しばらく先生とたわいもない話をして待っていたが、それらしき人はやってこない。
実はその時、もう女性は店に着いていたらしいのだが、私たちの席からはちょうど死角で見えなかった。他の利用客が話している隙間をのぞくと、女性らしき華奢な手が左右に揺れているのがチラリと見えた。
「遅くなってごめんなさ〜い!」
おそらく30代後半くらいといったところだろうか。私より少しお姉さんだが、素朴で可愛らしい雰囲気の女性が合掌しながら私たちの席に近づいてきた。
「茜ちゃん久しぶり!元気?
も〜!全然見た目違うから、声かけていいのかわからなくてウロウロしちゃったよ。連絡したのに返信ないし〜」
「すみません、スマホ気づかなかったです!佐倉さんも元気してました?」
「元気元気!この春から息子が中学生になってね...」
二人はしばらく会っていなかったようで、私の知らない話に花を咲かせていたので、しばらく黙ってその様子を見つめていた。
「あら、いけない。挨拶がまだだったわ。ごめんなさいね」
佐倉さんと呼ばれた女性が、申し訳なさそうな笑顔で会釈をする。
「あ、紹介しますね。こちら、こないだInder(インダー)で知り合ったアオさん。芸能ライターをされてる方です。
「はじめまして!碧といいます」
先生が私の名前をちゃんと覚えててくれたことがうれしくて、少しだけ声が上擦ってしまう。自分では確認できないが、多分私の顔はニヤけている。あまりにも名前を呼ばれることがないので、てっきり私に興味がないのかと思っていた。
「あの、なんて呼んだらいいですか?」
「なんでもいいよ。下の名前は葉子(ようこ)だから、どっちでも大丈夫〜」
葉子さんは笑顔が素敵な人だ。誰がどう見てもわかる。作り笑いじゃない、ホンモノの笑顔。日々、自分に正直に生きていないと、きっとこのまっすぐな笑顔はできない。どこか含みのある笑い方をする先生とは対照的だ。年齢も性別も属性も違う二人が、どうして仲良くなったのか。不思議で仕方なかったのでストレートに聞いてみると、実は二人も数年前にInder(インダー)で出会ったらしい。葉子さんは旦那さんと仲はいいそうなのだが、話し相手探しのために使い始めたとのこと。誰とも会うつもりはなかったが、先生は個性的で面白かったので、何度か食事をしたことがあると言っていた。確かに先生は個性的で面白い。
ただ一つ、葉子さんの前の先生はいつもと決定的に違うところがあった。
年齢が離れた人相手だから気を遣っているのか、口調も違うし、どことなく振る舞いも丁寧。まさに好青年という言葉が似合う、そんな雰囲気だった。あの独特の口調や大きな態度は、素だと思っていたが、演技だったのだろうか。職業のことも、マッチングアプリ探偵以上のことは教えてくれない。
もしかして、ただ弄ばれていただけで、先生はずっと嘘をついていて、騙されやすい私の反応を見て楽しんでいたのだろうか。それとも、私の前でのキャラクターが本当の先生なのだろうか。
「ねえねえ、碧ちゃん。茜ちゃんがロリータ着てるとこ、見たことある?」
どこか上の空だった私を気にかけてくれたのか、唐突に葉子さんが話題を振ってきた。
「えっ?ロリータって...あのフリフリの、あのロリータですか?」
「そうそう。私ね、昔ロリータが好きで。だいたい売っちゃったんだけど、今もたまに着てるのよね。で、茜ちゃんって、すっごく綺麗な顔してるじゃない?だから、着てみてよって無理やり私のロリータ服を着せてみたのよ。そしたらすんごい可愛くて!あ、ちょっと待っててね、写真いつ頃撮ったんだったかな〜」
「ちょっと佐倉さん、恥ずかしいからやめてくださいよ...」
葉子さんは、嬉々とした表情で写真フォルダをスクロールしている。先生は本当に恥ずかしいようで、耳が赤くなっているように見えた。
「あ、これこれ!」
そこに映っていたのは、いつもの赤髪の先生ではなかった。こげ茶色の巻髪で、黒のフリフリのジャンパースカート、白いレースのブラウスを着ている。
「可愛い...」
思わず、心の声が漏れ出てしまった。男性とは思えないほど、ロリータ服が似合っている。
「この時はまだ、茜ちゃんもサラリーマンだったのよねえ〜」
葉子さんが懐かしそうに写真を眺める。
サラリーマンだったってことは、髪も黒くしてちゃんと短くしていたのだろう。だから写真ではウィッグを被っているのか、と納得した。
「はい、もうおしまい、おしまい!」
先生は恥ずかしそうに葉子さんのスマホを隠すと、トイレに行ってくると言って席を立ってしまった。
「可愛いのに、ねえ?」と葉子さんと私は顔を見合わせた。そういえば、先生はどうして葉子さんを私に紹介したかったんだろう。友達を紹介するようなタイプには見えないし、先生のことだから、きっと何か深い理由があるに違いない。
「ねえねえ、碧ちゃんってさ、茜ちゃんとどういう関係?」
予想外の角度からのいきなりの質問に、飲んでいたアイスティーでむせそうになる。どういう関係って言われても、説明が難しい。恋人でもないし、友達でもない。私が答えに詰まっていると、葉子さんが続けた。
「あ、もしかして碧ちゃんも、茜ちゃんのファンとか?」
「ファン...そうですね!そんな感じです!」
