嫌な、おもんないやつ
芸人をしている。
日々、おもしろをしている。
日々おもしろをするうちに、生きる上に不可欠な考え方を手に入れたもので、この凄惨な社会を生きる貴方方に、その日の思考を手向ける。
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生きているとどうしても、嫌な奴に出会う。
嫌な奴との出会いというのは、自室を一歩も出ない限り避けられないものである。
しかし、どんな嫌なことされてもそいつは、私よりおもんないので可哀想である。
そもそも嫌なことをするような奴は大概おもんないのである。
可哀想である。
おもんないやつをおもろいと思ってる奴にも腹が立つが、そいつも漏れなくおもんないのである。
可哀想である。
しかし致命的に、私はおもろいので、おもんないやつのおもんなさをおもろさとして捉えることができる。
そうなると、おもんないやつはおもろいやつに成ってしまうので腹が立つが、私がおもろいばかりにそいつはおもろくなってしまっているのであって、自分よりおもろい人間に、おもろくしてもらっているそいつは哀れで、やはり可哀想である。
そういう意味では、この世界に1人でもおもろいやつがいた場合、おもんないやつなど存在できないのである。
逆に、嫌な奴が自分よりおもろいやつだった場合を考えると、ものすごく悲しくなって、おもんないやつが、おもんないやつでよかったと安堵するけれど、苦しいことに、そんな自分をとてもおもんなく感じてしまうけれど、この世界には松本人志がいるので、そんな自分もまた、おもろいのである。
よかった。