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『七階の窓』

    にゃん

    ※お願い

    朗読の際は、作者名「にゃん」と作品掲載先(note)をご紹介いただけると嬉しいです。
    無断転載・無断使用はご遠慮ください。



    夜中の零時を少し過ぎた頃だった。
    枕元で鳴るスマホの音に目を覚ます。
    画面には姉の麻美の名前が表示されていた。
    こんな時間の電話に嫌な予感がした。

    「もしもし」

    電話の向こうで姉が静かに言った。

    「病院から連絡きた。お父さん、意識がないって。いつどうなるかわからないから来てほしいって」

    私は短く返事をして電話を切った。
    慌てて着替え、夫と一緒に病院へ向かう。
    夜の道路は不気味なほど静かだった。

    病室へ着くと、姉はすでに来ていた。

    ベッドの脇に立つ姉の手にはコンビニの袋があった。
    中から牛乳のパックがのぞいている。
    父は最近、牛乳が飲みたいとよく言っていた。
    姉は牛乳を持ち上げながら笑った。
    「せっかく今日買って置いていったのに……飲まないんかい!」
    そう言って笑いながら泣いていた。

    医師の説明を聞き、看護師の指示を受ける。
    頭の中ではもう次にやるべきことを考えていた。

    父が亡くなった後も同じだった。
    母も入院していたため、喪主は夫が務めることになった。
    私は跡取りだが、夫は婿養子である。
    父のことをよく知らない夫に代わり、葬儀会社との打ち合わせも、親族への連絡も、細かな確認もほとんど私が行った。

    通夜までの準備は目が回るほど忙しかった。
    斎場に泊まり込んだ夜は、一人で翌日の段取りを確認した。
    僧侶の到着時間。
    会食の人数。
    返礼品の数。
    火葬場への移動。
    やることを一つずつ潰していく。
    悲しむ暇などなかった。

    気が付けば通夜が終わり、火葬が終わり、葬儀も終わっていた。
    全てが終わった帰り道。
    私の胸に残ったのは、

    ――終わった。

    ただそれだけだった。

    数日後。
    祭壇に飾られた父の遺影をぼんやり眺めていた。
    無表情な顔だった。
    私は父に可愛がられた記憶がない。
    入院した時も見舞いに来なかった。
    学校行事にも来なかった。
    誕生日もよく忘れていた。
    何か買ってもらった記憶もない。
    思い出そうとすると、そんなことばかり浮かんでくる。

    父はいつも姉を呼んでいた。

    「麻美」
    「麻美」

    何かあれば姉だった。
    話好きな姉は、病院への送迎の車の中でも父とよく話していたらしい。
    両親とも通院が必要になってからは、姉が父を、私が母を送迎していた。
    父と顔を合わせても会話はほとんどない。
    何を話せばいいのかわからなかった。
    父もそうだったのだろう。
    だから父は姉の方が好きなのだと思っていた。
    それが当たり前になっていた。

    夕飯の支度をする。
    煮物を作った。
    味見をした瞬間、不意にある言葉を思い出した。

    「弥子は煮物作るの上手いな」

    父の声だった。
    思わず手が止まる。
    そういえばそんなことを言っていた。

    「麻美には言うなよ」

    少し照れたように笑いながら。
    私は鍋を見つめた。

    すると今度は別の記憶が浮かぶ。
    庭で育てていた花が咲いた時のことだ。
    父は玄関先から声をかけてきた。
    「弥子が育てた花、咲いてるぞ」

    高校生の頃だった。
    身体が弱く、友達がアルバイトを始めても私はしていなかった。
    そんな時も父は言った。

    「弥子は身体弱いんだから、バイトなんかしなくていい。学校ちゃんと通え」

    私はゆっくり息を吐いた。
    なんだ。
    ちゃんと思い出あるじゃないか。
    派手な思い出ではない。
    抱きしめられたこともない。
    誕生日を盛大に祝われたこともない。
    だけど父はちゃんと見ていた。
    私のことを。

    遺影を見る。

    さっきまで無表情だった顔が、少しだけ照れているように見えた。
    思わず笑ってしまう。
    「なんだよ」
    そう呟いた。

    それからしばらくは手続きの日々だった。
    銀行。
    保険。
    年金。
    名義変更。
    役所。
    毎日のようにあちこちを回る。

    ある日、車を運転していてふと気付いた。
    見慣れた道を走っている。
    信号を曲がる。
    交差点を抜ける。
    そして私は病院の前にいた。
    父が入院していた病院だった。
    無意識だった。
    身体が勝手に向かっていた。
    車を停めて見上げる。
    父がいた七階。
    何度も見た窓。

    その瞬間だった。

    胸の奥で何かが崩れた。

    「あ……」

    小さく声が漏れる。

    もういないんだった。

    あの窓の向こうに行けば会えるような気がしていた。
    病室に入れば父がいて、
    いつもの無愛想な顔で座っていて、
    何か一言二言話して、
    帰り際に「気を付けて帰れ」と言う。
    そんな気がしていた。

    だけど、もういない。

    もう二度と会えない。

    その事実が胸に突き刺さった。

    私は七階の窓を見上げたまま泣いた。
    父が亡くなった日も。
    葬式の日も。
    火葬の日も。
    泣かなかったのに。
    誰もいない病院の駐車場で。
    まるで子供みたいに泣いた。
    涙が止まらなかった。

    七階の窓は静かだった。
    私は涙を拭きながら、小さく笑った。

    「帰ろっか」

    そう呟いて車に乗り込む。
    振り返らずに車を走らせた。

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