「なんだ〜そうだったんだ!てっきり付き合ってるのかと思った」
「いやいやいや、全然そんなんじゃないですよ!先生、私に興味ないと思います。あんまり質問してこないですし...」
自分で言ってて、なんだか少しだけ悲しくなってきた。そもそも、先生はどうして私と会ってくれるんだろう。助手になれと言われたものの、別にこれと言ってなにか仕事を頼まれているわけでもない。別に面白い話や役に立つ情報を提供できているわけでもない。先生と過ごす時間は楽しいが、この宙ぶらりんの関係は、いつまで続くのか。ただの暇つぶしなら、急に連絡が来なくなることもあるだろう。マッチングアプリの出会いなんてそんなものだとわかっているが、もしそうなったら少し寂しいかもしれない。
葉子さんから聞いた話では、先生は今の仕事に就く前はサラリーマンをやっていたらしい。朝が弱いのに、がんばって起きてスーツで満員電車に揺られてたんだろうか。何もかもイメージと違いすぎて、今の先生の様子からはまったく想像がつかない。今度直接聞いてみようと思ったところで、隣の座席にいる男性達の会話が耳に入ってきた。
「飯田さ、最近めっちゃ変わったよな」
「わかる!別人みたいっていうかさ...」
「なんか会社も辞めるとか言ってるっぽいよ」
「え、やば!」
「なんかこの頃、そういう話よく聞くのよね〜」
葉子さんがティーカップを置いて再び話し始める。
「そういう話って?」
ちょうどトイレから戻ってきた先生が、まるで最初から聞いていたかのように話に加わってきた。
「あ、茜ちゃんおかえり。最近よく聞くんだよね。知り合いが別人みたいに変わって、人によっては会社を辞めたりしちゃうみたいな話。私、ここのカフェのオーナーと友達なんだけどさ、最近怪しい常連客がいるらしいのよ。アラサーくらいの綺麗な女性で、平日の昼間にもよく来てるらしくて」
私は静かに相槌を打ちながら聞いた。葉子さんは続ける。
「でね。毎回違う男の人を連れているって思ってたら、よく見ると、同じ人だったりすることもあるらしいのよ。でも、雰囲気が別人みたいに変わってるんだって」
先生は何か考えがあるのか、訝しげな顔をしている。
「マルチの勧誘でもしてるんですかね?」
「私もそうかな〜と思って言ったのよ。オーナーも"勧誘を店でやられたら困る"って言ってて。それはそうよね。」
恋愛目的のマッチングアプリを使って、怪しいビジネスの勧誘をする人もいると聞く。もしかしたら、そういう勧誘目的の人がこのカフェを使っているのかもしれないと思った。それなら、仕事を辞めてしまう人がいるのも合点がいく。平日の昼間に来ているということは、女性は無職なんだろうか。それとも私のようなフリーランスか、葉子さんのような専業主婦か。そんな話で盛り上がっていると、さっきまで黙っていた先生が突然口を開いた。
「果たして、本当にそうかしら?」
「先生は、マルチじゃないって思うんですか?じゃあ、宗教とか?」
「それは今の時点ではわからないわ。もう少し調べてみないとね」
先生はそう言い放つと、ぐるりと店内を見渡し、スマホの画面に視線を落とした。
「初めてアンタと会ったのって何曜日の何時頃?」
「え、えっと...確か月曜日の18時頃だったと思います!」
「なるほどね...明日、またここに来るわよ。いい?」
先生は何かを確信したような様子で、事件の匂いがすると言いながらじっと一点を見つめていた。
その後は、葉子さんと三人でランチを食べ、たわいもない雑談で盛り上がった。葉子さんは観劇の趣味があるらしく、今度一緒に見に行こうという話になったので連絡先を交換した。昼過ぎに別の用事があるという葉子さんを、二人で小田急線の改札まで見送る。私は、朝からずっと気になっていた疑問を思い切って先生にぶつけてみた。
「そういえば、どうして私に葉子さんを紹介しようと思ったんですか?」
「どうしてって...そりゃアンタが引っ越してきたばかりで友達がいないって言ってたからよ」
少し呆れたような表情で、先生が言う。
「え、え!?そんな理由で!?」
「そんな理由で紹介しちゃ悪いの?」
「いや、悪くないですけど...!」
あまりに拍子抜けな返しだったので、動揺して不躾な態度をとってしまった。先生は、ただ、私のことを気にかけてくれていただけなのだ。
「ありがとうございます。あの...先生は私に興味がないものだと思っていたので...気にかけてもらえて、すごく、うれしいです。」
我ながら、可愛げがないリアクションだなと思いながら、精一杯の言葉を搾り出した。
「もういい、もういい、この話はおしまいよ」
全部言い終わらないうちに、先生はそっぽを向いて歩き出してしまった。
後ろ姿で表情は見えなかったが、この時の先生は、なんだか嬉しそうな顔をしている気がした。
「先生、どこ向かってるんですか?」
「そんなもの、決まってないわよ」
探偵と助手、というこの奇妙な関係はいつまで続くのだろう。終わってほしくない、いつの間にかそう思い始めている自分がいた。
第三章
「ごめんなさい、仕事が押してしまって10分ほど遅れます」
