
いろいろラクになってきた。
会社の同僚が産休に入った。
彼女は私より10コくらい年下だけど私よりずっとしっかりしていて、服装も言葉遣いもきちんとしている。
仕事は確実で手堅く、周囲に気を配りながらも筋を通す強さがある。
私生活では確かなお相手と数年間おつきあいした後に結婚、ちゃんと式も挙げた。私も含め会社から招待された人たちの席次は完璧だった。
女性どうしだと何かと気を遣うであろう妊娠の報告をスマートにこなし、産休に入る前の挨拶と気配りはさりげなくも行き届いていた。
はー、何もかもちゃんとしてるなー。社会人としても女としても正解を出し続けていてすごいなー。
いつもそんなふうに思って見ていた彼女に「またねー」と挨拶した私の気持ちは、カラッとパリッと晴れていた。
彼女に幸せが増えることがうれしかった。
結婚、妊娠、出産と、自分にはできないことを着実に経験していく彼女が頼もしく、まぶしく見えて、そんな後輩がいることが誇らしかった。
結婚も出産もなにひとつ経験していない自分と比べてどうこう思う気になんて、1ミリもならなかった。本当に。決して強がりではなく、本当に少しも、だ。
正直、30代の頃は、結婚して辞めていく人に対してうらやましいとか、いいなーとか、思っていた。
どうして自分は結婚できないんだろう、他の人はなぜ普通に結婚していくのだろう、と不思議に思うこともあった。
さらに懺悔すると、「あんな人でさえ結婚できてるのに、それができない私って・・・」と落ち込んだこともあった。
そこから少し時間がたって40代前後になると、「結婚してたらラクなんだろうな」と思うことが増えた。
私が独身なのかバツイチなのか、子供がいるのかいないのか、初対面の相手が気を遣って聞いてこない(聞けない)状況で、上辺だけの虚無な会話が続くとき。
職場で連休の話題になり、それぞれの家族の予定が披露されていくのを興味ありそうなふりをして聞いているとき。
買い物や不動産手続きなどで、女ひとりだとナメた態度をとられたとき。
悪意のない「奥さん」の呼びかけに、過剰に反応してしまうとき。
親が気を遣ってなにも聞いてこなくなったとき(何気にこれが一番堪えたかも)。
そういった、結婚していたら体験しなくて済んだであろう気まずい空気や状況にさらされるたびに、「結婚してたらラクなんだろうな」と思ったし、同時に「独身でいる理由」を求められているような気分にもなった。一人でいるもっともらしい理由があれば、まだ生きやすいのかな、なんてことも思っていた。
家族という社会的なコミュニティに属している、あるいは属さない明確な理由がある、どちらかを選べたらどんなにラクだろう、なんて、ぼんやり考えたりしていたっけ。
そしてその時期も通り過ぎ40代も後半に入ると、心の曇りは急に晴れ、ついになにも思わなくなった。
友人の妊娠を聞けば「よかったねー!」と心からお祝いが言えるし、後輩が結婚すると聞けば「おめでとー!」と思い切り喜べる。他人の幸せに心が乱れない、なんて清々しい心境だろう。やっと真人間になれた気がしている。
そんな心境になれたのは、おそらく私にとってそれらが完全に「他人事」になったからだろう。いつか自分にも訪れるんじゃないかという淡い期待が自然消滅し、自分から完全に切り離された「関係のないこと」として受け止められるようになった。自分に関係ないことだから嫉妬しない。自分に関係ないから傷つかない。無関係だから無責任に喜べる。結果、見聞きすることすべてに「あらよかったわねー」と邪念なく応じられる近所のおばちゃんみたいな境地になりつつあるのだ。
鈍感になっただけかもしれない。
女として大切な感情を手放してしまったのかもしれない。
いやもしかしたら、いちいち動じない強い心を手に入れたということなのかもしれない。
退化か進化かはよくわからないが、でもこうなってみて思うのは、生きやすくなったな、ということ。自分の中のジトっとした感情に触れなくていい、そういう自分を嫌悪しなくていい、というだけでも、だいぶいい感じだ。負け惜しみでもなんでもなく、本当に心からそう思えるなんて、私の人生すごろくもなかなかいいところまで来たんじゃないかな、と思ってみたりする。
彼女が産休に入って数日後、資料を借りようとデスクを見たら、未開封の梅塩昆布が置いてあった。小腹が空いた時によくつまんでいたやつだ。賞味期限を見ると1年くらいは持つらしい。置いておこうか、もらっちゃおうか、すこし考えることにする。
一年後もきっと私は相変わらずで、いろんなことが変わって帰ってくる彼女とまたここで再会できるはずだ。
そのときを楽しみに、待ってるよ。