私は午前中に渋谷でメンズ地下アイドルの取材をこなし、井の頭線の急行に飛び乗った。スマホを開き、先生に謝罪のメッセージを送る。1時間の取材予定だったのに、予想以上に写真撮影に時間がかかってしまった。ロック画面を鏡代わりにして、慌てて崩れた前髪を直す。下北沢で降りると、私は急ぎ足でいつものカフェに向かった。
ガラス張りのドア越しに、昨日と同じ茶色いソファー席に座っている先生が見えた。赤髪は目立つので遠くからでもすぐにわかる。今日は平日だからか、昼時とはいえ昨日ほどは混んでいなかった。勉強をしている学生、外回りのサラリーマンらしき男性、主婦のおばさま方。「いらっしゃいませ」という声がする方向に軽く会釈をしながら、私は先生のいるソファー席にまっすぐ向かっていった。
「すみません、お待たせしました!」
「お疲れ様。意外と早かったわね」
「そうですか?よかった、猛ダッシュで来た甲斐がありました。先生、もうお昼食べました?」
「まだよ。でも、もう注文はしてるわ。今日はまだ何も食べてなくてね。アンタも何か頼んだら?」
先生はそう言うと、手書き風のフォントで印刷されたメニューのバインダーを手渡してきた。
私たちが連日このカフェに来ているのは、先生と出会った日にパウダールームで遭遇した女性を探すためだ。葉子さんから聞いた情報でわかっているのは、平日にこの店に来ることが多いということと、アラサーくらいの綺麗な女性であること、いつも違う男性を連れているように見えるということくらいだ。彼女は、何度もこの店で男性と会っているようなそぶりがあったし、見た目も綺麗な感じだった。もしかしたら、彼女がウワサの鍵を握る人物かもしれない。
しかし、食事の皿が片付けられる頃になっても、店員から新しいドリンクを勧められる頃になっても店内に彼女の姿は見当たらなかった。やはり、そんな簡単には見つからなくて当然か。私は周囲の様子に気を配りながら、先生と雑談を続けた。
「前から気になってたんですけど、先生って、なんで今の髪型にしてるんですか?あ、その...変とかって言いたいわけじゃなくて...赤髪でロングって、強いこだわりがありそうだなって」
「モテ過ぎちゃうからよ」
また、冗談なのか本気なのかわからないトーンで先生が一刀両断する。確かに先生が今時のイケてる髪型にしたら、Inderで無双してしまうだろう。本当のところはわからないが、あながち全部嘘というわけでもないのかもしれない。
少しの沈黙の後、先生がぽつりと呟いた。
「男はね、好きな人に"好き"って言ってもらえたら坊主でもなんでも、その髪型を気に入るものなのよ」
その横顔は、いつもと違う真剣な眼差しで、どことなく憂いを帯びていた。
もしかして先生には好きな人がいて、その人が髪を褒めてくれたのだろうか。いや、それは私の考え過ぎか。
ここ数週間、先生とはかなり頻繁に会っているが、私の知る限りでは女の影はまったくない。
これだけかっこいいのだから、体だけの関係みたいな女性が複数いてもおかしくないのに。やはりゲイなのかもしれない。それとも女性恐怖症...?
そんなことを脳内であれこれと考えていると、先生が無言で私の目をじっと見つめてきた。吸い込まれそうな大きな瞳だ。
「言っとくけど、恋愛対象は女性よ?」
一瞬、心臓が飛び出るかと思った。
この人にはいつも考えていることがバレてしまう。「恋愛対象を知りたい」って顔に書いてあったんだろうな、と思ったら急に恥ずかしくなった。
別に、恋愛対象が女だからといって、私もそうだと言われているわけじゃないのに。なのに、私の心臓はさっきからずっとバクバク動いて騒がしかった。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、先生は涼しい顔をして、届いたばかりの二杯目のアイスコーヒーを飲んでいた。先生の好みの女性ってどんな人なんだろう。恋人はいるんだろうか。もしかして誰かと同棲している...?平常心を取り戻さなければと思っているのに、聞きたいことが次々と脳内から溢れ出てくる。何から聞こうか、どんな風に聞こうか、そんなことばかりがグルグル頭の中を駆け巡る。そうだ、まずは恋人がいるかどうかを聞いてみるのはどうだろう。あくまでも雑談のテイで、軽いノリで聞いてみる分には、変に思われないはず。
「そういえば、先生って...」
そう言いかけたところで、先生が「シッ」と私の口に手を伸ばした。
私の心臓はまだバクバクと脈打っている。
その時、聞き覚えのある、落ち着いていてよく通る声が聞こえた。声の持ち主は、まさにあの"パウダールームの女"だった。こないだとはまた別の男性を連れている。メガネをかけた、冴えない雰囲気の男性。ビンゴだ。ここまでは私たちの予想通り。
「Inderで何人くらい会いましたか?」
「2、3人くらいですね〜」
耳をそば立てて会話を聞く。女性のほうはよく通る声なのでなんとか聞き取れたが、男性のほうはボソボソ話していて私たちの席からだと少し聞き取りづらかった。ただ、一つ明白なのは"パウダールームの女"はマッチングアプリで出会った初対面の男性と話しているということだ。2、3人くらいと言っているが、おそらく嘘だろうと先生は鼻で笑っていた。
しばらくすると店内が混み始めてきて、会話の内容を把握することが難しくなってきてしまった。
「困りましたね...」
味のしなくなったメロンソーダの氷水を、ズズ...とストローで吸いながら、呟く。
すると、先生は何かを思いついたようにおもむろにスマホを手に取り、黙々と作業を始めた。
「何か、いいアイデアがあるんですか?」
先生のスマホを覗き込むと、見覚えのある画面が映っていた。
「あ、もしかして...!?」
私の予想通り、Inderのスワイプ画面には「1km以内」という表示があった。これで、1km以内にいる人のプロフィールだけが表示されるはずだ。あとは、ひたすら地道にスワイプしていけば、あの女性に辿り着けるはず。
「あ!いた...!」
先生の声に反応して、画面を覗き込む。
"パウダールームの女"によく似た女性が現れるまで、思いのほか時間はかからなかった。あとは、彼女が先生とマッチしてくれるかどうかだけだ。
「今はInderは見れないだろうし、待つしかないわね」
先生はそう言うと、スマホをテーブルに置き、残っていたアイスコーヒーを飲み干した。
もう今日は帰ろうかという話になり荷物をまとめていると、男性の笑い声が聞こえてきた。どうやら向こうのテーブルでは話が盛り上がっているようだ。
もしかして、単に感じがいい女性というだけなのかもしれない。事件の匂いがするなんて、先生は大袈裟だったのかも。そんなことを思いながら、その日はカフェを後にした。
第四章
帰宅後、部屋着でだらだらと漫画を読んでいると一通のメッセージが届いた。先生からだ。
「あの女とマッチできたわよ」
これから先生は、女に近づいて潜入捜査をするのだと言っていた。スムーズに進んで嬉しいはずなのに、なぜか私の心はざわついていた。
「何かわかったら、教えてくださいね〜」
私は、余裕なフリをするのに必死だった。唇を硬く結び、スマホを握りしめる。なんで私はこんなにも必死になっているんだろう。ただの、捜査じゃないか。私は先生の助手でしかないのに、なんでこんなにモヤモヤしてるんだろう。
「あ〜!もう〜!」
気づいた時にはベッドにダイブして、枕に顔を埋めて叫んでいた。困った。私は先生のことを好きになりかけているのかもしれない。
「じゃ、行ってくるわね」
先生は早速"パウダールームの女"と会う約束を取り付けたらしい。彼女との待ち合わせ場所は、下北沢駅。私は駅の手前で先生を見送り、そのまま仕事に行く...はずだった。実は仕事に行くというのは建前。どうしても先生の動向が気になって仕方ない私は、仕事のスケジュールを調整してオフ日にしたのだ。先生に内緒で尾行するのはストーカーみたいで少し気が引けたが、これも助手の仕事だと自分自身に言い訳した。
改札から少し離れたところで、先生が彼女と合流するところを確認した。バレないように、適度な距離をとりながら二人の背中を追う。女性は、目をひく華やかな美人というわけではないが、品のある顔立ちをしていた。すぐに彼氏ができそうに見えるが、どうして彼女のような人がマッチングアプリで、立て続けに複数の男性と出会っているのだろう。考えれば考えるほど、何かの勧誘をしているか、美人局か、ぼったくりしか考えられない。もし先生がぼったくりバーに連れていかれたら、私が代わりに通報しないと。そんなことを考えているうちに、いつの間にか二人はいつものカフェに入って行った。ガラス張りのドアから、先生と女性の席の位置をそっと確認。念のため少し時間を置いてから入店した。
ラッキーだったのは、先生がドアに背を向けて座っていたことだ。背中に目でもない限り、今のところ尾行はバレずに済んでいるはずだ。席の位置的に、女性側からは私の顔は見えてしまうが、さすがにたった一度すれ違っただけの人間の顔を覚えてはいないだろう。あとは、ジロジロ見ないように気をつければミッションはおおむね成功だ。私は全神経を耳に集中させながら、クリームソーダに乗ったさくらんぼを口に入れた。
「茜さんは、普段お仕事は何をされてるんですか?」
「IT関係ですね。フルリモート、フルフレックスなので、かなり自由にやらせてもらってます」
「そうなんですね〜!かっこいいです!」
先生が真っ赤な嘘をついていて、思わずふっ、と吹き出しそうになるのをこらえる。しかし冷静に考えてみると、マッチングアプリ探偵のほうがどう考えても嘘くさい。実はこっちの情報のほうが正しいのかもしれない。
当たり前といえば当たり前なのだが、先生はいつもの口調ではなかった。葉子さんの時と同じ、飄々とした好青年のような雰囲気だ。笑顔も、いつものような含みのある笑顔ではなく、爽やかな笑顔。
なんだか、私の知らない先生の別の顔を見させられているようで、胸がキュッと苦しくなった。尾行をすると決めたのは自分なのに、その瞬間、ほんの少しだけ後悔した。先生の本当の顔は、一体どれなんだろう。
その後も、二人は終始なごやかな雰囲気で雑談をしていた。彼女の名前は秋川楓(あきかわかえで)。舞台女優のかたわら、たまにコールセンターのアルバイトをしているらしい。どうりで、見た目も綺麗だし、声の通りもいいはずだと感心した。今のところ、女性に怪しい動きはまったく見られない。それどころか、あっさりと素性も明かしていて、悪意がある人間とは到底思えなかった。やはり、事件の匂いなんてしないじゃないか。すっかり尾行の緊張感もほぐれ、パフェでも注文しようかと店員さんを探していると、衝撃的な光景が私の目に飛び込んできた。
"パウダールームの女"もとい楓が、先生の髪に手を伸ばしていたのだ。
「は、はああああああ〜!?!?!?」
思わず心の声がそのまま口から飛び出していた。驚きと、怒りが入り混じった声だった。しまった、今の声で先生に気づかれてしまったかもしれない。我に返った時にはもう遅く、声に振り向いた先生と目が合ってしまった。店員や他の客も私の方を迷惑そうに一瞥する。
「アンタねぇ〜...」という声が今にも聞こえてきそうな表情だった。先生は完全に呆れているようだった。
「し、失礼しました...」
私はメニューで顔を隠すようにしながら、小声で呟いた。絶対にあとで先生からこっぴどく叱られるに違いない。
「それで、さっきの話の続きなんですけど茜さんの髪は...」
幸い、楓は私の奇行には目もくれず、何事もなかったかのように話を続けていた。楽しそうにスマホの画面を見せたり、先生の写真を撮ったりしていた。なんだ、普通にデートしてるじゃないか。もしかして、先生のタイプってああいう清楚で無邪気な女性なんだろうか。
気づけば、もうすっかり、パフェを注文する気分ではなくなっていた。
第五章
あの後のことは、正直よく覚えていない。
「なんで黙って尾行なんてしてたのよ」
帰宅後に先生からお叱りの電話がかかってきたが、そんなことは最早どうでもよかった。
楓は先生を褒めちぎっていて、はたから見ると好意があるとしか思えなかった。それに、髪の毛を触るなんて、どう考えても異性として意識してないとありえない。やっぱり、友達の言っていた通りInderはそういう不健全なアプリなんだろうか。私が女として見られていないだけなんだろうか。
先生は、まだ調べ足りないからと別の日にも楓と会う約束を取り付けたらしい。その話を聞いた時、また胸が痛くなった。これ以上先生と話すと、余計なことを言ってしまいそうだったので、この後予定があるなど白々しい嘘をついて早めに電話を切った。
翌日の仕事も、翌々日の仕事も、今一つ身が入らなかった。
こないだ取材したメンズ地下アイドルの記事の締切が近づいているというのに、一向に筆が進まない。元々、ライスワークとして始めた仕事だ。文章を書くことを仕事にしたくて片っ端から依頼を受けていたら、たまたまエンタメ系の会社から声がかかっただけで、この仕事がしたくてしているわけではない。いつか小説家になりたいという昔からの夢はあるが、食べるための文章を書くことで精一杯だった。
夢は、ナマモノだ。
抱えている時間が長ければ長いほど、どんどん重たくなって腐っていく。読んでいない本が積み上がっていくように、やらなければいけないという焦りだけが年々積み重なっていく。
10代の頃はキャリア、自己実現、結婚、出産。
すべてが当たり前に手に入ると思っていた。
でも、そうじゃないと気づいてからは現実逃避していたように思う。
夢を叶えるには、何かを差し出さないといけない。そんなことはわかっている。マッチングアプリ探偵の助手なんてしてる場合じゃないことも。先生のことを、気にかけてる場合じゃないことも。
頭ではわかっているのに、どうして人は愚かな選択をしてしまうのだろう。
「今日の夜、空いてる?」
頭ではわかっているのに、先生からのメッセージが、たまらなくうれしかった。
私と先生は普段、いわゆるせんべろや赤提灯の居酒屋で飲んでいるのだが、その日指定された店はどういうわけか小洒落たダイニングバーのようなところだった。早く着いたので、パウダールームでメイクのお直しをする。鏡に映った自分は、少しにやけていた。
席に戻る途中で、俳優のような正統派イケメンがジャケットを脱いでいるところを見かけた。どこかで見たことがあるような気がするが、芸能人だろうか。
「え?」
予想外の光景に、私は思わず二度見した。
その男性の座っている向かいに、私の荷物が置いてあったのだ。
見知らぬ男性が、なぜか私の席に座っている。
状況が理解できずにその場でフリーズしていると、聞き馴染みのある声が聞こえてきた。
「お待たせ、碧」
「せ、せ、先生ぇ!?!?」
サラサラの髪、人形のように大きな瞳、美しすぎる鼻筋、厚すぎず薄すぎない整った唇ーーーーーーーそこにいたのは、確かに紛れもなく先生だった。
そう、髪型と服装以外は全部、私の知っている先生だったのだ。トレードマークの長い赤髪がバッサリと切られ、黒に染められていた。
「ど、どうしたんですか!?」
「どうしたって、見ての通りよ。アタシはアタシ」
「いやいや、あんなに大切そうに伸ばしてた髪...なんで切っちゃったんですか!?あ...!もしかして失恋とか!?」
「アンタねぇ...ま、そんなところよ」
何度見ても別人なのに、すぐに先生だと確信した。
含みのある笑い方も、本気なのかふざけてるのかわからない話し方も、いつもの先生だ。
ただ、唯一違ったことがある。
それは、呼び方。
「い、今...名前!碧って...!」
「アタシがアンタの名前呼んだらダメなわけ?」
「いや、ダメってことはないですけど...」
「さ、時間はもうないわよ。さっさと注文しましょ」
「時間がない?どういうことですか?」
「あと1時間くらいしたら、彼女がここに来ることになってるから。二人きりの"デート"の時間はそれまで」
「え、ええ!?」
先生はすべてを言い終わらないうちに、手を挙げてウェイターを呼びよせ、アルコールを注文し始めた。訳がわからぬまま、私も先生と同じものを注文する。
「二人きりの...デート...!?」
鏡を見なくても真っ赤だとわかるくらい、私の顔はほてっていた。
先生が私の頬に触れる。
「アンタ、顔赤いわよ?大丈夫?」
早く、お酒が来てほしい。
これほど切実に願ったのは、人生で初めてだった。
第六章
「先生、なんで私をこの場に呼んだんですか?楓さんと二人きりのほうが、情報を引き出せると思うんですけど」
私は疑問に思っていたことを、率直にぶつけた。
「呼ばなくても、どうせアンタ尾行するでしょ?だったら最初から同席させたほうが怪しまれないかなと思ったのよ」
あまりにも正論すぎてぐうの音もでない。
先生の読み通り、私はきっとなんだかんだで二人の様子が気になってまた先生を尾行していただろう。
あくまでこれは潜入捜査で、先生は楓とデートがしたかったわけじゃないんだと知って、少しホッとする自分がいた。
「ほんと、アンタってわかりやすいわよね」
最早、酒で顔が赤くなっているのか、そうではない理由なのか、自分でもわからなくなっていた。
「先生の新しい髪型、好きです」
「そ。ならよかった」
たった1時間の"デート"は、こうしてあっという間に過ぎていった。
「あ、はじめまして。碧といいます」
「はじめまして、楓です。茜さんから話はお伺いしてますよ」
ふと、楓さんが先生の髪に触れている映像が頭の中をよぎる。この女を警戒せよと、私の脳が爆音でアラームを鳴らしている。先生にその気がなくても、楓さんは違うかもしれない。
「楓さん、こないだはありがとうございました!アドバイス通りにしてみたんですけど、どうですか?」
先生の予想外の言葉に、目が点になる。
アドバイス通り...?
「すっごく似合ってます〜!やっぱり茜さんは、肌が白くて綺麗ですし、髪色を黒にすると肌の綺麗さがより際立ちますね〜。スタイルもいいから、細身のファッションもAラインコーデも似合うし。ほんと、モデルとかやったらいいのに!」
楓さんは、Afterの写真を撮ってもいいですか?と聞くと、テンション高く先生の写真をパシャパシャと撮り始めた。
もしかして、髪の毛に触れていたのも、写真を楽しそうに撮っていたのも、先生を大改造するためだったのだろうか。
すべての点と点が一気に繋がって、肩の荷が降りたような感覚がした。
「えっ!そんな噂が流れてたんですか?知らなかったです」
楓さんは上品に手で口を押さえながらふ、ふ、ふと笑っている。
「確かに、外見が変わって自信がついて、仕事を辞めて地下アイドルになった男の子もいましたね。楓さんのおかげで彼女ができました、って後日お礼にご馳走してもらうこともありました。そっか、確かにお店側からしたら、この人いつも別の男性連れてきてるって思いますよね」
マッチングアプリで出会った男性を大改造して、人生を変えてしまうほどの影響を与えるーーーーーーはたから見たらもの凄いことをしているのに、楓さんはまるで他人事のような語り口調だった。
「別人みたいになるっていう噂も、会社を辞めてしまうっていう噂も、ある意味で本当だったんですね。私も受けてみたくなっちゃいました!」
先生に対する恋愛感情がないことに安堵した私は、すっかりいつもの調子を取り戻していた。
「いや、私は素人だし、女性はやったことがないから...男性のファッションや髪型のことも、こんな感じだったら素敵だろうなーって、なんとなく感覚でやっているだけなの」
楓さんがバツの悪そうな顔で答えた。
先生は、何かを考え込むように黙っている。
これだけセンスがあって、実際に男性たちからも喜ばれているのに、どうして彼女は自信なさそうなんだろう。表情や、声のトーン、言葉と言葉の間に、言語化できない小さな違和感があった。何より、不思議だったのは、これだけ時間もエネルギーもかかることを無償でやり続けていること。彼女に一体何の得があるというのだろうか。私の心が汚れているだけで、彼女は聖人君子なのだろうか。
「素人、ねぇ...」
先生の一言が、澱んだ空気を打ち破った。
その場に、妙な緊張が走る。
「素人じゃないでしょ、アンタの腕は」
「そう言ってもらえてうれしいです。でも、私はそんな大したことやってないので...」
「誰かの人生を変えることは、大したことじゃないの?」
食い気味に、先生が疑問を投げかける。
励ましているのか、叱っているのかはわからない。ただ、目つきも、声色も、いつもの先生のそれとは違って、真剣だということはわかった。
「アンタはちゃんとお金をとらないとダメよ。人の人生を変えるって、変える側も、変えられる側も、覚悟が必要なの。中途半端な覚悟で、褒めたり、アドバイスしたりしちゃ駄目。アンタの一言で、人生が変わるのよ。その覚悟もなしに、"でも私素人だし..."って、免罪符を用意しておくのは、私はハッキリ言ってダサいと思うわ」
「あなたに、何がわかるって言うんですか...!」
さすがの楓さんも、先生の強い言い回しには引っかかったようだ。言葉遣いこそ丁寧なままだったが、さっきまでと声のトーンが明らかに変わっている。
「本当は、お金をとるのが怖いんでしょう?」
「....ッ!」
楓さんは言葉に詰まった様子だった。
何もそこまで言わなくてもいいのに、先生はどうしてそんなことを言うんだろう。
先生は続ける。
「舞台、見たわよ。女優としてのアンタの仕事、完璧じゃない。本番で100%を出すために、普段から200%の努力をしてる、そんな芝居だったわ。だからこそ、趣味でここまで見事に誰かをプロデュースできるんだって、納得した」
先生、楓さんの舞台を見に行ってたんだ。
捜査のためとはいえ、そこまでしていたことに驚く。プロ意識が高い先生だからこそ、違う業界だとしても、仕事を見れば本気でやっている人間かどうかわかるんだろう。
「アンタからしたら、女優が本業で、あくまでもプロデュース業は暇つぶしなんでしょう。でもね、お金をもらってなくても、人生を変えるほどの影響を与えているなら、誰かに求められて仕事をしているなら、それはもうプロなのよ」
楓さんが言い返す。さっきまでとは違う、目の奥に覚悟を感じる眼差しだった。
「そうですね....茜さんの言う通り、私にとって今一番大事なのは、芝居です。でも、暇つぶしというのは違うんです」
「というと?」
「誰も気づいていない、誰かの可能性に気づいて、その可能性を最大限に伸ばすこと。それは、今、私にとっての、生き甲斐でもあるんです」
楓さんは、声を震わせて続けた。
「本当はわかっているんです。私には芝居の才能がないこと。いや...正確にはないわけじゃない。あったから、曲がりなりにも役者としてお金をもらうことができるようになった。でも、もうとっくに限界は見えていたんです。"自分の中で"完璧な芝居はできても、それじゃ人の心は動かせないって、気づいてしまったんです。"お前の芝居は堅すぎる"って、よく周りからは言われてましたね。それで、だんだん芝居がつらくなってしまって、それでも、私にはこれしかないって、言い聞かせて...そうしたら、いつの間にか、本当にやりたいことがわからなくなってしまったんです...」
そう言うと、自分を卑下するような悲しげな笑みを浮かべた。
「それで、息抜きのためにマッチングアプリを始めたんですか?」
「いや、実はそうではなくて。最初は婚活のために、マッチングアプリをやろうと思ったんです。もう、今年で31になりますし。でも、なかなか好きになれる人と出会えなくて。そんな時に、何気なくデートした男性の写真を撮ってあげたら、マッチングできるようになったってすごく喜ばれたんです。それで、髪型はこうしたらいいんじゃない?洋服はこういうのが似合うと思うよって、アドバイスもしたら、今度は彼女ができたって報告が来るようになって...」
「それが、今アンタがやってることに繋がってるってことね?」
「そうです」
楓さんが、どこか遠くの一点を見つめたまま続ける。
いつの間にか私は、彼女の話がどこか他人事のように思えなくなっていた。
「今思うと、現実逃避していたのかもしれません。女優をやめる勇気も、続けるモチベーションもなかった。執着していただけなんです。そんな時に、自分の新たな才能に気づいて。でも、怖かったんです。お金をもらうようになったら、また誰かに評価されてしまう。せっかく楽しくて始めたことも、また、芝居のように義務になってしまうような気がして...」
「だから、無償でやってたってことよね」
先生が楓さんの目をまっすぐに見つめながら言った。
「はい。....でも私、茜さんに言われて気づきました。これは"暇つぶし"なんかじゃない、私が本当にやりたいことは、もう、とっくに見つかっていたんだって」
そう言う楓さんの顔は、なんだか憑きものがとれたような、曇りのない表情をしていた。
たまに言葉に詰まりながら、でも、自分の言葉で、確実に、ゆっくりと、彼女は自分の気持ちを紡いでいた。
「そういえば、先生はどうして彼女にあんなことを言ったんですか?"暇つぶし"なんて言葉を使って、わざと挑発するようなことして」
「ふふ、アンタを助手にしたのは正解だったようね」
先生が、私のほうを振り向いて微笑む。
いつも大胆不敵に笑う先生が、初めて見せた優しい瞳だった。
「アタシの知り合いにね、似たような子がいたのよ。有名大学を卒業して、エリートサラリーマンになっても、漫画家になる夢が諦められなかった。でも、その子は、親から認められるいい子をずっと演じ続けてきちゃってたから、その生き方を捨てられなくて、やりたくない仕事をずっと続けていたの」
先生は続ける。
「でもね、ある時に彼の大好きな人が、その子の漫画を褒めてくれたんだって。彼女の言葉に、踏み出す勇気をもらったみたいでね。そこからは毎日睡眠時間を削って、働きながら漫画を描いては応募して。周りからはもったいないって猛反対されながら、退職して漫画家になったのよ」
「きっと、その漫画を褒めてくれた人も嬉しかったはずですね」
「....そうだといいわよね」
「そうですよ」
小田急線の終電がガタンゴトンと音を立てて、通り過ぎていった。
心地のいい沈黙が、私たちの間を流れていた。
第七章
楓さんのことがあって以来、どういうわけか先生が赤髪に戻すことはなかった。
この頃は仕事も忙しく、なかなか先生と会えなくて寂しい。最後に会ったのは二週間前。私の家にゴキブリがでたので、退治に来てもらったのが最後だ。碧は部屋が汚すぎるのよ、と怒られた。家を行き来するようになっても、相変わらず男女の関係はない。
"探偵と助手"という設定も、もう生きているのかわからない。友達でも、恋人でもない、宙ぶらりんな関係。なのに、不思議なことに、私はこの名前のない奇妙な関係に居心地の良さを覚えていた。
「茜くん、明日って空いてる?」
「日中は仕事だけど、夕方からなら空いてるわよ」
「やった!じゃあ、仕事終わったら久しぶりに飲みに行こ」
ニヤニヤしながら、枕に顔を埋める。
私は書き終わった小説を、もう一度推敲した。
初めて読んでもらうのは、彼と決めていた。
朝のパウダールームは、貸切だった。
リップを塗り直し、姿見で全身をチェックする。
今日は、待ちに待った新進気鋭の漫画家「あんちん」先生の取材だ。絵のクオリティの高さもさることながら、余念のない取材によるリアリティのある描写に定評がある。噂によると、作品のキャラクターになりきって生活することもあるという。年齢、性別、すべてが謎のベールに包まれていて、過去のインタビュー記事を見ても、どんな人物なのかまったく想像ができなかった。
実は、この仕事を受けることが決まる前から、前作も含めて全巻持っている。特に好きなのは、月刊誌で連載中の作品だ。猪突猛進な主人公が、毎回ひらめきで謎解きしていくのが気持ちいい。
ただのファンだと思われないようにしないと。
私は緊張をほぐすためにペットボトルの水を口に含み、ゆっくりと深呼吸をした。
しかし、時間になっても、あんちん先生は来なかった。どうやら遅刻のようだ。
そわそわしながら待っていると、ギィ、という音を立てて取材室のドアが開いた。
「おはようございます〜」
同時に、どこかで聞いた覚えのある、少し掠れた声が聞こえてきた。
「あんちん先生、はじめま...」
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
そこにいたのは、茜くんだったからだ。
「え、え、え、え、えええええええーーー!?」
「朝からそんな大声出さないでよ〜」
「いやいやいや、え、え!?ちょ、ちょっと待って!茜くんって、あんちん先生だったの!?」
「そうよ」
「そうよ...って!なんで今まで隠してたの!?」
平然としたトーンで先生が続ける。
「当たり前でしょ。今をときめく大人気漫画家が、マッチングアプリで出会った相手に馬鹿正直に自分の職業明かすわけないじゃない。あ、でも葉子さんは知ってるか」
確かに思い返せばあの時、葉子さんにファンか、と聞かれていた。あれってそういう意味だったのか。
「もしかして、漫画家を目指すきっかけになった大好きな人ってーーーーーーーー」
葉子さん?と言いかけたところで、茜くんがううん、と静かに首を横に振った。
「今はもう、会えない人よ」
そう言って窓の外を見つめる茜くんの表情は、今まで見たどの茜くんより、柔らかくて、温かくて、悲しそうだった。
その目を向けられていた相手と、どういう関係だったのかが、痛いほど伝わってくる。
「茜くんは、その人のことが大好きだったんだね」
どれだけ言葉を尽くしても、私が彼の心を癒すことはできないだろう。もう会えないその人を、私が越えることも。
それでも。そうだとしても。
私が彼の傷ごと、抱きしめてあげたい。
この仕事が終わったら、自分の想いを彼に伝えよう。
そう決めて、取材を再開した。
茜ちゃん、あーちゃん、あんちん...
言われてみれば名前の響きも似ていると気づいたのは、帰りの電車の中だった。
「すみません、ハイボールもう一杯ください!」
私は二軒目になっても、言いたいことを切り出せずにいた。緊張を誤魔化すように、自然と飲むペースが早くなる。
「そういえば、なんで茜くん赤髪に戻さないの?」
「なんでって、戻す必要がないからよ」
「えー、赤髪の茜くんも好きだったのにな」
「....あ、そう」
「んもー、ほんとはうれしいくせに〜!」
「うるさいわねえ...」
茜くんが私のほっぺを摘むと、唇がタコのようになった私の顔を見て爆笑する。
「あのね、お願いがあるの」
真面目な顔で、じっと茜くんの目を見つめる。
「私が書いた小説を、最初に読んでほしいの」
私の心臓がバクバクと騒いでいるのも
目の前がクラクラするのも
お酒が入ってるからじゃない。
「それだけ?」
茜くんが白々しく聞き返す。
「...付き合ってください、先生」
なんだかいい匂いがする、と思った次の瞬間、私はぐっと抱き寄せられていた。
「アンタって、やっぱりセンスあるわね」
茜くんが、少し照れくさそうに笑った。
その日、初めて私と彼の関係に"探偵と助手"ではない名前がついた。